第16話
通帳の残高を見て、息が止まった。
501,342円。
11月には200万円あった数字が、たった3ヶ月でここまで減っていた。
オープンまであと2週間。この金額で本当に乗り切れるのか。そんな焦りと戦いながら今日もコンセプトカフェのオープン準備をする。
銀行からは自分の名前を使って融資を通すことができた。だが、それも通すだけで、蓋を開けてみたら雀の涙ほどもない程度の融資だった。
綾乃さんの特注衣装やその他諸々の経費などは、ほとんど僕の貯金から捻出していた。
最初は問題ないと思っていた。開業資金の見積もりも何度も確認した。
だが、物件の原状回復費用が予想の倍かかり、保健所の指導で厨房設備を追加することになり、
綾乃さんの衣装も当初の見積もりから大幅に上がった。
銀行に追加融資を相談したが、「実績のない新規事業」という理由で断られた。
両親に頼ることも考えた。でも、恥ずかしくて助けてくれとは言えなかった。
気づけば、自分の食費を削るしか選択肢がなくなっていた。
オープンまであと2週間。初月の売上目標は150万円。達成できなければ翌月の家賃も払えない。そんな計算を何度も繰り返しながら、近所のパン屋で貰ってきたパンの耳を齧った。
少しでも栄養を取って、7人のダンス指導をしなければ。
立ち上がった途端、僕の視界がフェードアウトした。
2月の、冬の床の冷たい感覚がする。僕はどうやら、寝不足と栄養失調が祟って倒れたようだ。
7人の心配するような声が薄く聞こえる。僕の意識はまもなく、遠のいていった。
***
目を覚ました頃には、窓から見える空もいつの間に朱色に染まっていた。
頭に何か感触を感じたので、上を向くと千佳が心配そうにしながら膝枕をしていた。
体を起こし、ボケた頭で聞く。
「……今は何時ですか?」
「もう6時だよ。大体5時間くらい寝てた。」
志歩が真顔でスマホの画面を見せてくる。僕が最後に時計を見てからかなりの時間が経っていた。
起き上がろうとするとすぐよろめいて目の前にあるテーブルに手をついてしまった。
「健人くん、ちょっとこっち来て。」
そう言って僕を引っ張って裏のバックヤードに連れて行く。
入ってすぐ、千佳はパイプ椅子を僕のために用意してくれた。そこに腰掛けてから千佳は外の6人に聞こえないよう扉を閉めてから、
「大丈夫?」
と聞いてきた。
僕は返答に困ってしまった。
「ここ1ヶ月、ずっと変だよ。元気がないし、目も虚ろだし。確かに最近忙しいのは分かってるし、レッスンの最中にゼリーで栄養取ってることも沢山あったけど、パンの耳って…ゼリーでもちゃんと栄養のあるものを食べてほしいって言ったのに、更に栄養が取れないものを食べて…このままだと本当に死んじゃうよ?」
千佳は僕に目線を合わせようとしゃがんで話を聞いてくれる。
「けど、こうするしかないんだ。」
「どうして…?」
「実は、結構最近生活が苦しくなってきてて。けどそんなこと言えないでしょ、千佳とルナと元Emmaの2人以外は全員学生だし。」
「じゃあ、私には言えるってことじゃん。」
「……まあ、そうだけど。」
「自分で言うのもなんだけど、運のいいことにうちの店はグルメサイトで評価3.8の超名店だし、廃棄とか使って何か1品くらいなら出せるよ?」
「でも千佳、それは店の損失になるし…」
「損失?」
千佳は首を傾げた。
「健人くんが倒れて、カフェがオープンできなくなる方がよっぽど損失だけど」
確かにその通りだ。反論できない。
千佳は少し間を置いてから、いつもより真面目な顔で言った。
「ねえ、健人くん。私が1番困って、生きる希望を無くす出来事って何だかわかる?」
「医者から禁酒を告げられた時?」
「それは2番。1番は健人くんがいなくなる事。君は何回も挫けそうな時、その笑顔で、そのファンサでも私の事を助けてくれた。そんな人がいなくなったら、私は絶対生きる希望を失うと思う。」
「おお…改めてそう言われるとなんか照れる…。」
「だぁ〜!!そんなことより!今日レッスン終わったら絶対うちに来なさい!酒もご飯も何もかもタダにする!どうよ?!」
「それは申し訳ないかも…」
「遠慮しなくていいんだよ!」
「じゃあ…とびきり元気が出るものをお願いします…」
千佳は呆れて苦笑というようにしながらバックヤードを後にした。
千佳の言葉に、張り詰めていた何かが緩んだ気がした。目頭が熱くなる。
このままここを出ると涙が溢れ出して止まらないので、少し時間をおいて出ることにする。
すると、背後の扉が開いた。
僕が椅子と共に向きを変えると、そこには練習着姿の7人が立っていた。
志歩がスマホの画面を僕に向けた。
「見て。みんなでシフト組んだの」
画面には曜日ごとに7人の名前が割り振られていた。
月曜・志歩、火曜・綾乃、水曜・菖蒲...
「え、これって...」
「毎日誰かが健人くんにご飯作るってこと」
千佳が微笑みながら言った。
「別に、みんなが気にしなくていいことなの。それに僕は今パンの耳健康生活中なの。」
「すでに倒れてる時点で破綻してるよ」
ルナが苦笑いする。
「それに、あそこからここまで、実は結構声が漏れるんだよな」
どうやら千佳との会話は6人にも丸聞こえだったようだ。僕は恥ずかしくなって俯いてしまった。顔が熱くなってきたのがよく分かる。
「みんなは僕の大事なタレントだから、自分のことだけやってればいいの。」
「それは、できない約束。」
と綾乃さんが首を横に振る。
「アタシは料理はからっきしだけど、こう言うふうになら手助けできるからよ」
そう言ってルナは僕にコンビニのおにぎりを2個手渡してくる。
久しぶりにまともな食事を口にする。米の甘味が身に染みて、少しずつ頭もはっきりしてきた。
その瞬間、我慢していたものが決壊した。
1人で抱え込んでいたはずの重荷を、いつの間にか7人が支えてくれていた。
涙が止まらなかった。情けない姿を見せたくなかったのに。
でも不思議と、惨めな気持ちにはならなかった。
7人の気持ちが、僕を立ち上がらせてくれたんだ。
「さあ、レッスン再開しよう。」
僕の声に、7人が笑顔で答えた。




