第32話
モニタールームの時計が、午後2時43分を示している。
あと2分。
僕の首筋が、また疼いた。
江ノ島の指が這った、あの感触。
朝の電話。廊下での遭遇。
全部、今日のためだったんだ。
『楽しみだわ。今日、あなたの子達がどんな顔をして崩れ落ちていくのか』
違う。僕は壁に手をつく。
崩れ落ちるのは、あんたの方だ。
画面には、ステージに並ぶ『METROPOLARiS』の7人がいた。
千佳が、小さく深呼吸している。
——機材が壊れたあの夜、「絶対に諦めない」って泣きながら言ったのを思い出す。
玲奈ちゃんは天井を見上げている。
——さっきのステージ、ステップを外した瞬間の彼女の顔。でもすぐに初歌ちゃんが——
初歌ちゃんは目を閉じている。
——玲奈ちゃんのミスを、一瞬で補正したあの判断力。5人時代のEmmaには、なかった。
「最後の1組は——」
千佳が両手を胸の前で組んだ。
『明日も、こうなるかな』
志歩の声が蘇る。観覧車の中で。
——『怖いけど、終わったら笑ってるみたいな』
僕は答えた。
——『きっと、そうなるよ』
画面の中で、志歩が唇を噛んでいる。彼女は、まだあの約束を覚えているんだろうか。
「METROPOLARiS!」
——え?
「よし!!!」
叫んでいた。椅子を蹴り倒して、立ち上がっていた。
画面の中で、千佳が泣いている。
玲奈ちゃんと初歌ちゃんが抱き合っている。
僕は窓ガラスに映る自分の首筋を見た。
江ノ島の指が這った、あの場所。
もう、震えていない。
「見たか、江ノ島裕美」
小さく呟いた。声は、震えていなかった。
13年前、あの練習室で。僕は何も言い返せなかった。
ただ、黙って耐えるしかなかった。
でも今日、僕は——僕達は、勝った。
画面の中で、千佳がカメラに向かって叫んでいる。
「健人くん!」
「ありがとう」
千佳に。玲奈ちゃんに。初歌ちゃんに。
ルナに。志歩に。綾乃さんに。菖蒲さんに。
そして——
僕は窓の外を見た。
どこかにいるはずの、江ノ島裕美に向かって。
「もう、あんたには負けない」
13年かかった。でも、今日やっと言えた。
モニターの中で、7人がステージから退場していく。
僕は涙を拭って、立ち上がった。
「さあ、迎えに行こう」
控え室までの廊下。
この廊下で、朝、江ノ島に怯えた。
千佳が助けてくれなければ、僕はまた壊れていた。
でも今は違う。
廊下の先に、7人の笑い声が聞こえる。
控え室の前で、僕は一度立ち止まった。
首筋が、また疼いた。朝、江ノ島に触れられかけた場所。
廊下で、千佳が助けてくれなければ——
いや、違う。
もう、あの人は関係ない。僕達は、勝ったんだ。
ドアの向こうから、声が聞こえる。
泣き声と、笑い声と、叫び声が混ざり合っている。
深呼吸。ドアノブに手をかける。
そして開けた。
「健人くん!」
千佳が、最初に飛び込んできた。
「勝ったね」
その声は、思ったより静かだった。
「あの人に、勝ったね」
千佳は僕の首元を見た。朝、廊下で江ノ島が触ろうとした場所。
「もう大丈夫?」
僕は頷いた。
「ああ。もう、大丈夫」
千佳の目に、涙が溢れた。
「よかった...」
彼女は僕の胸に顔を埋めた。
「健人くんが、壊れなくて...本当に、よかった...」
その肩が、小刻みに震えている。僕は千佳の頭を、そっと撫でた。
「ありがとう、千佳。千佳がいなかったら、僕は今日、あの人の前で立っていられなかった」
千佳が顔を上げる。目が真っ赤だった。
「ううん。健人くんが強かったから」
「違うよ」
僕は首を振った。
「千佳が、僕を強くしてくれたんだ」
また泣き出した。でも今度は、笑っていた。
「健人ー!」
ルナが僕の背中を、思い切り叩いた。
「やったぜ!」
いつものような笑みだが、目は真剣だった。
「健人、あの女に会ったんだろ?朝」
僕は頷いた。
「顔、真っ青だったぜ。千佳が呼びに来た時」
ルナが拳を突き出してくる。
「でも逃げなかった。だから、これはお前の勝利でもある」
僕は、その拳に自分の拳を合わせた。
「ありがとう、ルナ」
「礼なんざいらねえよ」
ルナがニヤリと笑った。
「アタシらは仲間だ。お前が戦うなら、アタシらも戦う。それだけだ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「そうだね。仲間、だね」
「おう!」
ルナが僕の肩を掴む。
「じゃあ次は、もっとでかい舞台で暴れてやろうぜ!」
玲奈ちゃんと初歌ちゃんが、両側から近づいてきた。
「健人」
玲奈ちゃんの目が、真っ赤に腫れている。
「さっき、ステップ外しちゃった時、終わったって思った」
「でも」
初歌ちゃんが続ける。
「初歌が、すぐフォローしてくれて」
玲奈ちゃんが初歌ちゃんの肩を抱く。
「5人の時は、こんな風にフォローし合えなかった」
「うん」
初歌ちゃんが頷く。
「Emmaの時は、みんなバラバラだったから」
2人が、僕を見た。
「今は違う」
玲奈ちゃんが微笑んだ。
「7人だから。健人が、私達を繋いでくれたから」
「ありがとう、健人」
初歌ちゃんも微笑む。
「私達を、ここまで連れてきてくれて」
僕は2人の頭を、順番に撫でた。
「2人とも、よく頑張ったね」
「うん!」
2人が同時に頷いて、また笑った。
志歩が、僕の前に立った。
一瞬、視線が泳ぐ。昨日のことを思い出しているのだろうか。
「乃木さん」
彼女は俯いて、小さく笑った。
「観覧車で言ったでしょ。『怖いけど、終わったら笑ってる』って」
顔を上げる。目は真っ赤だが、笑っていた。
「本当に、笑ってるね。私達」
志歩の頬が、少し赤い。
「だから...その...」
言葉が続かない。僕も、何と言えばいいのか分からない。
「とにかく!」
志歩が勢いよく顔を上げた。
「ありがとうございました!乃木さんのおかげです!」
そう言って、深々と頭を下げる。
耳まで、真っ赤になっていた。
「志歩」
「は、はい!」
「昨日、楽しかったよ」
志歩の顔が、さらに赤くなった。
「わ、私も...です...」
小さな声で呟いて、また俯いた。不覚にも可愛いと思った。
綾乃さんが、優しく僕の肩に手を置いた。
「お疲れ様、乃木さん」
その声も、少し震えている。
「よく、ここまで導いてくれた、ね」
「いえ、僕は何も」
「そんなこと、ない」
綾乃さんが首を振った。
「乃木さんがいなければ、私達はバラバラな7人、だった」
彼女は、他の6人を見渡す。
「でも今は、『METROPOLARiS』。1つのグループになった」
綾乃さんが、僕を見た。
「それは、あなたが繋いでくれたから」
「綾乃さん...」
「だから」
綾乃さんが微笑んだ。
「ありがとう、乃木さん。これからも、よろしく」
僕は頷いた。
「こちらこそ、よろしくね」
菖蒲さんが、珍しく満面の笑みで近づいてきた。
「乃木さん」
「はい」
「これが、私達の実力ですね」
その言葉に、僕は笑った。
「ええ。間違いなく」
菖蒲さんが、小さく拳を握る。
「でも、まだ足りません」
「そうですね」
僕も頷いた。
「2次審査は、もっと厳しいでしょう」
「ええ」
菖蒲さんの目が、鋭く光る。
「だから、もっと強くなります。私達全員で」
その言葉に、僕は改めて思った。この7人は、本当に強い。
技術だけじゃない。心が、強い。
僕は、7人全員を見渡した。
千佳。ルナ。玲奈ちゃん。初歌ちゃん。志歩。綾乃さん。菖蒲さん。
5ヶ月前。Emmaを追い出された日。
全てを失ったと思った。でも、違った。
あれは終わりじゃなかった。この7人と出会うための、始まりだったんだ。
「みんな」
声が震える。視界が滲む。
「本当に、ありがとう」
千佳が、また泣き出した。
「なんで健人くんがお礼を言うの!お礼を言うのは、私達の方だよ!」
「そうだぜ」
ルナが笑った。
「健人がいなかったら、アタシなんて今でも新宿と渋谷の片隅で燻ってたよ」
「健人がプロデュースしてくれたから」
玲奈ちゃんが続ける。
「私達、ここまで来られた」
「だから」
初歌ちゃんが微笑んだ。
「お礼を言うのは、私達の方」
「じゃあ」
志歩が、涙を拭いながら笑った。
「お互い様、ってことで」
「そうですね」
綾乃さんが頷いた。
「それでいいんじゃないでしょうか」
「ああ」
僕は笑った。
「それで、いい」
菖蒲さんが、小さく頷く。
「では、次に向けて」
「その前に!」
ルナが手を上げた。
「まずは祝おうぜ!焼肉!焼肉行こう!」
「ルナ、いつも焼肉、だね...」
綾乃さんが呆れたように笑う。
「でも、今日はそれもいいかも」
「じゃあ決まり!」
千佳が笑った。
「健人くんのおごりで!」
「え、僕?」
「当たり前でしょ!プロデューサーなんだから!」
みんなが笑う。その笑顔を見て、僕も笑った。
「わかった、わかった。今日は奮発するよ」
「やった!」
7人が喜ぶ。
ドアを開けると、廊下にスタッフたちが並んでいた。
「おめでとうございます!」
拍手が響く。
「ありがとうございます!」
7人が、元気に返事をする。廊下を歩きながら、僕はふと思った。
朝、この廊下で江ノ島に会った。あの時は、震えて立っていられなかった。
でも今は違う。
横を見る。千佳が笑っている。
ルナが何か冗談を言って、みんなが笑っている。
僕は、もう1人じゃない。
そして——もう、あの人を恐れる必要もない。
「健人、何ニヤニヤしてんだ?」
ルナが肘で突いてくる。
「いや、なんでもない」
僕は首を振った。
「ただ、幸せだなって思っただけ」
「はっ、キザなこと言うじゃん」
ルナが笑う。
「でもまあ、アタシも同じだけどな」
外に出ると、春の風が頬を撫でた。
まだ少し肌寒いが、悪くない。
2次審査は、もっと厳しいだろう。もっと強い相手が待っているだろう。
でも、それだけじゃない。
僕はポケットの中のスマホに、そっと触れた。
僕が江ノ島にこれまでされた事を記したものが入っているスマホ。
「健人くん、何ぼーっとしてんの?」
千佳が振り返って、笑いかけてくる。
「早く来てよ!お腹空いたよー!」
「今行く!」
僕はポケットから手を出し、歩き出した。
今日は、祝おう。7人と、この勝利を噛みしめよう。
でも—
いつか、決断の時が来る。13年前から続く、あの人との戦いに。
本当の意味で、決着をつけるのか。
「健人ー!」
ルナが手を振っている。
「置いてくぞー!」
「待って待って!」
僕は小走りで、7人に追いつく。まだ、答えは出ていない。
でも—
横を見る。千佳が笑っている。
ルナが何か冗談を言って、みんなが笑っている。
「大丈夫だ」
小さく呟いた。
「その時が来たら、きっと」
もう、僕は1人じゃない。
どんな決断をするにしても。どんな戦いが待っていても。
この7人が、一緒にいてくれる。
それだけで—
「健人!何独り言言ってんだ?」
ルナが不思議そうに僕を見る。
「ううん、なんでもない」
僕は笑った。
「さあ、行こう」
春の夕暮れの中を、僕達は歩いていく。勝利の余韻に包まれながら。
そして、まだ見ぬ戦いを。
心の奥で、静かに覚悟しながら。




