第8話
12月20日、金曜日。
レッスン場の鏡に映る自分の目の下には、3日分のクマが積み重なっていた。
神谷さんと出会ってから、もう3週間。昨夜も結局、候補者リストとにらめっこで明け方までかかった。
50人以上に声をかけて、まともに話を聞いてくれたのは3人。
その3人も、千佳さんと志歩、神谷さんの前では緊張で固まってしまう。
「...…ダメだ」
呟いた瞬間、鏡の中の自分が情けなく見えた。すると、思ったより声が大きくなっていたのか、隣でストレッチをしていた志歩が振り返る。
「大体、乃木さんの言う条件が厳しすぎるんだよ。」
「そんなこと言ったって僕が求めるのはそういう子なんだよ。」
そんな会話をしていると、志歩がスマホで何かの動画を見ている。
「——え、何これ」
志歩のスマホから流れてきた歌声に、僕の手が止まった。
駅前での街頭ライブの様子だった。街灯の灯りしか当たっておらず、全体的に暗い。観客は5人もいない。
それなのに——
声が、突き刺さってくる。
『誰も見てないなら、消えてしまえばいい』
『それでも声は、枯れるまで響け』
歌詞は自虐的だ。でも最後のフレーズに、諦めきれない何かがある。
そして、息継ぎのタイミング、ビブラートの震え方。
全部が「それでも歌う」って叫んでいる。
「志歩...この子」
「どうしました?」
「この子、渋谷で見たことある」
あの日の記憶が蘇る。
2週間前、渋谷の路地。
誰も立ち止まらない場所で1人佇んでいた女の子。声をかけようとしたら、逃げられた。
まさか、同一人物だったなんて。
僕は志歩に聞いてみた。
「なあ、この子って事務所とか所属してないのか?」
「確か…どこにも所属してなかったはずですよ。」
「そうか…無所属か…」
これで1ピースがはまった。この子はこのグループに必要だ。
***
秋葉原から新宿へ向かう電車の中で、僕は窓ガラスに映る自分の顔を見る。
疲れて、必死で、ちょっと怖い。これじゃ、完全に不審者だ。
志歩から聞いた特徴を頭の中で繰り返す。
黒い服装、金メッシュの茶髪——
でも、見つけたとして、何と言おう。
「あなたの歌に感動しました」…?
使い古された言葉だ。彼女は信じてくれるだろうか。
夕方、新宿駅に着いた。ライブハウスに向かう途中、前方を歩く人影に目が止まった。
黒いパーカーから覗く金メッシュの茶髪。
間違いない。
「あの...」
声をかけると、彼女がゆっくり振り返った。やはり、動画の子だった。
「...誰?」
警戒の色が濃い。当然だ。
いきなり声をかけられて、怖くないわけがない。
「えっと、その...ライブハウス、行くんですか?」
なぜそんなことを聞いた。馬鹿だ。
「は? なんでアンタが知ってんの」
ルナが一歩後ずさる。まずい。完全に怪しまれてる。
「あ、違くて! 動画、見たんです。新宿のライブハウスで歌ってるって」
「...…ネットストーカー? 最悪」
「ち、違います! 僕、音楽やってて——」
言葉が出てこない。頭の中では完璧なプレゼンを用意してきたのに。
深呼吸。落ち着け。
「あなたの歌、すごいと思ったんです」
「...はあ?」
ルナの眉が寄る。馬鹿にされてると思ってる顔だ。
「本当に。鳥肌立ちました。あの...アイドルグループ、興味ないですか?」
言ってしまった。
案の定、ルナの表情が凍りつく。
「アイドル? アタシが?」
その声には、驚きより先に、拒絶があった。
「興味ない」
「待って、聞いてもらえるかな。僕は元々Emmaというグループにいて...」
「Emma?」
ルナの目が少し見開かれる。
「...知らない」
嘘だ。明らかに動揺している。
「本当に?」
「...少しだけ、見たことある」
「それの元メンバーなんです。今はもう辞めさせられたんですけど…」
「でも、アタシは事務所に所属して金儲けの道具にはされたくない」
そう言ってルナは歩き始めた。僕は慌てて並んで歩く。
「お金の話じゃないんです。」
「じゃあ何?」
「あなたの歌、暗いって言われません?」
ルナの目が僅かに揺れた。図星か。
「...…だから何」
「僕も一時期言われてました。暗いって。ネガティブだって」
Emma時代のことが蘇る。
あの時は、プロデューサーに何度言われただろう。
「もっと明るく」「アイドルらしく」。
「でも、暗い歌だから届く人がいるんです」
「…...」
「誰かの一番辛い夜に、寄り添える歌がある。
僕は、そういう歌を歌うグループを作りたい」
ルナが黙って僕を見ている。
「あなたの歌、5人しか聞いてなかったですよね、あの動画」
「...…見てんじゃん、やっぱストーカーだ」
「でもその5人、最後まで聞いてた。誰も帰らなかった」
ルナの表情が変わる。
「それって...すごいことなんですよ」
夕日がビルの隙間に沈んでいく。
長い沈黙。
「...アタシ、レッスンとか受けたことないから」
ルナがぽつりと言う。
「何も知らない。プロでもない」
「構いません」
「下手だし」
自分を貶める言葉。誰かに言われ続けたんだろう。
「上手い下手じゃないんです」
「...本当に?」
その声は震えていた。
「本当に、アタシでいいの?」
「あなたじゃなきゃダメなんです」
ルナが唇を噛む。
何かと戦っている。怖れと、期待と。
「…...1回だけ」
「え?」
「1回だけ、行ってみる。それで無理だったら帰る」
僕は深く頭を下げた。
「それで十分です。ありがとうございます」
「ちょっと、恥ずかしいからやめて」
ルナの頬がうっすら赤く染まる。
「すみません、嬉しかったので。」
「...わかったから、とりあえず場所変えない?人目につくし」
「そうですね。じゃあ、明日秋葉原のここにきてください。」
そう言って僕はレッスン場の住所を書いた紙を渡す。
「分かった。」
***
翌日、午後2時。
レッスン場のドアが、遠慮がちにノックされた。
「...…来た」
僕が扉を開けると、ルナが立っていた。
黒いパーカー、いつもの格好。でも、どこか硬い。
「あ...その」
ルナの視線が、室内にいる3人に向く。
神谷さん、志歩、千佳さん。
3人とも、笑顔でルナを見ている。
「...」
ルナの足が、僅かに後ろに引かれる。
逃げたいんだ。今すぐ。
「大丈夫」
僕が小声で言うと、ルナがちらりとこちらを見た。
「…...茗荷谷月です」
搾り出すような声。
「ルナ、って...呼んでください」
「よろしく、ルナちゃん!」
千佳さんが駆け寄る。ルナの肩がびくりと震えた。
「あ、ごめん。びっくりさせた?」
「...平気」
平気じゃない声。でも、ルナは逃げなかった。
「よろしくね、ルナ」
神谷さんが柔らかく言う。
ルナの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
始まってゆくんだ。
本当に、ここから。




