30
血溜まりに沈む女がいる。
昨日話した呪い士の女だ。
「呆けるのは後にしろ!」
前衛の誰かが叫ぶ。
そうだ、立ち止まっている暇は無い。
まずは、あの魔獣を殺さねば。
魔獣を確認すると、猿のような姿をしていた。
既に猿に向けて火の矢や氷の礫が飛んでいる。
だが大盾による圧力をかけられていない魔獣は、素早い身のこなしで次々に避けていく。
「……鬱陶しいんだよ……!」
猿に重石を付けていく。グラスイーグルで実践した、加重の魔法。
みるみるうちに俊敏さを失う猿に、魔術の雨が降り注ぐ。
数秒後には焦げた塊があるだけで、それで終わりだった。
「おい、おい、しっかりしろ! しっかりしてくれ!」
俺は倒れた女に駆け寄る。
口元に耳を近づけると、ヒューヒューと、か細い息使いが聞こえる。
まだ生きてる!
だが、裂けた胸元からは夥しい量の血液が、鼓動のたびに溢れ出る。
「頼む、治してくれ……治ってくれ……!」
俺は、ぎゅっと目を瞑って彼女の昨日の姿を思い浮かべる。
活力に溢れた、あの姿をイメージして、血の気を失い死に近づく彼女に重ねていく。
魔法なら、イメージ通りの力が発現するなら、回復だってお手の物だろうが!
今まで一度も使ったことがなかったから。
機械製品や科学製品の現象を起こすような、明確なイメージは持てないから。
だから成功するかどうかは分からない。
だけど、だからといって、手を拱くわけにはいかない。
助けたい。死なせたくない。
守ると、傲慢を押し通すと決めたからには。
ここは無傷で突破すべき関門だ。
だというのに。
目の前の彼女は、一向に助かる気配がない。
回復魔法は使えないのか、それともイメージが足りないのか。
「ユキ様、傷薬を」
そうだ、薬だ。応急処置として、最低限度の薬でも大量に使えばあるいは。
いや待て。薬に、さらに魔法をかければどうだ?
俺が使うなら、俺が効能を信じるなら、薬の効力は跳ね上がる。
影からライフポーションを取り出す。
ただの傷薬に、治癒の呪いを施したもの。ただの傷薬に、魔力を込めたもの。
モノに魔力を注ぎ込めば、効力は上がる。それはアンチドートで証明されている。
だったら、このライフポーションに、俺のありったけの魔力を込めてやる。
瓶を握り締め、祈るように。俺の掌から、薬に向けて。水道の蛇口を開くように、俺の中の何かが抜けていく。
目の前が少しだけ暗くなる。
構うものか。
頭を振って飛びそうな意識を繋ぎとめ、魔力を込めた薬を確認する。
手の中の薬は、乳白色の軟膏から虹色の水薬に変化していた。
原理など知ったことか。今はこれを使うしかない。
彼女の顔は血の気を失い、最早土気色になっている。
もう飲ませる時間すらない。
傷口に、瓶の中身を振り掛ける。
もう一度、彼女が助かるように祈る。
昨日の夜のように、今日の戦いに不安を覚え、それでもなお楽しげに笑った彼女の顔を。
たった数時間の付き合いで、名すら知らない彼女を救おうと。
只管に、祈る。
「もう大丈夫ですよ。命に別状ない所まで戻りました」
ティトが告げる。
目を開くと、血溜まりはそのままだが、多少血色の良くなった女が横たわっていた。
青白いが、それでも頬の下に血の通った色が見えた。
呼吸も、浅く細いものではあるが、規則正しく落ち着いている。
今しばらくは目を覚まさないだろうけれど、窮地は脱したようだ。
ホッとした。
そうもばかり言っていられないが、一旦は自身の平静を取り戻すことを優先だ。
「魔術師! 憂いは断った! 前衛への援護を再開しろぉっ!」
ルーカスの声が響く。
レーダーに映る敵影は八つ。
こちらで奔走している間に、他の人員で二匹程は倒したようだ。
魔術師もまだ余力を残している。
再び範囲魔術が炸裂し、轟音が周囲に響く。
風がビリビリと震える。
それでもなお立ち上がり、前衛を飛び越えようとする魔獣に対しては、空から一筋の光が降り注ぐ。
雷とも違うあの光は、一体何だろう?
正体を見極めるには、俺の経験は少なすぎた。
ただ、あれがザンドの言っていた、撃ち洩らしの掃討手段なのだろう。
光が落ちてくるたびに、レーダーの光点が一つずつ減っていく。
残り五体。
ここで魔術師達が力尽きたように膝から崩れ折れる。
「ど、どうしたんだ!?」
敵襲は無い。どこかから攻撃された様子もない。何が起きたのか。
「魔力切れですね。暫くすれば何の問題もなく立ち上がれるでしょう」
「暫くすればってところが大問題だよな」
魔獣はまだ残っている。前衛はまだまだ余裕がありそうだが、攻撃の要の大半が倒れている。
五匹程度なら行けそうだ。
俺は立ち上がり、白魔を構えなおして、魔獣に向けて疾駆する。
「ザンド! お前の特大を見舞ってやれ!」
ルーカスが叫ぶ。
このまま進むと巻き添えを食らうかもしれない。
急制動を掛けて、しかしいつでも飛び込めるよう足に力を込める。
「俺とて消耗しているのだがな。だが、俺しかいない、か」
ザンドの周囲に魔素が集まる。
これから起こる現象が、どれほどの規模となるのか、想像するだに恐ろしい。
魔術のことなどほとんど知らないのに、それでもなお結果に十全なる成果を期待するほどに。
だが、そうだ。
魔素が、集まったのだ。
背筋が凍る。
先ほどは、何かしらの影響で魔素が集まり、魔獣が出現した。
これだけの魔素が集まってしまったのならば。
きっと、何かよくないものが出現する。
それが予想できていて、何もしないほど俺は愚かではない。
彼女のような犠牲は出させない。
失ってしまった命は戻らない。
彼女はただ運が良かっただけなのだから。
「……っ!」
俺は全力で魔法をイメージする。
想像するものはギロチン。
イノシシ型の魔獣を一撃の下に葬り去った、処刑器具。
ただし、今回のこれは、あの時とは比べ物にならないくらい大型にしている。
このギロチンを落とされれば、どのような生命体であろうと、その首を落とされる。絶命は逃れ得ない。
だが、それほどの大掛かりな装置を想像するには、どうしても時間が掛かる。
ザンドは周囲の魔素に気づかないのか、ぶつぶつと何事か呟いている。恐らく、魔術の詠唱だろう。
ザンドの足元から空気の揺らぎが視認できる。
あれが魔素の動きなのだろうか。あるいはそれによって巻き起こる風だろうか。
ギロチンはまだ出てこない。
ザンドが右手を空に向けて掲げる。
視線は戦士達の奥。
魔獣が戦士達を突破しようと何度も盾に向かって体当たりをしている。
少し離れたここにまで、鈍い金属音が響いている。
戦士達は体勢を沈み込ませ、さらに魔獣の圧力に対抗する。
大型のギロチンの刃が、少しずつその姿を現す。
右手を突き出しながら、ザンドが言葉を放つ。
「サーペントレイ!」
その言葉と共に、彼の持つ杖から光の奔流が迸る。
それは意思を持つかのようにくねり、曲がり、人を避け、魔獣を飲み込んでいく。その様子はまさしく蛇だ。
光の蛇に食らわれた魔獣は、ぐらりと体勢を崩し、その場で絶命する。
五匹の魔獣を貫いた光は、最後に天を衝くかのように上昇し、遥か上空で自然消滅する。
同時にザンドも膝をつく。彼の魔力も底をついたようだ。荒く、肩で呼吸をしている。
そして、唐突に。
彼の目の前に、ゆっくりと、大型の魔獣が出現した。
その姿は、形容しがたきおぞましい異形。不定形の足元。その不定形から何本も伸びる腕。顔であろう上部の球体には何も付いておらず、眼と表現するにはあまりにも凄絶な紅き虚ろがどこまでも深く広がっている。
見るからに醜悪。
視界に納めるだけで吐き気を催す卑陋なる外観。
その紅い虚ろが。
にたりと歪む。
時が止まる。
戦士達も、魔術師達も、呪い士達も、勿論渦中に居るザンドですらも。
突然出現した、黒き異形に、言葉を失い、体を硬直させる。
黒き異形が音を発する。
それは聞くものの精神を恐慌に陥らせる叫び。
圧倒的な存在から放たれる殺気。
並みの人間であれば、それだけで足が竦み、死を覚悟するであろう。
現にこの場に居る冒険者達の誰もが、あの黒き異形に対して動くことが出来ない。
このまま見ているのなら、確実にザンドが殺されるというのに。
身が竦み、動くことなど出来ないのだ。
場合によっては、この叫びで呼吸を止められている者まで居るかもしれない。
いや、一人だけ動いていた。
ルーカスだ。相方を守るために、裂帛の怒声と共に鋼の大盾を構え、異形とザンドの間に身を割り込ませようと疾駆する。
だがそれが一体いかほどのものか。
異形は緩やかに死を運ぶ。
その腕は、たった一振りで脆弱な人間の体を引き裂くだろう。
その通り。異形はごくゆっくりと、腕を振り上げた。
まるで風を送るかのように、その腕を薙ぐ。
たったそれだけでザンドは、例え間に合ったとしても、庇ったルーカスは命を失うだろう。
彼らの顔が悲痛に歪む。
「――予測してんだよ、そんくらいよぉ!」
恐怖が無いと言えば嘘になる。
現に俺も、考えていたとはいえ、出現した異形に対し怯えはあった。
だが、この恐怖は体験済みだ。
あの街に現れた、化け蜘蛛が発した気迫と同程度。
あの時はティトに唇を噛み切られた。
今回は、自身で頬の内側を噛み切った。
痛みさえあれば、正気に戻れる。
ギロチンを落とす。
異形に向けて、大質量の影の刃が。
あたりに散らばる魔獣の骸を原料に。
そこから出来る影を集めて。奴らの中身の魔素までも利用して。
いたぶるように余裕を持って腕を上げていた異形は、突如上を向き、そのギロチンを受け止めようと全ての腕を急速に伸ばす。
影の刃は、嘲笑うように、その腕を切り裂いていく。
ブツブツブツブツブツブツ―――!
断裂する音が鳴り響く。
草原に、筋繊維が潰れていく音が木霊する。
あのような腕で止められるはずがない。
あれだけの質量を。あれだけの速度を。
伸ばす手が、伸ばす手が、ギロチンに触れるたびに裂けていく。
速度をほんの少したりと留める役にすら立たず、彼の者の腕は全て切り裂かれる。
刃は異形の頭部に食い込み、寒天でも裂くように切断し、ブッツン、と一際鈍い音を立てて、足元の不定形の胴体までをも両断する。
その時点で影の刃は消滅し、この場に残るものは、どろどろと溶け出していく黒き異形。
辺りが静寂に包まれる。
もう動き出す魔獣は存在しない。
今の化け物で最後だったのだろうか。
誰も、一言も発さない。
恐怖に彩られた瞳が、落ち着きを取り戻していく。
「一応、終わったか……」
大きく息を吐く。途端、目の前が暗くなり、立っていられなくなる。
かろうじて顔を守ることは出来たが、前のめりにぶっ倒れる。
指一本すら動かせず、瞼がトロンと落ちてくる。
これは、どうしたことだろうか。
「……魔力切れ、ですね。まさか、ここまで魔力を込めるとは思いませんでした」
おいおい待ってくれよ。
強化を使ってもほとんど減っていなかった魔力だぞ。
その後にしたことといえば、あの女性を助けるためにライフポーションに魔力を込めたのと、魔獣を倒すために作ったギロチンの、たった二つではないか。
たった二回の魔法の行使で、魔力切れを起こすとか。何が、どういうことだ。
その疑問は言葉にはならず、故に誰も答えることなく。
俺の意識は深い闇の中へと落ちていった。
だが。
俺の心は、一つの達成感で満ちていた。
全員、助かったのだ、と。
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