1.小さな小さな王女様
ヴァルトルーデ・アンネリーエ・クロイツェル。私の名だ。
なんだか強そうな名前だと思うし、実際に生まれは強い。なにせ王家なので。
長い銀髪に青い瞳、今年で十八歳になったクロイツェル王国の第二王女。それが私の正体であり――…ちんまりとテーブルに乗って小皿のナッツをかじる、薄い灰色の毛に黒い目をした小動物。これが今の私である。
「見た事のないねずみだな、君は。魔物にしては弱そうだが」
かぽんとかぶせられたフードカバー越し、頬杖をついてソファから私を眺めている美丈夫はマティアス・フィン・アーレンツ。
現在二十二歳の、隣国アーレンツ王国の王太子殿下だ。左へ流した金の短髪に赤い瞳、噂に違わずお美しいけれど、軽く擦ったその右手には赤い線が走っている。……すみません、私です。
人が寝転んでいるとは知らずにソファの前を駆けていたところ、この方に見つかってむんずと鷲掴みにされたのだ。かよわい乙女の抵抗としては仕方が無かったと思う。
《……人がハムスターと呼ぶものです、殿下。魔物ではありません》
はきはき声を発したつもりでも、喉から出るのは「チー」とか「キュッ」というねずみの声だ。
長い睫毛に縁どられた殿下の目が、ふわりと瞬いた。
《…なんてお伝えしても。むぐ、もぐ。…殿下には、私がチーチー鳴いてるようにしか聞こえないでしょうけど。》
「クロイツェルの姫がペットを連れてくるとは聞いていない。……野生にしては身綺麗だが。」
《その姫とやら、……気を付けた方がいいですよ。》
ぽりぽりとナッツをかじる合間に、意味がないとは知りつつ言っておく。
私がこの姿なのは自分の意思であり、自分の意思ではない。やむを得ない事情があったのだ。
《影が成り代わっていますもの。むぐ……男好きという噂も全て、彼女がやったこと。》
◇
仲の良い友人だと思っていた。
お父様の部下が見つけてきた、髪と瞳の色が私にそっくりな女の子、カルラ。顔立ちだって少し調整すればよく似ていたし、作法も座学も身を清めるのだって、同じものを受けてきた。
つらい事も楽しい事もあの子と共有して。圧し掛かる責任が重く感じた時だって、彼女はわかってくれた。
『今夜は一人で過ごしたいから、貴女が私のベッドを使うといいわ。』
『またですか?ちゃんと安全には気を付けてくださいね。』
『もちろんよ。必ず戻ってくるから。』
『はい、行ってらっしゃいませ。ヴァルトルーデ様』
私を笑顔で送り出して、笑顔で迎えてくれた。
そんな彼女に私の固有魔法を明かさない事は、後ろめたかったけれど……今こうなってみると、「一生誰にも言わないくらいが丁度いい」と教えてくれたお母様は、正しかったのだろう。
私の魔法はハムスターになれること。
普段は全然強くない、でもちょっと楽しいだけの魔法。寝室をカルラに任せて、衣装部屋の隅にこっそり作ったハンカチの寝床が私のお気に入りだった。
『ヴァルトルーデ様は随分と男好きらしいな』
『また愛人を城へ連れ込んだとか…』
『十六歳の頃からやってるって聞いたわ』
『この前なんて外で戯れる姿を見かけた者がいたとか』
気付いた時には意味のわからない、まったく身に覚えのない噂が広まっていた。
お父様も最初は噂をする者達を問い詰め、嘘に違いないと信じてくださった。けれど証人や目撃者がいて、皆嘘つきで、私はどうしてそんな事を言われるかわからなくて。
どんどん味方がいなくなった。
『その日は、カルラに影を頼んでいて』
『も、申し訳ありません。ヴァルトルーデ様』
『え?』
『私はその日、体調を崩して自室に……騎士様が確認しています。お伝えしておらず、申し訳ありません。な、何も起きなかったので、問題ないとばかり…』
じゃあ、誰が?
頭が真っ白になって、「影を頼んで何をしていた」という言葉に、私は。
『固有魔法の、練習を…』
『……はぁ。』
『本当です!誰かに嵌められているのです、信じてください!』
『近衛騎士すら認めたんだ、あれはお前だった!お前の私物を譲られた者もいた!部屋に連れ込む姿を見た者も!』
『盗まれたんです、騙されないで、違う、違うんです。きっと誰かが魔法で』
『お前には失望した』
信じてもらえないまま、私は一ヶ月ほど極秘に幽閉生活を送った。
その間はぱったりと、男遊びとやらはなかったらしい。私を嵌めた者は、極秘情報も手に取れるほどすぐ近くにいるのだなと思った。
当然だ、カルラがそうだったのだから。
『私達は殿下を信じています!』
『ヴァルトルーデ様がそんな事をなさるわけがないのに』
『…ありがとう。皆』
微笑んで答えながら、心の中で「どうして」と考える。
信じると言う貴女達の顔が、私が知っている貴女達の顔とは違う気がして。「それは本心なの?」と問いたくなる。嘘を吐いて王女に媚びを売る人達ではないはずなのに、ならば、どうして。
貴女達の目に宿る光は信頼のように見えて、でも虚構の輝きのようでもある。疑心暗鬼になっているだけかしら、考えるのも疲れてきた。
お母様が生きていたら、私を信じてくれたかしら。
考えても意味はないけれど。
『アーレンツ王国から招待状だ。……くれぐれも、羽目を外さないように。』
『……はい。お父様』
信じてほしいなんて期待をしなくなって、どこにも行かないからこそ、カルラに影を頼むこともなくなった頃だった。
最近大人しいからと、アーレンツに行く許可が出て。
うちより魔物が出やすい国だからと、いつもより護衛も多かった。私の見張りでもあったと思う。
『あの子が私の影武者。カルラ』
アーレンツ王国に向かう途中、カルラがそう言って私を指した。
あの子は笑っていた。
『【どうか、私の言葉を信じてね】』
ぞわりと肌が粟立った事で、それが魔力を乗せた言葉だと気付く。
魔法の発動に必要な、人によって文句が異なるもの。
ああ、そうか。
『全部彼女がやっていたの、ひどいわ。もういなくなってほしい――この意味、わかるでしょう?』
カルラの魔法は、自分を信用させる。その言葉を真実と思い込ませるものだ。
道理で誰も、私を信じない。
『待て、このあばずれが!よくもヴァルトルーデ様の名誉を!!』
やってられないわと思って一人、ハムスターの姿で部屋を駆けまわっていた甲斐があった。
幽閉されていた割に運動能力は衰えていなくて、私はそれなりに逃げたのだ。
そうして都合が良い事にそこは山の中で、崖があった。追っ手との距離があった。
走りながら護身用のナイフで密かに袖を裂き、相手の死角になるよう崖のすぐ手前に生えた茂みへ飛び込んだ。
『――【これより先は広き世界】!』
ここで一つ、大事なこと。
私がハムスターになる時は、身に着けている衣服や装飾品がどこかへ消える。人間に戻ると元通りだけど。
『なんだ……自分から崖に飛び込んだのか』
ええ、そう見えたでしょう。
なぜならそこには誰も居らず、裂けた袖だけが枝に引っ掛かっているのだから。生い茂った葉っぱの下を駆けていくハムスターの姿など、彼の目には映らなかった。
その後、森の中で過ごすのは危険極まりない。
私は必死に走り、たまに休み、また走って、用を足しにきていた騎士を発見――うっ、思い出すべきでないものまで思い出してしまったわ――、彼が脇に置いていた鞄に潜り込み、どうにかアーレンツ王国までやってきたのだった。




