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 それは、正しく地獄のような時間。

 俺としての自意識を残したまま、身動きもできず、言葉も発せず、ただひたすらにエウリアの視線で。

 穏やかな一日を、何の変哲もない日常を、変わり映えのしない毎日を。

 両親の愛情を受けた。

 得がたい幼馴染もいた。

 狩人としての訓練を行った。

 初陣では大きな獣を狩り、宴会では大いに楽しんだ。

 魔獣にも襲われた。

 悲しい別れもあった。

 何年も、何年も。

 延々と、延々と。

 それは自我が擦り切れるほどの長い歳月。

 目を閉じることも許されず、目を背けることも許されず、ひたすらに彼女の内を見続ける。

 感情に翻弄され、痛みに傷つく。

 彼女に向けられる視線、感情。

 俺の生きてきた時間の何倍もの長さ。

 脳に刻み込まれる情報は整理することも出来ず、莫大な量が()に浸透していく。

 いつしか彼女と俺は同化し、一挙手一投足全てを感じ取れるようになる。

 彼女()の想いは、()と同一で。

 ()彼女(ユキさん)の間に境界線は無く。

 そして、運命の日がやってきた。

 森の外れの大樹の根元に、赤子が捨てられていた。

 村長達はその赤子を真種と呼ぶ。

 妖精よりも上位の存在、精霊。

 その精霊が授けし、神秘の娘だと。

 私達よりも遥かに優れた魔力は、魔術も呪いも及ばぬ境地にたどり着くのだと。

 真種こそ森人の導き手だと。

 魔獣に脅かされた世界を守る存在だと。

 村長達は主張する。

 だが。

 村長達の思惑はまた別で。

 その娘は、ただただ利用されるためだけに育てられる。

 類稀な魔力は、閉鎖的な村には劇薬とも言え。

 成人を待たずして、その娘は子を為すためだけに育てられ。

 碌な教育もされず、言葉も教えられず、感情も希薄なまま。

 そのような、悪意に満ちた生活に。

 怖気が走る。

 だから私は彼女を連れ出すことにした。

 しかし通常の手段では不可能だ。

 現状、目を盗んで、彼女に基礎教育を施す程度。

 幸い彼女は聡明だった。一度聞けば理解し、覚えたことは忘れない。

 その点も、精霊に愛されているといわれる所以なのかもしれない。

 ただ。彼女は、本当に、普通の女の子だ。

 特別でも何でもなく、ただただ幸せを願う普通の女の子だ。

 そんな彼女の幸せを願うことに、何の不思議があろうか。

 機会を待ち、密やかに接触を続け。

 そして決行の日が来た。

 その日は、朝から森が騒がしかった。

 侵入者ではない。それであれば、獣がもっと活発だ。

 この雰囲気には覚えがある。

 過去、村に多大な犠牲を齎した、魔獣の気配だ。

 村の守りは、全て魔獣に当てられる。村長達は若者達に連れられて安全な場所に避難する。

 その混乱に乗じて、あの子を連れ出すんだ。

 うまくいくと思っていた。侮っていた。

 私達も過去の事例に倣い、魔獣対策を進めていた。安全な倒し方を考察してきた。

 予想外だったのは、その数があまりにも多かったこと。

 逃げる私達にも追っ手が掛かる。

 死を覚悟した。

 そこで、出会った一人の少女が、私達の運命を――




「……っ! ……まっ!」


 ぼんやりと、声が聞こえてくる。

 誰だろう。


「しっかりしてください! お気を確かに!」


 羽の生えた、小さな妖精。

 涙をぼろぼろと流しながら、必死に私に取りすがっている。

 どうしたことだろう。私はこの子に、泣かれるようなことをしたのだろうか。

 直前の記憶が無い。

 何をしていたんだっけ。

 ゆっくりと首を振り、視線を彷徨わせ、情報を集める。

 と。

 床に倒れ伏す森人の姿が。

 見覚えが、あるような……。


「あ、れ……?」


 見覚えがある、じゃない。

 これは私?

 一体どういうことだろう。


「ユキ様! 貴女は、ユキ様です! エウリアさんではありません!」

「え……?」


 何を、言っているんだ。

 私は。

 もう一度、寝ている私を見る。

 苦しそうな顔だ。眠っているというのに、一体どんな悪夢に苛まれているのか。


「やはり、こんな……! 人間が、一人の人生を覗き込んで、無事なわけが……!」


 一人の人生を見て、無事じゃない、だって? この妖精は、一体何を――。



 いや。ティト。お前、何つった?



 ……急激に頭が冷える。冗談じゃねぇ。物語を読んで追体験した気になって、それで人格が変わるってか?

 現実と非現実を一緒くたにしてんじゃねぇぞ。

 取り乱すティトを改めて見る。

 酷い顔だ。涙でぐしゃぐしゃになっているし、鼻水も出ている。

 あまりに泣きっぷりに、却ってこちらが冷静になれるってもんだ。

 ぽん、と頭に手をやる。

 ビクリと肩を震わせる。

 安心させるように、しっかりと目を見つめ、そして宙に向かって叫ぶ。


「オタクの妄想力を舐めんなあぁぁぁぁぁぁ! こんなもんただの映像だ、なりきり用の資料集めだ! そんなもんで俺が変わってたまるかよ!」

「ユキ、様ぁ……!」


 エウリアという森人の経験を、非常に濃い物語を追体験し、それを模倣し、そこを基準に彼女という人格を象る。

 「来歴看破」はあくまで手段。今、現時点で、俺の中には彼女の全てが入っているといっても過言ではない。

 後は、コピーしたその情報を、ペーストするだけだ。

 原理なぞ知らない。だからこそ、効果は安定しないだろう。

 なればこそ。それっぽい行動を取れ、イメージを強化しろ。

 寝ているエウリアの額に、俺の額を当てる。

 脳から脳へ、直接移していくイメージで。

 彼女の想いを。

 彼女の願いを。

 名前は無い。これは無名の魔法。エウリアを癒したいという、フィルの望みと、それを叶えてやりたいという俺の我侭と。

 それを実現させるためだけの回復魔法。

 涼やかな体温が、皮膚を通じて伝わってくる。

 俺の熱い体温を、皮膚を通して伝えていく。

 その体温の交換と同時に、あの体験を投影する。


「移し変える……! 複写する……! 俺の記憶を、彼女の記憶を、全部、ありったけ!!」


 脳裏に焼きついた光景を。

 胸から沸き起こる感情を。

 鮮烈なまでの印象で以て。

 成功する。成功させる。失敗など考えない。

 瞬間、薄暗い室内が、眩いばかりの光に包まれる。


「うっ!?」

「これ、なに……!?」


 フィルとティトの呻き声が聞こえる。

 悪いが、そんなの気にしていられねぇ。

 魔法は発動している。

 ならばこのまま続けるだけだ。

 ぎゅっと目を瞑り、もっと奥へと念じる。

 表層だけじゃあない。深層心理まで踏み込んで、彼女を丸写しする。

 そこまでしなきゃ、元通りとは言えない。

 だから。


「持っていけえぇぇぇぇ!!」


 地下に声が木霊する。

 反響する音に応えるように光はさらに強まる。

 目を閉じているのにもかかわらず、瞼の奥を焼く。

 時間にすれば、ほんの僅かだったろう。

 だというのに疲労感は並大抵では無い。ギリギリのところで、エウリアに覆いかぶさるように倒れこむことだけは避けられたが。

 横並びで寝転がる。

 顔の横に何かが垂れる感触。

 ああ、そういや血が出てたな。拭うのも面倒くさい。そのままでいいや。


「ん……」


 すぐ横から声が聞こえる。

 苦しげな声ではない。

 ただ眠りから醒めるだけの声。


「ここ、は……? え、フィル……?」

「おねえ、ちゃん……!!」

「きゃっ!? ど、どうしたの?」

「おねえちゃん、おねえちゃん、おねえ、ちゃん……!」

「ちょ、ちょっと。何が、どうなっているの?」


 泣きじゃくる声。

 悲しみではなく、歓喜から起こるその響き。

 この声を聞けただけで、満足だ。

 なんだか、かなり眠い。

 まぁ数十年分の経験を眠らずに過ごしたんだ。

 実際の時間経過はともかく、疲れてるのも当然だよな。

 悪い、ちょっと寝るわ。

 声に出したつもりだったが、実際に出たかどうかは非常に怪しい。

 でもまぁ、俺、頑張ったんだなって。

 自分の成果に、胸を張れる。

 それでいいよな。今は。

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