第7話
僕達はエレベーターで2階まで上がり、閉店したコンセプトカフェの中に入って、ビルの入口で出会った女性と千佳さんと僕の3人で座席に座る。
今やここは閑散としているが、かつてはこの空間でチェキ撮影だとか、接待営業だとかをしていたのだろう。どこか感慨深さを感じる。
沈黙を破るように女性が口を開いた。
「……えっと、神谷綾乃…です…だよ…。」
先ほどの方言全開の喋り方とは打って変わって、頑張って標準語を話そうとしている姿はどこか可愛らしいものがあった。
「綾乃ちゃんってどこ出身?」
「すごいいきなり!?」
僕は反射的にツッコんでしまう。
「神奈川の相模原……。」
「「嘘、神奈川?!」」
思わず千佳さんとハモってしまう。無理もない。相模原のどこに住んだら、そんな方言全開の喋り方ができるか、僕達2人には分からないからだ。
「実は…親が2人とも山梨出身で、あの喋り方だったから…気を抜くとあの喋り方になる。」
「なるほど。それで、なんでこの場所に?」
「ネットで調べたら…出てきた…。」
そう言って神谷さんはスマホを僕達に差し出す。そこには、メイドカフェのサイトが表示されていた。おそらく、このコンセプトカフェより更に前のカフェだろう。
「そういえば、神谷さんは普段何をされているんですか?」
「学生…大1…。」
「学生なんですか?!」
大人びて見えたから僕と同じくらいか少し年上くらいかと思ったら、まだ20代にすらなっていないとは驚いた。
「なんで?わりい?」
「あ、いや、そう言うわけではなくて…」
神谷さんがあからさまに僕のことを警戒してきた。
「ハハ…実は私達さ、ここをアイドル活動の拠点にする予定なんだよね。でもこの通り、絶賛メンバー大募集中だからさ。どう?綾乃ちゃん、興味ない?」
「アイドルか…興味はあるけど、私には…」
そう言って、神谷さんは俯く。
「大丈夫だよ!綾乃ちゃん、可愛いし。歌かダンスはやってたの?」
「歌は…やってた…。でも、私が歌うと…変に訛っちゃって…『変だ』って言われて…」
そこまで言うと神谷さんの頬が赤く染まっていく。
なるほど、この人は歌にコンプレックスがあるのか。
「大丈夫、僕も昔はめっちゃ歌が下手だったから。」
「よく分からん人の歌下手とか…知らない。」
と、なぜか警戒されてしまった。
(なぜだろう…?)
と思い、ふと思い返すと、僕は変装用のマスクと眼鏡を付けたままなことに気づいた。
僕は急いで外し、
「ごめんなさい、これ外すの忘れてました。」
とマスクと眼鏡を両手に持って掲げて笑ってみせた。
すると神谷さんは驚いたように、
「Emmaの…乃木健人…。」
と言った。
「まあ、『元メンバーの』、ですけどね。でもやっぱり、歌に苦手意識があるなら、歌って苦手意識をなくすのが一番ですよ。」
そう言って僕は近くの小上がりへ上がる。おそらくここでライブやらなんやらしていたのだろう。
「じゃあ、試しにここで歌ってみませんか?」
僕はそう提案してみた。
「え…今?」
神谷さんは明らかに戸惑っている。
「大丈夫。僕と千佳さんしかいないし、ここなら誰にも聞かれない。それに、本当に変かどうか、確かめてみたいんだ。」
神谷さんは唇を噛んで、ステージを見上げた。迷っている。でも、その目には確かに何かが宿っていた。
「……少しだけ、なら」
彼女はゆっくりと小上がりへ足を踏み出した。ニットとチノパンという控えめな服装だったが、ステージに立つと不思議と華やかに見えた。
彼女は深く息を吸い込むと、少し震える声で『Ave Maria』を歌い始めた。サビに入ると彼女の声は力強く響き渡った。
歌は十分なほど上手かった。いや、上手いなんてレベルじゃなかった。
これは才能だった。
ただこの歌い方はJ-POP向けではなく、オペラなどのクラシック音楽向けのように感じた。でも、この声質なら必ず活かせる場所がある。
歌声が静寂に溶けていく。千佳さんも息を呑んでいる。
「すごい…プロみたい」
千佳の声が聞こえた。彼女は息を呑んだまま、神谷さんを見つめている。
神谷さんは急に恥ずかしくなったのか、頬を染めながら足早に出口へ向かった。
「待って!」
僕は慌てて彼女の腕を掴んだ。
「なんで逃げるんですか?今の歌、素晴らしかったのに」
すると、神谷さんは小さく肩を震わせた。張り詰めていた糸が切れたような、そんな表情だった。
何かをずっと抱え込んでいたのかもしれない。
そして、ここに来た本当の理由を話してくれた。
「……本当は…コンセプトカフェでアイドルみたいな格好がしたくて…ここに来たんだ…。でも、1人で来る勇気がなくて、何度も引き返そうとしたんだけど…」
「そうなんだ。アイドルの衣装好き?」
神谷さんは首を縦に振った。
「そっか。じゃあ歌を歌う事は?」
それも首を縦に振った。
「……それは、もっと好き。」
「じゃあ、とびきり可愛い衣装を用意する。それならやってくれる?」
僕がそう言うと、彼女は今日一番の笑顔を見せてきた。そして、
「うん!」
と言った。これまで神谷さんは大人っぽいと思っていたけど、ちゃんと乙女だという事が分かった。
「今日は、何をするの?」
「今日はまだ未定です。とりあえず、レッスン場はこの上のフロアで、ここでコンセプトカフェをやりながら、地道に実績積んで行くってやり方ですね。」
「了解。」
そう言って、神谷さんは小走りに衣装ケースへ向かった。その後ろ姿は、さっきまでの大人びた雰囲気とは打って変わって、年相応の女の子に見えた。
「可愛い…」
そう言って恍惚と衣装を見ている。よっぽど憧れてたんだろう。
そんな姿も美しい。さながらビジュアル担当と言ったところだ。
神谷さんは衣装ケースから何着も衣装を取り出しては、鏡の前で合わせている。その様子を見守りながら、僕は千佳さんと今後の活動方針について軽く打ち合わせをした。
「じゃあ、一応連絡先交換しておくね」
千佳さんが神谷さんにメッセージアプリのQRコードを見せている。神谷さんは「うん!」と満面の笑みで応じた。
「じゃあ、また。」
神谷さんは何度も振り返りながら、エレベーターへと消えていった。
店内に静寂が戻る。僕と千佳さんだけになった空間は、さっきまでの賑やかさが嘘のように静かだった。
「いいメンバーが見つかりましたね」
僕が言うと、千佳さんはカウンターに頬杖をついて、ゆっくりと頷いた。
「うん。綾乃ちゃん、絶対に人気出ると思う」
「そうですね。あの歌唱力なら…」
「ねえ、健人くん」
千佳さんが急に真面目な顔になった。
「なんですか?」
「その『なんですか?』っていうのがさ……」
千佳さんは少し寂しそうに笑った。
「私達、もう何日も一緒にいるのに、健人くんはずっと敬語のままだよね。さっき綾乃ちゃんとはすぐ打ち解けてたのに。」
言われて、ハッとした。
確かに、神谷さんには途中から結構フランクになっていた。でも千佳さんに対しては、ずっと距離を置いているような喋り方をしている。
「それは……」
言葉に詰まる。なんでだろう。意識していなかったけど、確かに妙によそよそしい態度を取っていたかもしれない。
「私のこと、信用してない?それとも、まだよそよそしく感じてる?」
「いや、そんなことは……」
千佳の目が僕をじっと見つめている。冗談めかした口調だけど、その瞳は本気だった。
「じゃあ、今日から私に対しては敬語もさん付けも禁止!」
「えぇ……それは……」
正直、躊躇いがあった。千佳さんは確かに一緒に活動する仲間だけど、まだ出会って数日だ。
「ダメ?」
千佳さんが少し不安そうな顔をする。
「……分かった、千佳」
その名前を呼んだ瞬間、千佳の顔がパッと明るくなった。
「やったぁ!」
彼女は嬉しそうに飛び跳ねる。その反応が予想以上に大きくて、僕は少し驚いた。
「なんでそんなに嬉しいんだよ」
「だってさ」
千佳は照れくさそうに笑った。
「健人くんが敬語使うと、なんか……まだ私のこと、本当の仲間だと思ってないのかなって感じちゃって。もっと近くにいるのに、遠い感じがしてた」
その言葉に、僕は少しドキッとした。
千佳は最初からずっと、僕を対等な仲間として扱ってくれていた。元アイドルと一ファン、とか、そういう肩書きは関係なく。なのに僕の方が、無意識に壁を作っていたのかもしれない。
「……ごめん。気づかなかった」
「ううん、いいの。これからよろしくね、健人くん」
千佳の笑顔は、さっきまでよりずっと柔らかく見えた。
窓の外では夕日が店内を赤く染めている。
「ねえ、千佳」
「ん?」
「明日から、もっと面白くなりそうだね。」
「うん!」
千佳は嬉しそうに笑った。
僕は立ち上がり、椅子を片付け始めた。千佳も手伝ってくれる。
2人で並んで片付けをする。それは不思議と心地よい時間だった。




