10
何が、どういうことだ。
朝、目が覚めると、後ろから抱きしめられていた。
後頭部に柔らかい感触。
ああ、これが夢にまで見た……って違う。
「おい、起きろ。放せ」
「うゅー……?」
もぞもぞと動く狐。手の位置は俺の臍の辺り。それが少しずつ上に上がっていく。何か嫌な感じだ。背筋がぞくぞくしてきた。
「寝ぼけるな。早く起きろ!」
「むぁー……」
寝返りをうとうとする。だが、俺を抱きすくめているので上手くいかないようだ。
そろそろ起きるかと思いきや、俺の体が少しずつ浮き始める。
持ち上げる気か!? 無理やりにでも寝返りを打つつもりかコイツ!?
「いい加減にしろ! 起きろ!」
足をバタバタ。手が完全に抑えられているので、動ける範囲は限られている。
いや待て。一応振りほどこうと思えばできるのか。
あまり力を入れすぎると怪我をさせてしまうかもしれないが、そもそもベッドに入り込んでいる彼女が異常なのだ。
恨まれる筋合いは無い。
「せぇ、の!」
両手を広げる。
「ぴゃ!」
その衝撃で覚醒したのか、イリーヌさんが面白い悲鳴を上げた。
「ぴゃ、じゃねぇ。何で俺のベッドに入り込んでんだよ」
「……え?」
しかしいまだ寝ぼけ眼で辺りを見回している。
「あれ。どうしてユキちゃんが?」
「寝ぼけてるな……」
話が進まない。ティトはまだ寝ているみたいだし、ここはもう一度放っておいて、先に身支度を整えたほうが良い。
疑問の解消はまた後だ。朝飯の時間もそろそろだし。
水桶に布を浸し、軽く顔と体を拭う。
そして影から着替えを取り出す。今日の衣装は黒の長袖シャツに白いハーフパンツ。頭にはおっさんに貰った長布を巻きつけていく。着ていた服を影に放り込み、一応の準備は完了。
「先に食堂に行ってるぞ。間に合わないみたいだったら、包んでもらうよ」
まだ寝ているティトを懐に隠し、部屋を出て階下に向かう。
食堂には既に食事を終えた人ばかりで、テーブルの上には汚れた食器が残っている。
食事中の人も居るには居たが、ごく少数。少々寝過ごしたかもしれない。
そそくさとテーブルに着くと、無愛想な男が厨房から出てきた。ここの主人だろうか。
「……朝飯だな。朝からがっつり食える方か?」
ドスの聞いた声で話しかけてきた。
声質にかなりドギマギしたが、言葉の内容は注文だったので、曖昧に頷いて返答とする。
「……少し待ってろ。暖めなおす」
のっしのっし、という擬音が聞こえてきそうな足取りでまた厨房へと戻っていく。
一々、個々人に注文を聞いているのだろうか。
もしそうだとすると、かなりマメな人だ。ティトの言っていた、山中の宿に来た人に対するもてなしの心って奴か。
味はおっさんの料理に比べれば正直微妙だけれど、それでも不味くは無いんだ。
手に入る品に対して、精一杯調理しているのだろう。
文句を言うのは自由だろうが、それを態度に表してはいけない。
「それにしても、どうしてこんなに人が少ないんだ」
いくら寝過ごしたとはいえ、テーブルの上にまだ食器が残っているということは、そこまで寝過ごしたわけでもない。
昨日はもっと客が居たはずだ。
次に主人が来たら尋ねてみよう。あるいはティトかイリーヌさんが起きてきたら、話をしてみるのも良いかもしれない。
足をぶらぶらさせながら食事を待っていると、起きてきたらしいイリーヌさんが降りてきた。
「おはよう。随分と寝坊したな?」
「あはは、どうにも朝は弱くてねぇ」
頭の上の狐耳がへにゃっと垂れている。
口調はそれなりにしっかりしているが、やはり本調子ではないようだ。
「んー、やっぱり人が少ないね」
俺の向かいに座り、辺りをぼうっと眺めていた彼女が、ぽつりと漏らす。
「やっぱり、って、何か理由があるのか?」
「そりゃあ、グラスイーグルが居なくなったんだ。足止めされていた連中がこぞって出て行っているのさ」
ああ、そういう。
「どうやら、グラスイーグルの確認だけはされていたみたいでね。この宿でも警戒していたそうだよ。旅人にも宿から出ないようにって警告していたそうだ」
「それを俺が倒したから、皆出て行ったと」
「そういうことだね。グラスイーグルがあの一体だけとは限らないが、同時に二体以上出てきたことは無いからさ。一体倒したんだから、暫くは安全だと思ったんだろうね」
「だったら俺たちもすぐに出発するか?」
「そこまで急ぐ必要は無いさ。ユキちゃんが退治してくれるだろうから、仮に出てきたとしても怖くは無いね」
信頼してくれているようだ。過剰な信頼が怖い。
引き攣った笑みを浮かべていると、主人が厨房から出てきた。
「……余りもののシチューで作った。朝の滋養には効くだろうよ」
二人分の何やらが出てきた。シチューということは、昨日の晩飯なのだろう。
だが、作った、という言葉通り、昨日のシチューとは随分と違っていた。
中央にマッシュポテトのような塊が大きく乗っている。
さくさくと崩して口に放り込む。うん、相変わらずの味である。
「で、今日はどうするんだ?」
「そうだねぇ。普段は下山したところでキャンプするんだと思うけれど、馬車の調子が良ければ、麓を通り越して宿場町まで行ってみようか」
「宿場町までは遠いのか?」
「麓からなら、普段は半日ほどかかっているねぇ」
普段で麓から半日ということは、今の馬車は数段速い性能が出ているわけだから、十分辿り付ける予定だ。
「なら大丈夫そうだな」
「うん、今日もよろしく、ユキちゃん」
「ところで」
「うん?」
本題だ。
「何で俺のベッドに入ってきたんだ?」
「夜中に目が覚めて、水を飲みに食堂に下りたんだ」
「ほう」
「それで、飲んだんだけど、部屋に戻る頃には眠くて仕方なくってね」
そのせいで俺のベッドに入り込んだ、と?
「いやぁ、うっかり」
「どんなうっかりだよ」
「右のベッドに入るはずが左のベッドに」
「やかましいわ」
そもそも人に魅了をかけようとした人間だ。そちらの趣味を持っている可能性も否めない。
聞いたら何だか泥沼に嵌りそうなので、絶対に聞くまい。
これはもう、うっかり、で済ませるしかなさそうだ。
「うっかり、なら次は無いぞ」
「分かってるよユキちゃん」
やたら良い笑顔で答えるイリーヌさん。本当に分かっているのだろうか。
美人さんに好意を持ってもらえるのは、男として、本当に冥利に尽きる。
だからといって、何でもされて良いというわけじゃない。残念な美人さんという評価にしかならない。
「食ったら出発するぞ。大して急いでないみたいだけど、無為に過ごせるほど余裕があるわけでもないんだろ?」
「そうだね。ところで一つ聞いても良いかい?」
「何だよ」
イリーヌさんが、俺の首元に顔を近づけてくる。何事!?
「うん、昨日もずっと感じていたけれど、ユキちゃん以外の匂いがするね。誰のだい?」
「犬かお前は!?」
いや待って、狐ってイヌ科だっけか? それでも鼻が利くとは思えないが……。
浮気がばれた男のように、冷や汗を流しながら、とりあえず店を出ようと提案するしか出来なかった。
何でこんな気分にならなきゃいけないんだ。




