第33話
オーディションが終わって数時間後、僕は『Taverna da SANNO』の前で立ち止まっていた。
ポケットの中からスマホを取り出す。
江ノ島からの返信、「明日会えませんか」。
13年ぶりに2人で会う。あの日のことを、話さなければならない日が来る。
今日、一次審査を突破した。7人は焼肉屋で祝杯を上げ、ルナは肉を食べながら号泣し、玲奈ちゃんと初歌ちゃんは抱き合って泣いた。
僕は店を出て、6人と別れて帰路へついた。「ちょっと用事がある」と嘘をついて。
本当は、何も手につかなかったんだ。
店の明かりが暖かい。ガラス越しに太一さんが閉店準備をしているのが見える。
手が震えている。引き返そうか、明日でもいいんじゃないか。
でも、明日になったら、また怖くなる。また逃げてしまう。13年間、ずっとそうやって。
僕はドアを開けた。
「あ、乃木さん。こんばんは!」
太一さんが笑顔で迎えてくれた。
「こんばんは……」
声がうまく出ない。太一さんは僕の表情を見て少し心配そうな顔をした。
「どうしました? 顔色、良くないですよ」
「いえ、大丈夫です。あの……千佳、いますか?」
「千佳? ああ、今2階にいると思いますよ」
太一さんが言葉を切った。
「……乃木さん」
「はい?」
太一さんは少し真剣な顔になった。
「一次審査突破、おめでとうございます」
「あ……ありがとうございます」
「相手は江ノ島裕美さんのグループだったんですよね」
太一さんの声が、少し低くなった。
「……ええ」
「千佳から、少し聞いてます」
太一さんが僕をじっと見た。
「勝って、良かった」
その言葉に、胸が熱くなった。太一さんは、分かってくれている。
これが、どれだけ大きな一歩だったかを。
「……千佳には、いつも助けられてばかりで」
「お互い様ですよ」
太一さんが僕の肩をポンと叩いた。
「千佳もきっと、乃木さんに助けられてる」
2階へ続く外階段を登りながら考える。今から何を話せばいいんだろう。
『千佳、明日暇? 実は江ノ島と会うんだ。付いてきてほしい。』
そんな簡単な言葉のはずなのに、胸の奥が苦しい。
山王家の前に着いた。インターフォンに手を伸ばす。
指先が震える。——逃げるか?
頭の中で、あの声が囁く。
『秘密、守れるわよね?』
首筋が疼いた。
いや。もう、逃げない。
僕はインターフォンを押した。
『はーい』
数秒後、ドアが開いた。
「健人くん?」
千佳が驚いた顔で立っていた。部屋着のままで、髪も下ろしている。
いつもと違う、リラックスした表情。
「ごめん、急に」
「ううん、全然。どうしたの?」
千佳の目が僕の顔を見て、少し曇った。
「……入る?」
「うん」
リビングに通された。ソファに座ると、千佳が紅茶を淹れてくれた。
「お父さんに会った?」
「うん。店で」
「そっか」
千佳が僕の隣に座る。
しばらく、沈黙。
カップを持つ手が震えている。千佳は、それに気づいているはずだ。
「健人くん」
千佳が静かに言った。
「何か、あった?」
僕はカップを見つめた。湯気がゆらゆらと揺れている。
「……決めたんだ」
「何を?」
「江ノ島と、会う」
千佳が息を呑んだ。
「……あっちから連絡が来たの?」
「うん。『話したいことがある』って」
「健人くんが勝ったから、向こうも焦ってるんだよ」
千佳の声に、少し怒りが混じっていた。
「今さら何を話すつもりなんだろうね」
「いつ?」
「明日」
千佳の視線を感じる。
「どうして会おうと思ったの?」
千佳が静かに聞いた。
僕はしばらく考えた。
「それは……分からない」
正直に言った。
「ただ、江ノ島から『話がある』って連絡が来て」
「断ってもいいんだよ」
「うん。でも……」
僕は首筋を撫でた。
「もしかしたら、彼女も何か言いたいことがあるのかもしれない」
「謝罪?」
「分からない。期待もしてない」
息を吐いた。
「でも、このまま逃げ続けるのも……疲れたんだ」
僕は目を閉じた。
「今日、ステージの7人の顔を見たんだ」
オーディション会場の光景が蘇る。
「千佳も、ルナも、玲奈ちゃんも、初歌ちゃんも、志歩も、綾乃さんも、菖蒲さんも——みんな、必死で戦ってた」
声が震える。
「僕のために…いや、違う。自分達のためにも、戦ってた」
千佳は黙って聞いている。
「でも、僕はどうだろう」
拳を握りしめた。
「13年前から、ずっと逃げてる」
「健人くん——」
「いや、言わせて」
僕は千佳を見た。
「千佳は『もう大丈夫』って言ってくれた。みんなも、僕を信じてくれてる」
涙が溢れそうになる。
「でも、僕は大丈夫じゃない。今日だって、モニタールームで江ノ島の名前を見ただけで、体が震えた。首筋が疼いて、呼吸ができなくなった」
千佳が僕の手を握った。
「それでも、みんなは勝ってくれた。僕が何もできない間に」
「今日、オーディションで江ノ島のチームに勝った」
僕は握られる中、拳を握った。
「でも、だからって……彼女が怖くなくなるわけじゃない」
「そうだよね」
千佳が頷いた。
「オーディションと、あの日のことは、別の話だもん」
千佳はしばらく黙っていた。
「健人くん、それは……本当に健人くんの意志?」
言葉に詰まった。カップの中の紅茶が、口もつけずにもう冷めかけている。
「みんなのために、無理してない?」
外から車の音が聞こえる。街は、いつも通り動いている。
でも僕は、13年間ずっと同じ場所で立ち止まっている。
「『みんなが戦ってるから、自分も戦わなきゃ』って、思ってない?」
千佳の目が真剣だった。
「それは、健人くんがやりたいことなの?」
僕は何も言えなかった。
千佳は僕の手を両手で包んだ。
「健人くん、聞いて」
「うん……」
「トラウマと向き合うのに、『正しいタイミング』なんてない」
千佳の声が優しい。
「早く克服しなきゃいけないわけじゃない。誰かと競争してるわけでもない」
涙が零れた。
「でも……このままじゃ、僕は——」
「このままでもいいんだよ」
千佳が微笑んだ。
「健人くんは、もう充分頑張ってる」
「でも」
千佳が続けた。
「もし、本当に健人くんが『向き合いたい』と思うなら——私は、一緒に行く」
僕は涙を拭った。そして、千佳を見た。
「僕……本当は、怖いんだ」
「うん」
「明日、江ノ島に会うのが怖い」
「うん」
「明日会ったら、また声が出なくなるかもしれない」
僕は首筋を無意識に擦った。
「あの日みたいに」
千佳は黙っていた。
「でも……このまま30歳、40歳、歳を重ねていっても、まだ彼女から逃げてる自分も嫌なんだ」
声が震えた。千佳の手が、僕の手を強く握り返した。
「怖いまま、このまま生きていくのも怖い」
千佳がじっと聞いている。
「過去に縛られないで、前だけ見て進みたいって……」
また涙が溢れた。
「そのためには、もう逃げられないんだ」
千佳はしばらく僕を見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
「千佳……」
「じゃあ、一緒に行こう」
千佳が微笑んだ。
「健人くんが決めたなら、私は全力で支える」
「ありがとう」
僕は心の底からそう言った。
「でも」
千佳が真剣な顔になった。
「約束して」
「何を?」
「もし明日会ってみて、やっぱり無理だと思ったら」
「うん」
「途中でも、その場から離れていい」
千佳の目が真剣だった。
「会うことが目的じゃない。健人くんが安全でいることが、一番大事だから」
「もし途中で辛くなったら、すぐに言うこと」
千佳が僕の肩を掴んだ。
「無理して『大丈夫』なんて言わないこと」
「……うん」
「それから」
千佳の目が潤んでいるように見えた。
「終わったら、必ず私のところに戻ってくること」
「え?」
「1人で抱え込まないで」
千佳の声が震えているように聞こえた。
「何があっても、私達のところに帰ってきて」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……うん。約束する」
「待ち合わせは?」
「明日の11時半。駅前のカフェ」
「じゃあ、11時に駅で合流しよう」
千佳がスマホのカレンダーにメモを取る。
「健人くんが落ち着けるように、少し早めに行こう」
「ありがとう」
僕は立ち上がった。
「じゃあ、今日は帰るね」
「うん」
千佳も立ち上がって、玄関まで送ってくれた。ドアを開けると、夜風が頬を撫でた。
「健人くん」
背後から千佳の声。振り返ると、千佳が真剣な顔で立っていた。
「明日、怖くなったら……」
千佳が自分の手を見た。
「この手を、握っていいから」
声が出なかった。喉の奥が詰まって、言葉が形にならない。
ただ頷くことしかできなかった。
千佳の手が、僕の肩に触れた。その温もりが、震えを少しだけ鎮めてくれた。
視界がぼやけた。何度も瞬きをして、千佳の顔を見る。
彼女は泣いていなかった。ただ、まっすぐ僕を見ていた。
「……うん」
ようやく、声が出た。
階段を降りながら空を見上げた。星が綺麗だった。
明日、あの人と会う。
怖い。
でも、千佳の言葉が蘇る。
『この手を、握っていいから』
『途中で辛くなったら、その場から離れていい』
店の前を通り過ぎる時、ガラス越しに太一さんが見えた。
太一さんが手を振ってくれた。僕も手を振り返した。
家に着いて、ベッドに倒れ込んだ。明日のことを考えると、まだ怖い。
でも——
千佳の声が、まだ耳の奥に残っている。
『必ず私のところに戻ってきて』
逃げてもいい。戻る場所がある。
窓の外で、風が木々を揺らしている。夜の匂いが、少しだけ柔らかく感じた。
そして僕は、目を閉じた。
13年ぶりに、暗闇が少しだけ優しかった。
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