#44 駆け引き
「君は……」
「リヒト。リヒト・ヴィローディアよ」
その名を聞いた瞬間、私は一瞬身を強ばらせた。
ヴィローディアといえば、私が前に戦ったあの暗殺者と同じ姓だったからだ。だが、少女は私の動揺に気づくことなく話を進めていく。
「あなたは……あなた、スィエル?」
「あ、ああ……そうだけど」
「まあ! ずっと、会いたかったの……よかった……会えて……」
「どうして……こんな化け物に」
私の言葉に、リヒトと名乗った少女は首を横に振った。
そして、小さく温かみのある左手を私の冷え切った手の甲に当てる。
「化け物じゃないわ。あなたは、私達と同じ人間よ。どうしてそんなことを言うの?」
「私は、何人も殺したんだ!! 自分のために、何人も犠牲にした。悪魔と契約して、何千年も生き続けて……何のために、生きているのかも分からない。それでも、君は私が人間だというのかい?」
「スィエル」
彼女の桜色の唇が、私の名を呼ぶ。
あまりの美しさに、私は一瞬呼吸さえも忘れて息をのんだ。
「大丈夫。あなたが何と言おうと、どれだけ自分を化け物だと言おうと、私はあなたが一人の人間なんだって分かってるから」
こり固まっていた感情が、暖かい場所に置かれた氷のようにじんわりと溶けていく。今まで、ずっと払えなかったものが少しずつ取り除かれていくような、そんな感じだ。
「リヒ……ト……」
誰もいない荒野を歩いた。誰もいない城で眠った。
寂しくて、悲しくて、辛くて。でも、それを誰かに話すことは叶わなかった。
いつも、諦めていた。どうせ、誰にも分からない。分かってもらえない。分かってくれるのは、あの悪魔だけだと。そう思っていた。
小さな手が伸ばされる。
それを、私は震える手で掴む。
「泣かないで。つらかったよね。苦しかったよね……ずっと、寂しかったんだよね」
優しく、私をなぐさめる声。私は何人も殺したのに。何人も殺して、奪って、許されるべき人間ではないのに。
なのに、どうして涙がこぼれるのだろう。この罪を許してほしいと願うのだろう。
三千年間、街を見ていた。
自分が破壊した故郷は、私のことを消し去ろうとするかのようにどんどん元通りになっていった。
私は殺戮者として、人々の記憶に残った。
叫声をあげながら、狂ったように人を殺し続ける男。それが私なのだと、誰も信じて疑わなかった。
あの屈辱からは、あの悲しみからは外に出れば解放されるのだと、そう信じていた。
だから、外に出たときに浴びせられた心ない言葉は、容赦なく私の心を押し潰した。
「ああ……うわああああ!!」
涙に濡れた染みだらけのスーツを掴み、髪を振り乱しながら私は叫ぶ。
ほつれた銀色の糸が、私の視界を遮る。でも、今はそれでよかった。
こんなにみっともない姿を見られている事を隠したかった。何度も何度も手を叩きつけて、私は暴れ回る。感情の波が、心の中で荒れ狂う。
何度も自分をリラックスさせようと深呼吸を繰り返すが、息が詰まってむせてしまう。
「よしよし、少し落ち着こう」
ディニタスが私の背中をゆっくりとさする。骨まで、その優しさが伝わってくるようだ。
「……」
「私もね、いっつもこの病室で一人ぼっちなの。お姉ちゃんや家族はお見舞いには来てくれるんだけどね……あなたが放送でしゃべってたとき、私もここでたまたま見てたんだ。画面越しに見えるあなたはとても寂しそうな目をしていた」
「寂しそうな目……」
自分では気づかなかったが、いつの間にかそんな印象も与えていたらしい。
「うん。言葉はとても怖かったけど、やっぱり思った通りだった」
涙をぬぐい、感謝を伝える。ありがとう、と言うと彼女は柔らかなほほえみを見せた。
「あなたはずっとお友達が欲しかったのよね。だったら、私がなる。……悪い誘いじゃないでしょう?」
「ああ……」
いきなりの話に戸惑う私を、ディニタスはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて眺める。
まるで、こちらがどう反応するかを楽しむように。
「何か言いたそうだな、ヤブ医者」
「いや、何でも? ただ、お似合いだなと思ってね」
「リヒト、年は?」
「十四!」
十四といえば、リュヌとは少し年が離れている。だが、この子であれば赤目の子供ともうまく付き合ってくれるかもしれない。
「んん……ダメだな、色々と面倒なことになる」
「今の話をまさか本気で考えるとはね」
「冗談に乗っただけだ」
「ふふっ、まあそう考えたくなる気持ちも分かるかな。私は既婚者だけど」
そう言うと、ディニタスはポケットから藤色の宝石がはめ込まれたネックレスと指輪を取り出した。
「貴様、その性格でか……?」
「それこそ、君をこの病院まで運んだ竜の騎手が私の妻だよ。ああ、そういえば君は疲れてぐっすりと寝ていたから、彼女は見ていないんだったね」
「嘘だろ……知り合いっていうのは」
「君で遊ぶと面白いかなって。アクセサリーは手術に邪魔だからつけてないだけさ」
やはり、この男は信じてはいけない。
頭の中で要チェックリストにナハト・ディニタスの名を書き込む。
「リヒト、ありがとう。私でいいなら……ここにいる限りは話を聞くよ」
「本当!? やった!」
「だから、ディニタス。貴様はどこか別室に行ってくれ」
「君って本当に分かりやすいね……まあ、可愛い一面も見れたから良しとしよう。じゃあ、あとは二人でトークを楽しんでくれ」
「可愛い一面だと……う、うるさいな……」
静かに扉が閉められてから、私はため息をつく。
妙にチクチクと心の中をくすぐる何かがあるのだ。
彼の善意は、完璧だ。誰に対しても平等で、誰に対しても同じように扱う。
でも、あの男とは深く関わりすぎない方がいい。そう、体が私に訴えかける。
このまま彼を疑うべきなのだろうか。それとも信用してもいいのだろうか。
私は、優しさに触れたことがなかった。だから、どうしたらいいのかが分からない。
誰に対しても平等など、不平等が当たり前の世界で通用するはずがない。
与えられた優しさは受け取っても大丈夫だ。
二つの声に、私は惑ってしまう。手にしたものを、手放したくない。
そう思っているのに、まだ疑いが晴れない。怖い、と感じてしまう。
「スィエル?」
「あ、ああ……話は、何にしようか」
「これがいい!」
しみついた恐怖感を拭い去るために、私はリヒトから本をもらって読み始めた。




