第26話
翌朝、僕は誰よりも早く練習場に入った。
鏡に映る自分の顔は、昨夜よりはマシだった。少なくとも、青ざめてはいない。
「よし」
小さく呟いて、スマートフォンのメモアプリを開く。昨夜から書き溜めていた練習メニューが並んでいた。
『SHAKE! SHAKE! SHAKE!の振り付け確認』
『ボーカル個別指導』
『表情トレーニング』
やることは山積みだ。
背後でドアが開く音がした。
「おはよう、健人くん」
千佳だった。いつもより30分早い。手には2つのコーヒーカップ。
「昨日ちゃんと寝た?」
「……まあ」
千佳が僕の隣に座って、カップを1つ差し出した。
「嘘つき」
僕は苦笑して、コーヒーを受け取った。
「健人くん」
千佳が真剣な顔で僕を見た。
「無理しないでね。健人くんが壊れたら、私達も終わりなんだから」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないでしょ。昨日の夜、店から出た後、ずっとスマホ握りしめて震えてたの、私見てたんだから」
言葉に詰まる。まさか見られていたとは。
「でも、やらなきゃいけないことがある」
「それは分かってる。でも、1人で抱え込まないで」
千佳の手が、僕の肩に置かれた。
「私達、仲間でしょ?」
その言葉に、少しだけ胸の奥が軽くなった。
***
午前10時。7人全員が揃った。
「今日は大事な話がある」
僕は全員の顔を見渡した。
「課題曲は『SHAKE! SHAKE! SHAKE!』。『シンデレラガールズ』の代表曲で、相手が圧倒的に有利な曲だ」
場に緊張が走る。
「でも、どうするの? あのグループと同じように歌っても……」
玲奈ちゃんが不安そうに言った。
「もちろん、同じようには歌わない。でもまず、この曲を完璧にパフォーマンスできる状態にする。それが前提だ」
僕はホワイトボードにマーカーで書いた。
『1. 完璧に歌える、踊れる』
『2. その上で、僕達流にアレンジ』
「基礎ができてないのに、アレンジに走っても中途半端になる。だから順序を守る」
「じゃあ後は、みんなで決めておいて。」
僕はそう言って、少し離れた場所で座って休む事にした。少し体調が悪くなったからだ。
議論が白熱するのが聞こえる。声が重なり、意見が飛び交う。
僕は黙ってそれを聞いていた。いや、聞いていたつもりだった。
でも、体調が悪化したのか、だんだん声が遠くなっていく。視界の端が揺れる。
すると、頭の奥で過去の言葉が反芻される。
——『SHAKE! SHAKE! SHAKE!、いい曲でしょう?』——
江ノ島の声。
——『あの練習室で何度も聴いたわよね?』——
首筋が熱い。呼吸が浅くなる。
「健人?」
誰かが僕のことを呼んでいる。
「乃木さん!」
菖蒲さんの声で、僕は我に返った。7人全員が、心配そうに僕を見ていた。
「ごめん、ちょっと……」
椅子から立ち上がろうとして、膝がガクッとなった。
「健人くん!」
千佳が駆け寄ってくる。
「大丈夫、大丈夫だから」
僕は壁に手をついて、深呼吸した。
「……ちょっと休憩しよう」
外の自動販売機の前に座り込んでいた僕の目の前に、千佳が缶コーヒーを差し出した。
「ありがとう」
しばらく沈黙が続いた。
「健人くん」
千佳が隣に座った。
「あの人に、何されたの?」
聞かれると思っていた。でも、答える言葉が見つからない。
「……言いたくないなら、いいよ。でも」
千佳が僕の顔を覗き込んだ。
「1人で抱え込まないで。そのために私達がいるんだから」
喉の奥が熱くなる。
「……13歳の時」
僕は缶コーヒーを見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「事務所の練習室で、江ノ島さんに……」
言葉が詰まる。缶の表面に浮かぶ結露が、指先でにじむ。
「無理に言わなくていい」
「いや、言わなきゃ」
僕は目を閉じた。
「最初は『指導』だった。でも、違った。あれは……」
声が震える。千佳は黙って待っていてくれた。
「触られた。練習中も、休憩中も。『いい子ね』『秘密、守れるわよね?』って。親に言おうとしたら、家族を脅された」
拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んだ。
「4年間、ずっと。だんだんエスカレートしていって……もう、限界だった」
千佳の息を呑む音が聞こえた。
「13歳の子供が、誰にも言えずに耐えるしかなかったんだ。『これは自分が悪いんじゃないか』『もし言ったら、自分が壊されるんじゃないか』って、毎日考えてた」
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
「事件が起きて、あの人が移籍するまで。それでやっと終わったけど……終わってなかった。今でも、あの人の声を聞くだけで体が震える」
千佳が、そっと僕の手を握った。
「でも、黙ってるしかなかった。あの事件まで、ずっと」
「……事件って?」
千佳が小さく聞いた。
「あの時、事務所に所属してたアイドルの1人が、このことを告発しようとした。でも、事務所が揉み消して、江ノ島ごと別の事務所に移籍させた」
「そんな……」
千佳の声が震えていた。
「僕はあの時、言えなかった。怖くて。だから今も……」
「健人くん」
千佳の手に、力が込められた。
「……よく、1人で耐えてきたね」
千佳の声が震えていた。
「でも、もう1人じゃないから」
しばらく沈黙が続いた。そして千佳が、僕の肩を掴んだ。
「健人くん。私、あの人が許せない」
「千佳……」
「ステージで勝とう。あの人の顔に、私達の成長を叩きつけてやろう。『もう、あんたには負けない』って」
僕は小さく頷いた。言葉が、出てこない。
中に戻ると、6人が心配そうに僕を見た。
「ごめん、心配かけた」
「いいよ。健人が大丈夫なら」
玲奈ちゃんが微笑んだ。
「それで、曲は?」
ルナが聞いた。
僕はホワイトボードの前に立ち、マーカーを手に取った。
そして、大きく書いた。
『SHAKE! SHAKE! SHAKE!』
『江ノ島流ではなく、僕達流で』
「……どういうこと?」
志歩が首を傾げた。
「あの人は、この曲をキラキラした、可愛いアイドルソングとして歌う。でも、僕達は違う解釈で行く」
僕は振り返った。
「歌詞をよく読むと、実は『自分を解放する』『殻を破る』っていうメッセージが込められてる。そこを前面に押し出す」
「つまり……」
千佳が目を輝かせた。
「私達の『今』を重ねて歌う、ってこと?」
「そう。振り付けもアレンジする。可愛さより、力強さ。迷いより、決意を」
数秒の沈黙の後、ルナがニヤリと笑った。
「いいな。燃える」
「同じ曲でも、全く違うパフォーマンスができるってことですね」
菖蒲さんが頷いた。
「賛成!」
次々と手が上がる。
「じゃあ、決定。今日から地獄の特訓だ」
僕が言うと、みんなが笑った。
「望むところだよ!」
その日から、猛練習が始まった。
朝9時から夜11時まで。僕は振り付けを細かくチェックし、ハーモニーを調整し、一人ひとりの表情を作り込んでいった。
時々、フラッシュバックが襲ってくる。
鏡に映るメンバーの姿が、過去の自分に重なる。
練習室。閉ざされた空間。逃げ場のない恐怖。
「健人、休憩するぞ」
気づいたら、ルナが僕の腕を掴んでいた。
「大丈夫、まだ……」
「大丈夫じゃないだろ。さっきから、同じ指示を3回も繰り返してる」
僕は頭を冷やすため、近くの公園のベンチに座って冷たい水を飲む。夜風が、汗で濡れた顔を撫でていく。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
ルナが隣に座った。
「健人だって、人間なんだから」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
1人じゃない。その事実が、少しずつ僕を支えていた。




