12.ねずみの時間はもう終わり
――まさか、一人でサロンに向かったのか。
ブラムが運んだ手紙を読み終え、マティアスの頭に浮かんだのはその一言だった。
彼女にとっては他国の城内。偽物に成り代わられた王女が本来の姿で移動するとは思えないが、ハムスターの姿で人間に見つかったらどうなるか。
マティアスが連れていた事を覚えている者もいるだろうが、連れ歩いたのは今日だけだ。
まだ知らない者が見れば「変わったねずみ」。追い回されるだけならまだしも、気付かず踏みつぶされる可能性、捕まる可能性、人間と知らぬまま殺される可能性もある。
「馬鹿な真似を…!」
「どうしたんです?血相変えて」
「ケイス、何もない顔をしてついてこい。」
「――はっ。」
手紙を懐にしまいながら、マティアスは早足に歩き出す。
ルルが人間だとわかった時点で、彼女の小屋にはもっときちんとした鍵をつけるべきだったのだ。なぜ大人しくあそこにいてくれると信じ込んだのかと、マティアスは自分を責めた。
相手は王女からハムスター暮らしになってもさして動じない胆力の持ち主だというのに。
「ブラム、どこを目指すかはわかっているか?」
《今日君とおチビさんに会った部屋だろう?》
「先に走って無事か見て来てくれ。何か起きていたら対処は任せる」
《だろうね。任されたよ》
マティアスやケイスが走っては城の誰もが「何事か」と騒ぎだしてしまう。
ブラムは納得したような鳴き声と共に駆け出し、あっという間に見えなくなった。普通の猫のようにおっとり暮らしていても、彼は魔物なのだ。
「ケイス。これから人に会うが、二人にしてほしい。お前は部屋の近くで見張りを。」
「御意に。しかし、安全な相手なのでしょうね。」
「俺より遥かに弱い事だけは確かだ。」
「なるほど?」
「ブラムもいる。その心配はいらない」
走れない事がもどかしく、マティアスは眉を顰めた。
部屋に帰ったらどんな顔でルルに会おうか、どうやって協力を頼もうかと考えていたが、遅すぎたのだ。
――彼女が正体を明かしやすいよう誘導すべきだった。他国の王族に明かすわけにはいかないと、俺と同じ事を考えたのだろう。信用してくれとこちらが示すべきだったんだ。呑気な様子だと油断していた、部屋を勝手に抜け出すとは!
《ふふっ…おかしなこと……王女だった頃より、幸せみたい》
ナッツを食べたり、転んだり、怒ったり、どじを踏んだり、眠ったり。
昨夜会ってから色々な表情を見せてくれた、小さな王女。今この瞬間にも彼女が危険な目に遭っているかもしれないと思うと、マティアスは気が気ではなかった。
階段を上る間にも、敷かれた絨毯に爪をひっかけて一段ずつ上ったのだろうかと余計な思考が割り込んでくる。サロンのある階に辿り着くと、足音を聞きつけたブラムの声が聞こえた。
《無事だ、マティアス。焦らず来るといい》
「ありがとう、ブラム。今行く」
「…この向こうですか?」
「ああ。ここで待っていてくれ」
ケイスは頷き、曲がり角で壁に寄り掛かる。
サロンの扉の前にちょんと座っていたブラムは、マティアスが来ると耳をぴんと揺らして立ち上がった。扉の隙間からは微かに明かりが漏れている。
平静を装いながらも小さく唾を飲み、マティアスは扉を二回ノックした。
「俺だ。手紙を読んで来た」
言いながら、初めて会うという設定においては失敗だと悟る。マティアスが名乗らなかったのは相手がルルと知っているからこそだ。数秒待ったが、中から返事は無い。
《入ろう、マティアス。》
「…失礼する。」
扉を開けると、涼やかな風が吹いた。
薄暗い部屋のシャンデリアは火が入っておらず、テーブルやキャビネット、壁などに設置された燭台にだけ火が揺れている。誰もいない。
後ろ手に扉を閉めたマティアスの視線は、最奥の開いた窓に向いている。カーテンがはためいていた。足元をするりとブラムが通り、その額縁にごろりと寝転んだ。
他に人のいない部屋をちらりと見回しながら、一歩、二歩とそちらへ近付く。
「騎士を連れずに、来てくださったのですね。」
「っ!?」
背後から声がして、マティアスは咄嗟に振り返り一歩後ろへ退いた。
いつの間にそこへ現れたのか、目を伏せた銀髪の女性が丁寧に淑女の礼をする。ルルの姿で扉の影にいたのだろうとすぐに察したマティアスの前で、彼女は顔を上げた。
「初めまして、王太子殿下。私はクロイツェル国王アンドレアスが娘、第二王女ヴァルトルーデ・アンネリーエ・クロイツェルでございます。」
礼節をもって微笑んだ彼女の瞳は青く、その眼差しは穏やかだ。
色の白い肌は滑らかで、ハムスターになっていた身では化粧もろくにできていないだろうに、頬はうっすらと赤く、桃色の唇は花びらを添えたかのようだった。
着ているデイドレスは左袖が途中から切り取られているが、それをみすぼらしく感じない程の気品ある佇まいをしている。マティアスは努めて冷静に頷き、優美に一礼した。
「初めまして、本物の第二王女殿下。俺はマティアス・フィン・アーレンツだ」
「まずは、この場へお越し頂き誠にありがとうございます。あらゆる礼儀を欠いた手紙を綴り、また此度は多大なるご迷惑をお掛けしていること、深く謝罪致します。本当に…」
「そのような事はいい。座って話をしよう」
エスコートの為に差し出された手にヴァルトルーデは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直して「ありがとうございます」と大人しく手を借りた。
ローテーブル越しに対面で置かれた二人掛けソファの手前側へ導かれ、静かに着席する。部屋の奥にあたる窓側のソファに腰掛け、マティアスは膝に乗せた手を組んだ。
――なるほど確かに、偽物もよく似せてはいるが。
夕食を共にした相手と今目の前にいる彼女とではやはり違う、マティアスにはそう感じられた。
ルルへの情もあれば、彼女自身にもルルとしてのマティアスへの情があるのだろう。礼節を保ちながらも、ヴァルトルーデの瞳には信頼が見える。
そこへ蝋燭の火が反射する光を見ていると、ゆらりと瞬いた彼女は恥じらうように目をそらした。胸の奥でチリ、と何か燻った気がして、マティアスは心の中で疑問符を浮かべる。
「こ、このような格好で申し訳ありません。今はこれしかなくて」
「気にしなくていい。」
「…ありがとうございます。」
マティアスは服を見ていたわけではないとわかっていて、それでもヴァルトルーデは袖のない左手首を軽く擦った。
一分の隙も無い容姿に体格、衣服、佇まいまで揃った王太子を前に、不完全なドレスを着て化粧もせずに相対している自分が恥ずかしくなったのだ。
――こんな方に世話を焼かれて、頭を撫でて頂いていたなんて。ハムスターの時とはいえ……今はとにかく、話をしなければ。呼び出したのは私なのだから。
小さく咳払いをして、ヴァルトルーデは姿勢を正す。
膝の上に両手を揃える事で、右袖を使って多少は裂けた左袖を隠しておいた。
「殿下がお調べになっている私の偽物について……彼女はカルラといって、幼少期より影を勤めている者です。私の不手際ですが……二年ほど前から、勝手をしていたようで。」
「貴女の、異性関連の噂だな。」
「はい。当時私は何が起きているか側近に調べさせておりましたが、何も掴む事はできず。今回貴国から招待を頂き、移動する間に命を狙われました。その時、カルラの固有魔法を知ったのです。それは魅了ではなく、」
「己の言葉を信じさせる魔法」
「――…御見それ致しました。仰る通りです、殿下。」
僅かに見開いてしまった目を意識的に戻して、ヴァルトルーデは頷いた。
マティアスは「教えてくれた者がいてな」と続けたので、もしかするとデルクス長官かと考える。
「調べさせても何も出てこない事も、…父が話を聞こうとしなかった事も。そこで納得致しました。」
「殺されかけた貴女は、どうやってこの城に?」
「私もとある魔法が使えますので、それによってどうにか。この袖は逃げおおせるために自分で切ったもの…崖上に残して参りましたから、カルラは私が死んだと思っているはずです。」
「……貴女が本物の王女であるという証明は、できるだろうか。」
ヴァルトルーデの話がひと段落つくのを待ち、マティアスが尋ねた。
入れ替わりなど起きておらず、目の前にいる女こそ影である。その可能性を潰さねばならない。
赤い瞳は真っ直ぐにヴァルトルーデを見ている。
「三百二十七年前、我がクロイツェル王国は貴国と終戦致しました。」
「確かに。八の月だ」
「条約締結の折、その書面は特殊な糸をもって束ねられております。内々に決めた事ゆえ、それを知るのは生涯の友であったとされる互いの王のみ」
「…そこまででいい。聞いている者がいるからな」
ちらりとブラムを見やってマティアスが言う。
しっかりと聞き耳を立てていた魔物は、《バレてしまったか》と楽しそうにうにゃうにゃ笑った。
「証明は充分だ、第二王女殿下。…貴女は一人で待っていたようだが、護衛は足りているのか?」
「いいえ。今の私に手札はなく、己の身一つという状態です。……無論、固有魔法は誰にも知られておりませんし、このまま逃げて別の生活を送る事も――…大変、魅力的ではあったのですが。」
何を思い出してかくすりと苦笑し、ヴァルトルーデは「失礼」と居住まいを正す。
このまま死んだ事にして姿を消すのは簡単だが、カルラに「クロイツェル王国第二王女」の全てを託す事はできなかった。
「たとえ王位を継がずとも、私はクロイツェル国王の娘。二年に亘る噂の元凶がわかった今、犯人に成り代わりを許してよいはずがありません。」
「その誇りも重んじよう。アーレンツとしては、本物である貴女の保護を申し出たい。」
「…ありがたい事です。王太子殿下」
マティアスを見つめ、ヴァルトルーデは丁寧に頭を下げる。
たった一つテーブルを挟んでいるだけだというのに、ハムスターのルルとして接していた時とは比べようもないほど距離を感じていた。
――この方はもうルルにとっての「優しいマティアス殿下」ではなく、「アーレンツ王国の王太子殿下」……これからのためにも、失礼のないよう振舞わなければ。
ヴァルトルーデが顔を上げると、マティアスはほんの僅かだが眉を顰めていた。
不機嫌によるものではなく、何か思案している様子だ。小さく頷いて、ヴァルトルーデは口を開く。
「かの者の罪を暴き地位を取り戻した暁には、私にご用意できるものであればお渡ししましょう。ご協力くださった殿下へ」
――そしてたった一日だけれど、ルルを傍に置いてくださった貴方様へ、
「最大の感謝を込めて。」




