10.王太子殿下、動揺する
捕えたねずみが隣国の王女だった。
「どういう事だ………?」
「何がですか?」
無意識に声が漏れていたらしい。
資料を整えていたケイスに聞き返され、「何でもない」と答えた。執務室で仕事を捌きながら、頭に浮かぶのは自室に残してきたルルの事だ。
《――このヴァルトルーデ・アンネリーエ・クロイツェル。貴方様に受けたご恩、生涯忘れる事はないでしょう。》
あの発言が真実なら、小動物用の小屋に戻していいものなのか。
悩みはしたが、仮にもし本当に本物のヴァルトルーデ王女だとしたら、他国の人間に俺の固有魔法を教えるわけにはいかない。
何も知らないふりをして、「しばらく仕事をしてくる」とルルを小屋に帰した。
ハムスターのルルが、ヴァルトルーデ王女?
馬鹿な。それならなぜ今までそう言わなかった?言葉が通じないにしても。
俺が彼女に魔法を明かせないように、他国の人間だからこそ信用できなかったか。万一を危惧してそこだけは黙っていたのか。俺が聞こえていないふりを続けたから、わからないだろうと確信してつい喋ったまでの事か。
《…あの子に心酔する騎士に追われ、なんとか逃げ切ったものの、そこは森の中。》
そんな危険を潜り抜けた先で他国の人間に掴まり、なぜああも能天気だったんだ。
水をひっくり返したり、オレンジの汁で悶絶したり、洗い流そうとして溺れかけたり……仮にも十八歳が、いや、ハムスターの姿だからこそなのは、わかるが。
《名前?うーん……それは確かに悩みますね。お供させて頂くにあたって、無いのも変ですし》
名乗れ。
名前の話になったのだから、俺に聞こえてないと思い込んでいたにしても、名乗るだろう。普通は。違うのか?
あそこで「ヴァルトルーデという名があるのですが」とか何とか言われていれば、俺とてもう少しは配慮して扱っていた。
しかし……やたら「淑女になんて事を」だのと言っていたのは、そういう事か。
成人した女性に、それと知らないケイスを近づけたのはまずかったな。動物の健康状態を知るために飼育者が糞の状態を確認するのはよくある事だが、王女相手にその発言は異常者だ。知らなかったにせよ。
「何ですか、私をじろじろ見て。」
「一生知らない方がいい事もある、と思ってな。」
「な、なんですか……!?」
怯え始めたケイスから視線を外し、手元の書類にさらりとサインした。
普段より仕事の処理が遅い自覚はあるが、思考を別に割かれているから当然の事だ。ページをめくった先に円形の図が記されており、白く丸い生き物を思い出す。
《私…立派な雇われハムスターとして、がんばりますからね…でんか……》
頑張ろうとするな。何が雇われハムスターだ。
働かないかと誘ったのは俺だが、君はもっと王女として主張すべきだったんじゃないのか。新環境への順応が早すぎる。
言いたい事が頭の中に山ほど湧いてきて、小さく舌打ちした。ルルを撫でて癒されたい。違う、あれは人間だ。
「庭で先んじてお会いになった事は聞きましたが……そんなに、ひどいものでしたか?」
俺が苛立っている理由を偽王女のせいだと解釈して、ケイスが尋ねてきた。
以前から俺はあからさまな色目を使ってくる女が嫌いだから、そうされたと思ったのだろう。ペンを置いて椅子の背もたれに身を預ける。
「…ひどいとまでは言わん。少々、親しさの押し売りめいたものは感じたが。」
「嫌だったんじゃないですか。」
実際あの偽王女は、ルルと同じように振舞えてはいないのだろう。
ルルは俺が自ら許可するまで、聞こえていないと思っていても俺の名を呼ばなかった。
偽物の方は図々しくも、自分が許す事で俺にも許可を出せと暗にねだってきた。敢えて乗ったが、もちろん気は進まない。
「王女殿下は少なくとも、騎士の数人とは関係を持っていそうですよ。殿下は一途な子じゃないと駄目だから、論外ですね。」
「お前、俺の立場をわかった上で言ってるんだろうな。」
「もちろんです、王太子殿下。貴方の妻には絶対の貞淑さが求められる。……ですが、どの道個人的にも無理でしょう?自分も絶対に浮気しないだろうし。」
「当たり前だ。」
俺は父上とは違う。
王の私生児という立場が子供の人生に何をもたらすか、それを理解している。結婚したら生涯、その女性だけを傍におくべきだ。
「何が悪い。」
「悪い事はありません、正しいです。正しいのですが、事実として殿下、異常なくらいモテるのに未だ婚約者も決めてないじゃありませんか。陛下も王妃殿下も心配されていますよ。」
「優先順位が低いだけだ。そんな話をするくらいなら手を動かせ。」
婚約者になる令嬢を決めろとは、四、五年前から言われていた話だ。
二年ほど前、俺が二十歳になったあたりで頻度が高くなった。最近は「二十五歳までに結婚するように」と言い出している。父上が母上を娶った歳だ。
「国内で駄目なら国外で。一人目が男好きという噂があるヴァルトルーデ殿下だったのは、二人目以降の心証を上げるため。陛下の作戦、わかっておられますよね。」
「しつこいぞ。」
「これを面白がったデルクス伯が私的に調査し、第二王女殿下の周囲には、彼女に心酔する一派がいるとわかった。」
ヒルベルトはそれを、「魅了の魔法」ではないかと言った。実に、楽しそうに。
その時には既に、アーレンツの招待に対する承諾の返信が届いていた。ヴァルトルーデ王女が来る事は決まっていたのだ。
「もし殿下の推察通り、彼女が偽物だとしてですよ。本物って、どうなんでしょうね。」
「……何だ、どうとは。」
てっきり「どこ」と聞いてくるだろうと思ったが。
俺の方を振り返ったケイスは軽く腕を組み、眼鏡を指先で押し上げた。
「クロイツェルの第二王女は、元は評判の良い人物だったはずです。男遊びをしたのが全て偽物なら…本物がどこかで生き延びている場合は。殿下、真面目に考えてもいいのではありませんか?」
「真面目に考えているだろう。クロイツェルに対する要求、こちらがかけた労力を」
「いえ、婚約の話です。」
「婚約?」
聞き返せば、ケイスはさも当然のように頷き返してきた。
妙に腹の立つ顔に見えるのは気のせいか。
「偽物を捕えて正体を暴いてやれば、本物が戻ってこられる。王女殿下にとって貴方は英雄でしょう。」
「捕える事も正体を暴くのも、俺が命じて騎士がする事だ。俺一人の成果ではない」
「臣下の力添えを忘れないところ、尊敬していますけど。今私は、女性の口説き方の話をしています。」
「どこがだ。」
「一つの手だと言っているんです。」
苦笑するケイスに片眉を上げてみせる。
確かにルルは、俺を恩人と言って礼を重ねていたが――…待て。それはつまり、ルルと婚約しろという事か?
脳裏に浮かぶのは、傾けたコップに頭から突っ込んでもがいていたねずみの姿。
流石にどんくさ過ぎると、下半身をひっつかんで引きずり出した自分。
《お、お尻を掴んで引っ張られるなんて、げほっ。…お嫁に行けないかもっ、こほ……》
「責任を取れと?」
「お、大げさですね……救ったら必ずそうしてください、というわけではありませんが…」
ケイスはまだごちゃごちゃと言っていたが、俺はふと考えてしまった。
今のルルは、どういう状態なんだ?
《お、お言葉ですが。お嫁にいける歳です、私。》
……さすがに、服は着ているよな。
見た目は完全に着ていないが、感覚としてあるのではないか。女性が全裸で堂々としていられるはずはないだろう。それも王女だ。さすがにそれは、ない。ありえない。
でないと俺は、知らないうちに裸の女を掴んだり撫でたりしていたという事に――妙な汗をかいてきた。ケイスが余計な話をだらだら続けるからだ。
「殿下。殿下!王女との会食時間です、行きますよ。」
「…ルルが、寒がっているかもしれない。布かなにか、」
「何ですか急に、小屋はおがくずだらけですから平気でしょう。どうしてもなら俺がやっておきますから…」
「お前を近付けるのが一番危ない。」
「はい!?さすがに心外です、殿下!」
こいつを行かせたら確実にルルが怯える。
最悪、戸を開けたところから逃げてしまう可能性すらあるかもしれない。
夕食を終えたらどんな顔で部屋に戻ればいいのか。
ヴァルトルーデ王女を演じる女と食事をしながら、頭の片隅ではずっとルルの事を考えていた。
指輪を外していても、つけていても、偽物の姿形は変わらない。
どうやらあの姿は魔法を用いられたものではなく、生来のものを化粧などで整えた結果に過ぎないらしい。声もよく似せていた。
ルルが人間の姿になったなら、あれと同じ顔形で、どんな表情を浮かべるのだろうか。
食堂を後にすると、ケイスがこちらに一歩近付いて「確かに、割と大人しかったですね」と言った。
本名をカルラというらしいあの女は、物理的な距離を無理に縮めようとしたり、明確に気を持たせるような言動をする事はなかった。挨拶した当日からそんな振る舞いでは王女らしくない、それくらいは「男好き」の影武者でも理解しているか。
「どうやって化けの皮を剥がします?武力面はこちらが上ですから、その気になれば制圧はできますが。」
「……本物の協力はいるだろうな。」
「やはりそうなりますか。しかし、探せますか?もちろん、生きている可能性から疑っておられるとは思いますが」
「あてはある。お前にはまだ言えないが」
「私に、まだ言えない?それはまた厄介そうですね。」
固有魔法がかかわる話だからな。
ルルに俺の魔法を明かさず、本物のヴァルトルーデ王女の協力を得る。それをどうするか。
《ようやく終わったかい、マティアス》
「ブラム?」
鳴き声が聞こえた方へ目をやると、ブラムが早足に駆けてきた。
黒いマントと背中の間には何やら紙が挟まっている。ヒルベルトからの報せか?
「手紙持ちだ。デルクス伯からですかね」
《いいや、ヴァルトルーデ王女からさ。本物のね》
「…ケイス、いい。俺が受け取る」
「わかりました。」
俺が手を伸ばすと、ブラムは軽く頭を下げた。
封筒に入ってすらいない、ただ紙を折っただけの手紙を受け取る。
《マティアス。君は彼女の正体を知っていたのかい?》




