第18話
脱衣所で衣擦れの音がした。
「健人くん、入ってもいい?」
千佳の声だった。いつもより少し舌が回っていない。
お酒の匂いが扉の隙間から漂ってくる。
「ちょ、ちょっと待って!」
返事を待たずに扉が開いた。立ち込める湯気の向こうに、千佳のシルエットが揺れている。
僕は反射的にフェイスタオルで身体を隠し、目を閉じた。
「何やってんの、千佳!早く出てって!」
「ねぇ、話したいことがあるの。」
彼女の声は妙に真剣だった。お酒の匂いと一緒に、何か切羽詰まった空気が流れ込んでくる。
「話なら後でも…」
「ここじゃないとダメなの。」
千佳の声が少し震えた。
「私、ここでしか本当のこと言えないから」
その言葉の重みに、僕は押し黙った。体を洗うこともできず、ただ立ち尽くしている。
気まずい沈黙が流れた。
「……背中、流そうか?」
千佳が小さく言った。
「それは厚意と受け取っていいの?それとも…」
「さぁ、どっちでしょう?」
普段とは違う、少しかすれた声。どこか危うげな響きが、妙に胸に引っかかる。
「じゃあ、後ろ向いて。」
千佳は僕の返事を待たずに、既にボディソープのポンプを押す音を立てていた。観念して背中を向けると、タオルが肌を撫でる柔らかな音だけが浴室に響き始めた。
千佳の手つきは思いのほか丁寧だった。無言のまま、ただ背中を洗う音だけが続く。
やがてシャワーで流す温かい水流が、背中を伝っていった。
「……ありがとう」
「うん」
役割を交代し、今度は僕が千佳の背中を洗う。長い髪が肩にかかっている。
タオルを動かすたび、彼女の肩が小さく揺れた。
背中を流し終えると、千佳は浴槽に向かった。そして僕もそれに続く。
幸い、浴槽は二人が入っても余裕がある広さだった。
「目、開けていいよ。」
恐る恐る目を開けると、千佳は僕と背中合わせに座っていた。湯船の縁を挟んで、互いの背中だけが触れ合っている。
しばらく沈黙が続いた。湯船の湯が、小さく波打つ音だけが聞こえる。
「ねぇ、健人くん。中学生の頃の私の部屋、どのくらいの広さだったと思う?」
「さあ…6畳半くらい?」
「0畳!」
千佳は自嘲するように笑った。
「1DKの公営住宅。母さんと2人暮らし。リビングで寝て、リビングで着替えて。自分の部屋なんてなかった。1人になれる場所は、トイレかお風呂しかなかったんだ」
背中越しに、彼女の息づかいが聞こえる。
「思春期の時って、1人になりたい時あるじゃない?でもトイレは母さんが使うし。だから私、お風呂に何時間も入ってた。ふやけるまで。ここだけが、私だけの場所だったから」
その言葉の重みが、湯気とともに胸に沁み込んでくる。今、彼女がこの場所を選んだ理由が、ようやく理解できた。
「今はこんな広い家に住んでるけど、やっぱりお風呂が一番落ち着くんだ。ここでしか、本当の自分になれない気がして」
「……それで、話したいことって?」
僕が促すと、千佳は小さくため息をついた。
「7人でパフォーマンスしてる時は楽しいんだけどね。でも時々、みんなが羨ましくて仕方なくなる時があるの」
「羨ましい?」
「みんなキラキラしてるの。志歩ちゃんの歌声、ルナちゃんのダンス、玲奈ちゃんの存在感。それぞれが『これ』っていう武器を持ってる」
千佳の声が少し震えた。
「でも私には何もない。歌もダンスも、全部中途半端。練習の時、鏡に映る自分を見るたびに思うの。『私、ここにいていいのかな』って」
湯船の湯が、小さく波打った。千佳の身体が震えたのだろう。
「26歳だよ?みんなより年上なのに、一番足引っ張ってるんじゃないかって。お父さんには『いい加減ちゃんとしろ』って顔されてる気がするし」
「千佳…」
「あはは…26歳メンヘラおばさんですぅ」
自嘲する彼女の声が、やけに空虚に浴室に響いた。
「でも、そんなに思い詰めることじゃないと思う」
「だって健人くんは元アイドルだから、私の気持ちなんて…」
「今は『一般人の乃木健人』として話してる。元アイドルとしてじゃなくて」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「千佳は、比べなくていいところを比べてるんだよ。確かにみんなそれぞれ得意なものがある。でもそれだけじゃグループは成り立たない。」
「じゃあ、私には何ができると思う?」
「グループをまとめること。リーダーとしての力」
背中越しに、千佳の息を呑む音が聞こえた。
「私が?でも玲奈ちゃんや初歌ちゃんの方が経験もあるし…」
僕は湯船の縁を軽く叩いた。
「違うんだ。みんな、千佳を信頼してる。困った時、真っ先に相談するのは千佳でしょ?それは技術じゃなくて、人としての魅力なんだよ。」
しばらく沈黙が続いた。
「技術は練習すれば向上する。でも、人を安心させる力は、そう簡単には身につかない。この2ヶ月、千佳のこと見てきて本当にそう思う。千佳はそれを持ってるんだ。」
「……本当に、そう思う?」
「遊んでばかりの時もあるけどね。」
僕が少し笑いながら言うと、千佳も小さく笑った。
「だよね〜…」
湯船の湯が、また小さく揺れる。今度は温かい波だった。
「そういえばさ、健人くんと会ったあの日。実は新宿で街コンに参加してたんだ」
「え?じゃあ誰かとマッチして飲んでたの?」
「いや、誰ともマッチしなかったからやけになって飲んでた。」
「なんだ、やけ酒じゃん。僕と一緒だ。」
思わず2人で笑った。浴室に響く笑い声が、さっきまでの重い空気を吹き飛ばしてくれる。
「でも不思議だよね。あんなに綺麗な千佳が、なんで誰も選ばなかったんだろう」
「……今、綺麗って言った?」
「僕は本当に可愛いと思ってるよ。見た目に関しては自信持っていいって」
「健人くん、急に褒めてくるじゃん」
「たまには鞭だけじゃなくて飴も必要でしょ?」
「ふふ、確かに。……ねぇ、健人くんって話聞くの上手だよね。どこかで勉強したの?」
「別に。大学では文学の勉強しかしてなかった」
「そっか…」
千佳の声が、また少し遠くなった。
「ねぇ、健人くん。もし私がアイドルじゃなかったら…」
その先の言葉が続かない。僕も何も言えずにいた。
「……ううん、何でもない」
聞いてはいけない気がした。だから僕は追及しなかった。
「話したいこと、話せた?」
「うん。ありがとう。もう上がるね」
「あんまりお酒飲んでからお風呂入らない方がいいよ。シャレにならないから」
「心配しなくても、もうしないから」
背中の触れ合っていた感覚が失われ、水から上がる音がした。
「健人くん」
「ん?」
「さっき、途中で止めた話」
千佳の声が、静かに響いた。
「聞きたい?」
僕の心臓が大きく跳ねた。答えるべきか、答えないべきか。
「もしいつか、私がアイドルを辞める日が来たら」
千佳の声は静かだったが、その一言一言が重かった。
「その時は、私を一人の女性として見てくれる?」
問いかけは、浴室の湯気の中に溶けていった。僕は何も答えられなかった。
「……ごめん、変なこと言っちゃった」
千佳の声が小さくなる。
「じゃあね」
扉が閉まる音。千佳が出ていった後も、僕はしばらく湯船に沈んだまま動けなかった。
彼女の問いかけが、頭の中で何度も反響している。プロデューサーとしての立場、彼女の将来への責任、そして自分自身が抱いているこの気持ち。
全てが複雑に絡み合って、簡単には答えを出せない。
だが一つだけ確かなことがある。今夜、僕は山王千佳という一人の女性の本当の姿を知った。
アイドルという役割の裏に隠された、傷つきやすく、それでいて芯の強い彼女を。
湯気に包まれた静寂の中で、僕は自分の心と向き合い続けた。
答えはまだ見つからない。しかし、見つけなければならない答えがあることだけは、確かだった。




