第21話
2025年3月14日、今日はホワイトデー。僕は急いで日本橋の三越に来ていた。
僕がなぜここに来ているのか。
僕はあの日のことを思い出していた。1ヶ月前のバレンタインデー。
あの日から、すべてが変わり始めた。
***
この日もコンセプトカフェ『METROPORALiS』の開店練習とレッスンを行なっていた。
この日は志歩と菖蒲さんが高校の行事だとかで参加できないそうで、千佳、ルナ、綾乃さん、玲奈ちゃん、初歌ちゃんの5人で行なっていた。
「はぁ〜、疲れた〜!」
「しっかりしなよ…店がオープンしたら、今まで以上に忙しくなるんだから。」
「だって、疲れたんだも〜ん!健人くんがいるから頑張れるけど〜」
僕は床に寝そべって大きな声で言う千佳にそう指摘する。
「まあまあ健人、今日も確かに大変だったから、少しは労ってあげなよ。」
「確かにそうなんだけど…」
「昔から素直じゃないよね。あの頃から変わってない。」
初歌ちゃんが少し懐かしそうに微笑みながら言う。
「そうだそうだ〜、健人、少しは労ってくれてもいいんだぞ〜」
ルナも便乗するように明るく言った。
「わかったよ。」
僕は玲奈ちゃんと初歌ちゃんとルナに指摘されてしまったので、それだけ言い残して僕は店の外に出た。何か飲み物を買ってくるためだ。
そして、僕は近くのコンビニでコーヒー牛乳を5本買った。
コンビニでコーヒー牛乳を5本レジに並べた時、女性店員が僕の顔をじっと見つめた。
「あの……もしかして」
と言いかけたところで、僕は慌てて帽子を深く被り直した。
「人違いです」と小声で言うと、店員は苦笑いを浮かべながら会計を続けてくれた。
「お待たせ。」
そう言って僕は買ったコーヒー牛乳を5人に手渡す。
「え、わざわざ買ってきてくれたの?」
千佳は一瞬、本当に嬉しそうな顔を見せた。
「ありがと、健人くん。優しいなぁ…」
普段の明るさの奥に、何か違うものが見えた気がした。
初歌ちゃんは「ありがと、健人」と言いながらも、どこか遠慮がちにコーヒー牛乳を受け取った。昔からの仲間だからこそ、逆に遠慮してしまうところがある。
一方で玲奈ちゃんは「懐かしいね、こうやってみんなで飲み物分けるの」と微笑みながら、自然に受け取ってくれた。ルナもしっかり受け取ってくれた。
綾乃さんだけは僕からコーヒー牛乳を受け取らず、「ありがとう」とも言わずに更衣室に向かっていってしまった。
「あれ…もしかして、コーヒー牛乳飲めなかった?」
「いや、前飲んでるの1回くらい見たことあるよ?」
「私も〜」
少し不可解に思いながら4人と話していると、綾乃さんはすぐに更衣室から出てきた。計5つの紙袋を腕に下げながら。
「……はい。今日、バレンタインデー、だから。」
そう言って、綾乃さんは大きい方の紙袋を僕に手渡し、小さい方の紙袋4つをそれぞれルナ、玲奈ちゃん、千佳、初歌ちゃんに渡す。
さっき、コーヒー牛乳を受け取らなかったのも今思えば、彼女はバレンタインデーのチョコを渡すタイミングを計っていたのだろう。
確かに、今日は2月14日、世間一般的にはバレンタインデーと呼ばれる日だ。僕は忙しすぎて日付感覚を忘れており、すっかり忘れていた。
「ありがとう。綾乃さん」
「……って!?健人くんのなんか大きくない?」
「私の、愛の気持ちの大きさ、だよ。」
綾乃さんの声は普段の冷静さを装っているが、わずかに震えている。
彼女は感情を表に出すのが苦手だ。だが、今回は違う。
頬を染める彼女の表情に、僕は初めて彼女の本気を見た。
「それはありがたい。」
僕はしっかり感謝は伝えた。
「ねえねえ。健人くんのやつ、すごいのかな〜、ちょっと見てみてもいい?」
僕は千佳に中身を覗かせようとしたところ、綾乃さんに止められた。
「家で開けることをおすすめする、よ。」
彼女がそう言うなら仕方がない。
僕は千佳に「だそうだ。ごめん。」と言ってその場を収めた。千佳はそれでも少し不服そうだった。
「……実は私もあるんだよね〜…」
「嘘、マジで?」
「うん、だけど…」千佳は少し躊躇うように言葉を止める。
「どうしたの?」
「家に置いてあるの。よかったら、取りに来てくれる?みんながいるところじゃなくて、二人きりで渡したいから。」
「分かった。」
と言う感じの会話をして僕は帰路についた。ちなみに玲奈ちゃんと初歌ちゃんからは手作りクッキーを、ルナからはコンビニのチョコを1つもらった。
玲奈ちゃんと初歌ちゃんは同じ『Emma』のメンバーだった仲間として、今も変わらず僕を支えてくれている。
ルナは僕の正体を知りながらも、他の子たちとは違う、あえて友達のような距離感を保ってくれている。彼女なりの気遣いなのだろう。
時々見せる大人びた表情に、年齢以上の気遣い上手な一面が垣間見える。
僕は取り敢えず、綾乃さんからのチョコと3人から貰ったチョコを持ちながら、僕の自宅からすぐ近くの千佳の家へ向かった。
千佳の家で、僕は彼女の意外な一面を見ることになった。
「実は、置き忘れたって嘘なんだ。本当は最初から家で渡すつもりだった。」
千佳はいつもの明るさを少し控えめにして言う。
「なんで?」
「だって…私、志歩ちゃんや綾乃ちゃんみたいに上手に想いを伝えられないから。」
「千佳…」
「『Emma』の頃から応援してたけど、今は…ファンとしてじゃなくて、一人の女の子として健人くんを見てる。」
千佳の家で、僕は初めて彼女の本当の顔を見た気がした。いつも明るくて、場を盛り上げてくれる千佳。
でも今目の前にいるのは、一人の女の子として僕を見つめる千佳だった。
「みんなの前では明るくしてるけど、本当はすごく不安なの。志歩ちゃんは素直に告白できるし、綾乃ちゃんは堂々としてる。でも私は…いつも笑ってごまかしちゃう。」
「はい、これ。手作りなの。」
千佳が差し出した箱は、他の人たちのものより小さかったが、丁寧にラッピングされていて、手紙も添えられていた。
「私にとって健人くんは特別な人。昔も今も、これからも。でも今度は、ファンとしてじゃなくて、千佳として見てほしい。」
その後、僕は自宅まで帰ってきた。駒沢大学駅から徒歩2分くらいのところに自宅マンションはある。
エントランスには、よく見知った人が立っていた。
「なんでいるの?」
「へへ、来ちゃった。」
「第一、なんで僕の家知ってるの?教えた事ないよね?」
「千佳さんに『健人くんに渡したいものがあるから住所教えて』って頼んだの。まさか教えてくれるとは思わなかったけど」
志歩は少し申し訳なさそうに笑った。千佳の人の良さが裏目に出たということか。
だが、僕は迷った。元国民的アイドルが女子高校生を自宅に上げるなどどうなのか、もし週刊誌に撮られでもしたら一大スキャンダルになる。
だが、すぐ帰せば大丈夫だろうと思い、
「じゃあ、3分だけね。」
と言って自宅にあげる事にした。
「お邪魔します!」
僕は冷蔵庫から飲み物を取り出し、志歩に差し出す。
「ありがと〜、乃木さん!」
「で、渡したいものって?」
「もったいぶっちゃって〜、乃木さんももう分かってるでしょ?」
確かに、この日に渡したいものと言ったらすでに4人からもらった『アレ』しかないのだが、ここは分からないフリをしておく。
「いや、分かんない。」
「はい、これ」
志歩は少し照れながら2つの袋を差し出す。
「菖蒲ちゃんからも預かってるよ。」
「菖蒲さんからも?」
「うん、『乃木さんへの感謝の気持ちです』って言ってた。いつも丁寧だよね、菖蒲ちゃんって」
菖蒲さんからのチョコは、他の人たちとは明らかに違う包装だった。義理チョコとしても上品で、添えられたメッセージカードには「いつもご指導ありがとうございます」と書かれている。
「まあ、ありがとう。お返し、楽しみにしといて。」
「うん!」
時計を見るとすでに家へあげてから2分ほど経過していた。
「ほら、後1分で帰ってもらうよ。」
「えぇ〜」
「えぇ〜じゃないです。」
志歩が駄々をこね始めたが、なんやかんやあって玄関まで誘導する事には成功した。
「明日もレッスンあるんだから、早く帰って、体を休めて、ね?」
子供を宥めるように言う。
「もう、分かったよ〜」
「はい、気をつけて帰ってね。」
「ああ、ちょっと待って!」
「今度は何?」
その瞬間、頬が何やら柔らかい感覚に包まれた。時間が止まったような気がした。
桜の香りのするリップクリームと、彼女の温かい息遣いが頬に残る。振り返ると、志歩の瞳には今まで見たことのない真剣な光が宿っていた。
「なっ…」
「ずっと憧れてた。遠くのステージにいた健人くんに。」
志歩の声が震える。
「でも今は違う。目の前にいるあなたが好きなんだ。乃木健人という、一人の人間が。」
頭の中が真っ白になる。僕は何も言えずに立ち尽くしていた。
「じゃあね、乃木さん。また明日。」
そう言って玄関の扉が閉じられた。僕はそこからしばらく動けなくなってしまった。
10分経って完全復活した僕は改めて、みんなからもらったチョコを確認する。
みんなのチョコを確認して、1番衝撃的だったのは綾乃さんと千佳からもらったチョコだった。
綾乃さんからの箱を開けると、手作りチョコレートの下に小さな指輪のレプリカが隠されていた。銀色の安いものだが、丁寧に磨かれている。添えられた手紙には「本物をもらえる日まで待っています」と几帳面な字で書かれていた。
千佳の箱には、手作りチョコと一緒に『Emma』時代の僕たちの写真が入っていた。ファンイベントで撮った2ショット写真の裏に「今度は恋人として写真を撮りたい。私は本気だよ。」という言葉が綴られていた。
***
そんなバレンタインデーから一ヶ月が経った今日、僕は朝一、三越でお返しを選びながら、僕は考える。
これは単なるホワイトデーのお返しではない。自分を慕ってくれる女性たちに対して示す答えなのだ。
綾乃さんには感謝を。彼女は今の僕を受け入れてくれる。
志歩には…まだ答えを出せずにいる。長年のファンから恋愛へと発展した彼女の想い。
千佳には、彼女の本当の気持ちに気づいていることを示したい。普段は明るいが、時々見せる表情に胸が詰まる。
そして玲奈ちゃんと初歌ちゃんには、『Emma』時代から変わらない絆への感謝を。
ルナには、メンバーでいてくれることへの感謝を。
菖蒲さんには、慕ってくれることへの感謝と、彼女の成長を見守る責任感を込めて。
一つ一つに、僕の気持ちを込めなければ。
時計を見ると、もう30分も迷っている。店がオープンするまでもあと30分。僕は決めなければならない。
僕はチョコを購入し、急いで『METROPORALiS』へ向かう。
「お待たせ!」
「ちょっと、何してたの?早くキッチン入って!」
「ごめんごめん、急いで入る。」
僕は7人分のチョコを事務所の冷蔵庫に入れてから、キッチンの仕事に入った。
改めてバレンタインで貰ったものを思い返す。
玲奈ちゃんと初歌ちゃんからのクッキーは温かい友情の証、ルナや菖蒲さんからのチョコは、義理チョコ的なものだろう。だが、志歩、千佳、綾乃さんの三人が僕に向ける視線は明らかに違う。それは友情を超えた何か、重くて甘い感情だった。
アイドル時代、ファンは遠い存在だった。ステージの向こうで歓声を上げる、顔も名前も分からない人たち。彼女たちの声援は嬉しかったが、どこか現実感がなかった。でも今、目の前にいるのは僕の名前を呼び、僕個人の表情を見つめてくれる女性たちだ。志歩の真剣な瞳、千佳の不安そうな表情、綾乃の照れ隠しの強がり。
一人一人の顔がはっきりと見える。
一つだけ確かなことがある。彼女たちが僕に向けてくれる想いは、どれも本物だということだ。
アイドル時代には感じられなかった、温かくて重い想い。その重さに、僕はまだ戸惑っているけれど。




