誤発信の携帯電話の向こうに、僕の理想の父がいるような気がして
日本中が浮かれはしゃいでいたあの時代のことを、『バブル景気』と呼ぶのだと知ったのは、それがはじけて、数年経ってからのことだ。民間企業では、好景気の乱痴気騒ぎのつけを払うかのように倒産やリストラが相次ぎ、有名大学を卒業し、一流企業に就職をして、安寧な人生を送る筈であった同世代の若者たちは、未曾有の就職難に直面していた。
僕はといえば、高校を卒業して、これといった目的もなく実家を出てからは、同じく実家を離れて一人暮らしをしている友人の家に強引に転がり込み、たまにアルバイトをしたり、しなかったり、たまにその友人が主催する劇団に参加したり、しなかったり、という怠惰な日々を何年も送っていて、後に就職氷河期世代と呼ばれる時代の渦中にいることは、その渦中にいる段階では知る由も無かった。
冬の遅めの陽光が窓から忍び込む頃、携帯電話の着信音が、かん高く鳴り響いた。学生時代はポケットベルの全盛期であったが、九十年代後半から携帯電話の普及が急速に進んでいた。
ディスコでナンパしたワンレンボディコンのイケイケギャルと、ラブホでヨロシクしていた僕は、携帯電話の着信音で、せっかくのご機嫌な夢から覚めてしまった。ここは、ラブホなんかじゃない。ここは、友人が借りている六畳一間のボロアパート。ねぼけまなこで、壁掛け時計を見る。早朝6時15分。友人は深夜のコンビニのアルバイトからまだ帰っていない。
……誰だよ、こんな朝っぱらに。
うえっ。吐きそう。気持ち悪い。え~と、昨晩は何をしていたのだっけ。思い出した。二時過ぎまでウォッカを呑みながら太宰治を読んでいたのだ。アルコールで両手がパンパンにむくんでいる。頭痛。胸焼け。完全なる二日酔い。
あ、ヤバい、今日は、魚市場でアルバイトの日だった。寝坊をしてしまった。でも、今から急げば、まだ間に合うかも……
……や~めた。もういい。休もう。今日のバイトはドタキャンだ。理由はどうしようかな。そうだ、身内に不幸があったことにしよう。親戚の、いとこの、はとこの、幼馴染が死んだことにしよう。もしバイトリーダーが僕を疑ったら、速攻で辞めてやる。いつでも辞めてやるさ、あんな退屈で、やりがいの無い、愚にもつかない仕事。
二日酔いの朦朧とする意識の中で、携帯電話の液晶画面を確認する。発信者は父だった。ギャンブルと女が原因で、僕が中学二年の時に母と離婚をした父と最後に会ったのは、二年前の夏のことだ。家族より自由を選んでおきながら、定期的に一人息子の僕と面会をしたがる父の存在が、ずっと気に入らなかった。ずっと目障りだった。だから、その夏の日、僕は意を決し、はっきりと父にこう伝えたのだ。
お父さん。僕とあなたは、戸籍上は、もう赤の他人です。お願いです。もう二度と僕にかかわらないで下さい。お母さんと離婚をして以来、僕が、あなたを頼りにすることは一度もなかったし、これからも天地神明に誓ってありません。もちろん、僕が、将来的にあなたにしてあげられることも何ありませんので、あしからずご了承ください。
とは言うものの、この世に生んでくれたことには大変感謝をしています。ですから、その恩返しとして、あなたが死んだら、あなたの骨は、必ず僕が拾います。さようなら、お父さん。これが僕の携帯電話の番号です。死んだら、いつでもこの番号に電話をして下さい。
……やれやれ、死んだか。
着信ボタンを押し、電話を耳に当てる。すると、向こうからガサガサと雑音。耳障りな雑音に交じって父の声がする。な~んだ、生きていやがる。
状況を推測するに、ポケットに入れた携帯電話が、ズボンで擦れて誤発信をしてしまい、それに気が付かないまま、誰かと会話を続けているのだろう。僕は、図らずも携帯電話越しに父の会話を盗み聞きする局面にいる。
父は、母と離婚をしてから、隣町の土木建設会社の作業員宿舎に住み込みで働いている。電話の向こうの会話をよく聞くと、時間になっても出勤してこない作業員を、部屋の扉の前で説得している様子だ。
「おーい、朝だぞ。仕事だぞ。出ておいで。ひょっとして昨晩吞み過ぎたのか。大丈夫だ。安心しろ。自慢じゃないけど、俺も二日酔いだ。ちなみに、今日の弁当をこっそり開けてみたら、君の大好きな海苔弁だったぜ。ほら、出ておいでってば。みんなが待っているよ。みんな君のことが必要なのだよ。そして何より、今日はすこぶるいい天気」
……うるっせえなあ、偉そうに、まったく。
僕は、布団から飛び起きて、作業着を着た。面倒臭いったらありゃしない。でも、今日のところは仕事へ行くとする。急いで革のベルトをズボンの穴に通す。退屈で、やりがいの無い、愚にもつかない仕事でも、仕事は仕事だしな。あの厳しいバイトリーダー、意外と僕のことを頼りにしてくれているしな。バイト仲間のみんなにも、迷惑は掛けられねえしな。自転車を立ち漕ぎで猛ダッシュすれば、まだ定刻に間に合う。僕は、部屋の扉を開けて、走り出す。
……あれ。変だな。
電話の向こうのあの人。あの人は、人間の煩悩が凝り固まって出来た煮凝りのような男だけれど。それでも、やっぱり僕のつっかえ棒のような気がして。
これまでも気付かないところで僕を支えてくれていたし、これからも思わぬところで僕を支え続けてくれる、そこはかとなく、そんな気がして。
誤発信の携帯電話の向こうに、僕の理想の父がいるような気がして。




