第9話
バイブレーションが枕元で震えている。スマートフォンの画面が暗闇に青白く光る。
時刻は午前6時30分。
冬の夜明け前、まだ空は暗い。誰からの着信だろう。
僕はスマホを見る。掛けてきた相手は志歩だった。僕は画面をスワイプして電話に出た。
「もしもし?」
「あ、乃木さん?おはよー!」
志歩の声は朝の6時半とは思えないほど弾んでいた。この時間に人を起こしておいて、なんという元気さだろう。
「おはよう。こんな朝早くにどうした?」
「実は昨日の放課後、学校でいい子見つけたんだ!だから会ってほしい!」
どうやら志歩は学校の同級生かなんかを勧誘したようだ。
「分かった。じゃあ、10時頃にこの店に来て。」
そうして僕は、電話をスピーカーモードにし、『Taverna da SANNO』の位置情報を共有した。
「ここにいけばいいのね!分かった!」
そう志歩が言って、電話が切れた。
僕は千佳に、
『10時に店に行く。志歩が学校の人勧誘したみたい。』
とメッセージを送信した。
時計を見ると午前6時40分。約束まで4時間近くある。
「……朝活でもするか…」
僕は近所の公園を一周してから帰宅し、文庫本を開いた。朝の住宅街は、まだカーテンを閉じたままの家ばかりで、聞こえるのは遠くを走る車の音と、早起きの犬を散歩させる老人の足音だけだった。こんな静寂の中でページをめくる音さえ妙にくっきりと聞こえる。ページをめくるうち、気がつけば約束の時間が近づいていた。
午前9時50分、僕は『Taverna da SANNO』の前に立っていた。
店に入ると千佳が、
「健人くん、おはよ〜」
と出迎えてくれた。
僕も挨拶を返す。
10分後、いつものダージリンティーを飲んでいると、志歩が友人と共に入ってきた。
その子は黒髪ロングで華奢な女の子。そして、どこかミステリアスな雰囲気を漂わせていた。
僕が手を振って場所を伝えると、志歩を先頭にこちらへ向かってくる。
志歩の後ろを付いていく佇まいも凛としていて、まるで大和撫子を体現したような子だと感じた。
そして、2人が席につく。
「乃木さん、千佳さん、お待たせしました。赤塚先輩、この右の人が、かの有名な『Emma』の元メンバー乃木健人さんで、左の女の人が、山王千佳さんです。」
赤塚先輩と呼ばれたその女の子は、僕たちに向かってペコリと頭を下げる。
「初めまして、赤塚菖蒲と申します。高校3年です。よろしくお願い致します。」
はっきり通るような声で女の子は自己紹介する。
見た目も凛としていて、言葉遣いも丁寧で、本当に大和撫子だと思った。
「あのね、昨日音楽室の前通りかかったとき、中から聞こえてきた歌声で思わず立ち止まっちゃったの!『あ、この人絶対に乃木さんに聞かせなきゃ』って直感で思ったんだ!」
志歩が身を乗り出すように続ける。
「あとね、先輩が歌ってる時の表情がもう、まるで別人みたいで!」
志歩が目を輝かせながら言う。赤塚さんの方に目をやると、少し恥ずかしいのか、顔が薄く赤色に染まっていた。
「そうなんですね。ここでやるとお客さんに迷惑がかかると思うので、裏でやりましょうか。」
そう言って僕は太一さんに許可を得て、赤塚さんが後ろに続き、バックヤードへ入る。
トマト缶や小麦粉、そして僕専用のダージリンの茶葉も置いてある。
「では、お願いしてもよろしいですか?」
「はい…」
赤塚さんは静かに目を閉じ、深呼吸をした。そして再び目を開いた時、そこにはさっきまでの上品な女子高校生の面影はなく、まるで舞台に立つプロの歌手のような、強い意志を宿した瞳があった。歌に向き合う時の彼女は、きっと誰にも邪魔されたくない聖域に入るのだろう。その目つきに僕は思わず気圧されそうになった。
彼女の口から流れ出たのは、まるで研ぎ澄まされた刃のように鋭く、それでいて羽毛のように軽やかな高音だった。店の奥で響くその声は、まるで古い教会のパイプオルガンが奏でる荘厳なメロディーのように、僕の胸の奥深くまで響いてきた。
歌い終わった直後も僕は言葉が出なかった。それ程までに僕は彼女に圧倒されていた。
「あの…どうでしたか?」
赤塚さんが僕の方に心配そうな顔をして聞いてくる。
「すみません、しばらく言葉が出なくて。音楽をやってる人間として、こんなに心を揺さぶられたのは久しぶりです。そして、あなたの声には、『静寂の中の激情』みたいなものがある。この声があれば、僕達の音楽が本当の意味で完成できそうです。ぜひ、一緒にやりましょう。」
「はい。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします。」
赤塚さんは頭を深々と下げた後、バックヤードから出ていく。僕も彼女の後に続いた。
店の奥から戻ってきた僕達を見て、志歩と千佳が期待に満ちた表情で振り返る。
「やりました。これからよろしくお願いします。」
声のトーンこそ変わらないものの、どこか嬉しそうな赤塚さんが2人に挨拶すると、志歩が「やったー!」と小さくガッツポーズをした。
赤塚さんの表情にも、さっきまでの緊張が和らいだ穏やかな笑顔が浮かんでいた。普段の上品な佇まいの中に、ほんのわずかな弾みが感じられる。きっと、自分でも気づかないうちに、彼女の心に小さな喜びが灯ったのだろう。




