71
それは、正しく地獄のような時間。
俺としての自意識を残したまま、身動きもできず、言葉も発せず、ただひたすらにエウリアの視線で。
穏やかな一日を、何の変哲もない日常を、変わり映えのしない毎日を。
両親の愛情を受けた。
得がたい幼馴染もいた。
狩人としての訓練を行った。
初陣では大きな獣を狩り、宴会では大いに楽しんだ。
魔獣にも襲われた。
悲しい別れもあった。
何年も、何年も。
延々と、延々と。
それは自我が擦り切れるほどの長い歳月。
目を閉じることも許されず、目を背けることも許されず、ひたすらに彼女の内を見続ける。
感情に翻弄され、痛みに傷つく。
彼女に向けられる視線、感情。
俺の生きてきた時間の何倍もの長さ。
脳に刻み込まれる情報は整理することも出来ず、莫大な量が俺に浸透していく。
いつしか彼女と俺は同化し、一挙手一投足全てを感じ取れるようになる。
彼女の想いは、俺と同一で。
俺と彼女の間に境界線は無く。
そして、運命の日がやってきた。
森の外れの大樹の根元に、赤子が捨てられていた。
村長達はその赤子を真種と呼ぶ。
妖精よりも上位の存在、精霊。
その精霊が授けし、神秘の娘だと。
私達よりも遥かに優れた魔力は、魔術も呪いも及ばぬ境地にたどり着くのだと。
真種こそ森人の導き手だと。
魔獣に脅かされた世界を守る存在だと。
村長達は主張する。
だが。
村長達の思惑はまた別で。
その娘は、ただただ利用されるためだけに育てられる。
類稀な魔力は、閉鎖的な村には劇薬とも言え。
成人を待たずして、その娘は子を為すためだけに育てられ。
碌な教育もされず、言葉も教えられず、感情も希薄なまま。
そのような、悪意に満ちた生活に。
怖気が走る。
だから私は彼女を連れ出すことにした。
しかし通常の手段では不可能だ。
現状、目を盗んで、彼女に基礎教育を施す程度。
幸い彼女は聡明だった。一度聞けば理解し、覚えたことは忘れない。
その点も、精霊に愛されているといわれる所以なのかもしれない。
ただ。彼女は、本当に、普通の女の子だ。
特別でも何でもなく、ただただ幸せを願う普通の女の子だ。
そんな彼女の幸せを願うことに、何の不思議があろうか。
機会を待ち、密やかに接触を続け。
そして決行の日が来た。
その日は、朝から森が騒がしかった。
侵入者ではない。それであれば、獣がもっと活発だ。
この雰囲気には覚えがある。
過去、村に多大な犠牲を齎した、魔獣の気配だ。
村の守りは、全て魔獣に当てられる。村長達は若者達に連れられて安全な場所に避難する。
その混乱に乗じて、あの子を連れ出すんだ。
うまくいくと思っていた。侮っていた。
私達も過去の事例に倣い、魔獣対策を進めていた。安全な倒し方を考察してきた。
予想外だったのは、その数があまりにも多かったこと。
逃げる私達にも追っ手が掛かる。
死を覚悟した。
そこで、出会った一人の少女が、私達の運命を――
「……っ! ……まっ!」
ぼんやりと、声が聞こえてくる。
誰だろう。
「しっかりしてください! お気を確かに!」
羽の生えた、小さな妖精。
涙をぼろぼろと流しながら、必死に私に取りすがっている。
どうしたことだろう。私はこの子に、泣かれるようなことをしたのだろうか。
直前の記憶が無い。
何をしていたんだっけ。
ゆっくりと首を振り、視線を彷徨わせ、情報を集める。
と。
床に倒れ伏す森人の姿が。
見覚えが、あるような……。
「あ、れ……?」
見覚えがある、じゃない。
これは私?
一体どういうことだろう。
「ユキ様! 貴女は、ユキ様です! エウリアさんではありません!」
「え……?」
何を、言っているんだ。
私は。
もう一度、寝ている私を見る。
苦しそうな顔だ。眠っているというのに、一体どんな悪夢に苛まれているのか。
「やはり、こんな……! 人間が、一人の人生を覗き込んで、無事なわけが……!」
一人の人生を見て、無事じゃない、だって? この妖精は、一体何を――。
いや。ティト。お前、何つった?
……急激に頭が冷える。冗談じゃねぇ。物語を読んで追体験した気になって、それで人格が変わるってか?
現実と非現実を一緒くたにしてんじゃねぇぞ。
取り乱すティトを改めて見る。
酷い顔だ。涙でぐしゃぐしゃになっているし、鼻水も出ている。
あまりに泣きっぷりに、却ってこちらが冷静になれるってもんだ。
ぽん、と頭に手をやる。
ビクリと肩を震わせる。
安心させるように、しっかりと目を見つめ、そして宙に向かって叫ぶ。
「オタクの妄想力を舐めんなあぁぁぁぁぁぁ! こんなもんただの映像だ、なりきり用の資料集めだ! そんなもんで俺が変わってたまるかよ!」
「ユキ、様ぁ……!」
エウリアという森人の経験を、非常に濃い物語を追体験し、それを模倣し、そこを基準に彼女という人格を象る。
「来歴看破」はあくまで手段。今、現時点で、俺の中には彼女の全てが入っているといっても過言ではない。
後は、コピーしたその情報を、ペーストするだけだ。
原理なぞ知らない。だからこそ、効果は安定しないだろう。
なればこそ。それっぽい行動を取れ、イメージを強化しろ。
寝ているエウリアの額に、俺の額を当てる。
脳から脳へ、直接移していくイメージで。
彼女の想いを。
彼女の願いを。
名前は無い。これは無名の魔法。エウリアを癒したいという、フィルの望みと、それを叶えてやりたいという俺の我侭と。
それを実現させるためだけの回復魔法。
涼やかな体温が、皮膚を通じて伝わってくる。
俺の熱い体温を、皮膚を通して伝えていく。
その体温の交換と同時に、あの体験を投影する。
「移し変える……! 複写する……! 俺の記憶を、彼女の記憶を、全部、ありったけ!!」
脳裏に焼きついた光景を。
胸から沸き起こる感情を。
鮮烈なまでの印象で以て。
成功する。成功させる。失敗など考えない。
瞬間、薄暗い室内が、眩いばかりの光に包まれる。
「うっ!?」
「これ、なに……!?」
フィルとティトの呻き声が聞こえる。
悪いが、そんなの気にしていられねぇ。
魔法は発動している。
ならばこのまま続けるだけだ。
ぎゅっと目を瞑り、もっと奥へと念じる。
表層だけじゃあない。深層心理まで踏み込んで、彼女を丸写しする。
そこまでしなきゃ、元通りとは言えない。
だから。
「持っていけえぇぇぇぇ!!」
地下に声が木霊する。
反響する音に応えるように光はさらに強まる。
目を閉じているのにもかかわらず、瞼の奥を焼く。
時間にすれば、ほんの僅かだったろう。
だというのに疲労感は並大抵では無い。ギリギリのところで、エウリアに覆いかぶさるように倒れこむことだけは避けられたが。
横並びで寝転がる。
顔の横に何かが垂れる感触。
ああ、そういや血が出てたな。拭うのも面倒くさい。そのままでいいや。
「ん……」
すぐ横から声が聞こえる。
苦しげな声ではない。
ただ眠りから醒めるだけの声。
「ここ、は……? え、フィル……?」
「おねえ、ちゃん……!!」
「きゃっ!? ど、どうしたの?」
「おねえちゃん、おねえちゃん、おねえ、ちゃん……!」
「ちょ、ちょっと。何が、どうなっているの?」
泣きじゃくる声。
悲しみではなく、歓喜から起こるその響き。
この声を聞けただけで、満足だ。
なんだか、かなり眠い。
まぁ数十年分の経験を眠らずに過ごしたんだ。
実際の時間経過はともかく、疲れてるのも当然だよな。
悪い、ちょっと寝るわ。
声に出したつもりだったが、実際に出たかどうかは非常に怪しい。
でもまぁ、俺、頑張ったんだなって。
自分の成果に、胸を張れる。
それでいいよな。今は。




