黒澤という男
私は、仕事の首尾をいちいち報告しない。
でも今回は青木のことで、文句を言わなければならないので、グラスにラム酒を注ぎながら、携帯電話の電源を入れた。
仕事中から今まで、電源を切っているので気が付かなかったけれど、橙次と別れてから十分も経たないうちに、奴からの電話の着信履歴がずらりとディスプレイに表示されていた。
一分で十回以上。それが連続五分も続いている。
嫌な予感がする。
私は素早く乾いた服に着替えて、小型のリュックから予備の32ACP弾を取り出す。
空のマガジンに弾込めをし、ヒップホルスターのワルサーPPKにも弾を込める。
チャイムが鳴った。
私が借りている三つの部屋の一つからだ。
ドアスコープから覗くと、斜め向かいの部屋のチャイムを押す橙次の姿が見えた。
そして、橙次の巨体に隠れるようにして壁に張り付いている小柄な男も。
「翠さん、開けてください、俺です」
橙次がそう言いながら、今度は直接ドアをごつい拳で叩く。
奴の声が鼻声なのは、暴行を受けたから。鼻血で呼吸が出来ないのだ。
ここで、私が採るべき選択肢は2つ。
「戦う」か「逃げる」。
小型のリュックサックを背負いながら、部屋の明かりを消して、窓のカーテンを細く開ける。
確証はないけど、多分狙撃手がいる。
糸のような殺気が、カーテンの間から流れ込んでくる様な感覚。
私の勘は悪い方なら当たる確率が高い。
だから、今回も待ち伏せありきで行動することにした。
私は、なるべく音を立てないようにして、未だ湯気の残るバスルームに入る。
相手は誰で、このあと橙次がどうなるか知らないけど、「自助」は優先順位では一番。
少なくとも私はそう教わった。
「逃げる」
が、私の選択した方針。
背伸びしてバスルームのメンテナンスハッチを開ける。
天井裏に出て、足音を立てないように、メンテナンス用に作られた足場を辿ってゆく。
行先は、このフロアのリネン室。
リネン室には、荷運び用のエレベーターがあり、そのエレベーターは地下の業者用出入り口に繫がっている。
常に脱出ルートを想定しておくのも、私の習慣になっていたのだけれど、本当に役立てる日が来るとは正直言って、今日までは思っていなかった。
私たちには決まった巣穴がなく、誰がいつどこの巣穴を活用するか誰にも分からないから待ち伏せのリスクが少ないのだ。
天井裏から、臆病なネズミのようにリネン室を覗き見る。
しびれを切らせた襲撃者がドアを蹴破る音が聞こえた。
さすがにリネン室を調べるという発想はなかったようだ。
私は、業務用エレベーターのボタンを押して、一メートル四方の狭い空間に体を押し込む。
私がやせっぽちで小柄だから出来る逃走ルートだ。
デブの青木や、長身の赤崎などは無理だろう。あと、閉所恐怖症でないことも必須かもしれない。
クリーニング屋や廃棄物の回収、食料や飲料の搬出入を行う駐車場に荷物用エレベーターは続いている。
運よく、おしぼりの納入業者のトラックが、搬入を終えて出てゆくところだったので、その荷台に飛び乗る。
饐えたような使用済みのおしぼりの悪臭に包まれながら、私はまた雨の町に出る。
ポケットから、携帯電話を出す。
黒澤に電話をかけた。
私のいる組織を立ち上げた男。
そして、私を地獄から拾い上げ、新しい人生をくれた男でもある。
地獄に叩き込まれたかの様な「あの事件」がなければ、一生開花しなかっただろう私の拳銃使いの素質を見出したのもこの男だ。
「翠だな?どうした?」
眠そうな黒澤の声。
私は今でも黒澤の声を聴いただけで、きゅっと子宮が動くような感覚にとらわれる。
私の中の『雌』が、黒澤の濃厚な『雄』の気配に反応しているのだ。
「殺してやる」
襲撃されたこと、しくじった青木の事、とらわれた橙次のこと……言わなければならないことは一杯あったが、思わず口に出たのはそんな言葉だった。
「いいぜ、お前になら殺されてもいい」
黒澤は、男臭い顔に獰猛な笑みを浮かべ、クセ毛の剛毛をかきあげただろうか?
それとも、眠りから覚めたときにいつもやるようにハイライトを口にくわえ、紙のマッチを捜しているだろうか?
黒澤の腹心である赤崎は、私と彼との間で交わされる言葉は冗談だと思っているがそれは違う。
本気で私は黒澤を殺すつもりでいて、黒澤も私に殺されてもいいと思っているのだ。
なぜなら、私は毀れているから。
黒澤もまた毀れているから。
黒澤が、血膿と凌辱の汚泥の中で泣き叫んでいる私を拾い上げたのは、私に自分の姿を重ねたのだということが、今の私には分かる。
毀れた者同士の不思議な共感が私と黒澤の間にだけあって、それが赤崎のような合理主義者には理解できないのだ。
虚ろな私を現世に繋ぎ止めているのが黒澤。
黒澤がいない世界に私は存在出来ない。
生に執着する私の一面は一途に黒澤を求め、死に憧憬を抱く私の一面は黒澤を消し去りたいと思う。
その相反する私の感情を、理屈ではなく本能で理解してくれるのが黒澤という男だった。
「私という彷徨う破船を繋ぎ止める碇が黒澤なら、碇の綱を切る権利があるのは私だけ」
そんな狂った理論を黒澤は受け入れてくれる。
私は、トラックに揺られながら、今日の出来事を時系列に従って報告した。
「いま、どこだ?」
トラックが道路標識を過ぎる。
どうやら京葉道路を走っているらしい。『錦糸町』の文字が見えた。それを黒澤に言う。
黒澤は、葛飾の巣穴に潜り込んでいるらしい。
「来いよ」
黒頃澤が言う。私の体の奥が甘く疼いた。
声に動揺が出るのを恐れて、私は無言で携帯電話の電源を切る。
そして、トラックが信号で止まった時に荷台から降りた。
真夜中に近かったけれど、まだ錦糸町には人通りが多い。駅前にはタクシー乗り場あり、そこでタクシーに乗る。
追手はない。いいタイミングでおしぼり業者が来てくれて助かった。
安心して、シートに身を沈めると、グラスに注いだまま飲むのを忘れたラム酒を思い出した。ボトルもそのままだ。
マイヤーズのダークラムのビンテージボトルだったっけ。もったいないことをした。
今夜の黒澤の巣穴は、廃業したラブホテルだった。
用心深い狐のように、尾行の有無を確認してから、そこに入る。
予め教えられていた二階の部屋をノックした。
待ちかねていたように、ドアは開く。
ドアスコープで見ていたのだろう。
黒澤は、誰かが接近すると高確率で事前に察知する。異様に勘が鋭いのだ。
「まっていたぜ、姐ちゃん」
黒澤の軽口に私は舌打ちで答える。
そのままずかずかと部屋に入った。
わざわざ振り返って見てはいないが、黒澤が肩をすくめているのが気配で分かる。
黒澤は腕が太く、足も太い、胸板も厚い。青木のようにブヨブヨで太いのではなく、鍛え上げられた筋肉だった。
ステロイドで作られた肉体ではなく、天性を鍛錬で磨いた体だった。
身長は百八十センチ丁度。
何度聞いても覚えられない古ぼけた名前の武術を習得しているという噂だが、実際に使役するところを私は見たことがない。
射撃などの技術は、私が訓練を受けた台湾にいる中国人民解放軍の特殊部隊くずれのインストラクターから受けたらしい。
私ほどではないが、なかなかの拳銃使いでもある。
「赤崎も襲撃を受けた。灰谷とは連絡がつかないが、まぁ抜け目の無い奴だから大丈夫だろう。金と紫は旅行中で難を逃れた。黄は、多分洋上だ。きっとお楽しみだな。白井先生と桃山は無事が確認されている。緋村と橙次と青木は行方不明。状況はざっとこんなところだ」
つまり、都内にいるメンバー全員がほぼ同時に襲撃を受けたという事らしい。
組織が立ち上がって以来の危機だと思うのだけど、黒澤は実に楽しそうだ。
いつだってそうだ。死の匂いが身近であればあるほど、黒澤は陽気になる。
まるで、面白い玩具を見つけた子供のように。
「ちょっと仕掛けをしたから、忙しいぞ」
そういいながら、SIGP226にマガジンを挿入していた。
近頃の黒澤のお気に入りの銃だ。
アメリカ海軍の刻印があるので、横須賀あたりからの横流し品なのかもしれない。
アメリカの特殊部隊でも採用されている銃らしいのだけれど、大型拳銃なので、手があまり大きくない私では扱いにくい。
「仕掛けって何?」
私は、鼻歌を歌いながら身の回りの物を片づけ始める黒澤に言った。
人を撃った。休もうと思っていたら襲撃されて、逃げた。
短時間にそれだけのことがあったので、正直に言わせてもらうと、私は疲れている。
暖かいベッドで眠りたいのだ。
「あとちょっとだけ付き合えよ」
三十分後、私は、鉄板で補強された壁を背に膝を抱えて座っていた。
手には愛用のワルサーPPK。
SIG230に換装される前は、警視庁警備部や皇宮警察で制式採用されていた小型自動拳銃だ。
おそらく、廃棄と同時に鋳つぶしたはずの拳銃の何丁かが
『何らかの手違い』
……でこうして生き残ったのだろう。
市民を守るために輸入されたこの銃は、私が黒澤から譲り受けた時に、十四人もの命を奪った。
彼は、震える私の手にこのワルサーPPKを握らせ、こう言ったのだった。
「これから生きている限り、お前はずっとここで経験した恐怖と屈辱の記憶に苛まれ続けるだろう。その現実から逃げたいなら、この銃口を自分に向けろ。引き金を引けばそれで悪夢は終わる。誇りを取り戻したいなら、目の前の恐怖と屈辱の元凶を撃て。この銃はお前の悪夢を追い払うことが出来る。それとも、全てなかったことにして、緩慢に死ぬか? その場合は、この銃を床に置け」
私はその時、誇りを取り戻すことを選択した。
自殺することは大事な何かから逃げてしまう事だと思ったから。
ここでの出来事をなかった事になんてできない。緩慢に死ぬ。なにもしなければ、その通りになっていただろう。
ワルサーPPKのひんやりと冷たい銃身を額に当てる。
これは、その時に黒澤にもらった銃。
私の選択の証。
無力だった私でも、理不尽な暴力に抵抗する力があることを教えてくれた私だけの小さな鋼。
耳を澄ましていたからわかったのだけど、ワゴン車のスライドドアが開閉する音がした。
何人かが下りる音も。
「きたぜ」
黒澤の声だけがする。
「まっすぐこの部屋に来る。予想通りだ」
笑みを含んだ声。黒澤のふざけた態度を、私は口では文句を言うけれど、楽しそうにしている黒澤を見るのは嫌いではない。
「三人だ。AK47で武装している。軍隊の動きだな」
平和な日本で、テロリスト御用達のアサルトライフルとは嘆かわしい限りだ。
この部屋には屋根裏があり、黒澤はそこに隠れている。
廊下に小型CCDカメラを仕掛けてきたのは私だ。
黒澤は、それを屋根裏で見ているというわけ。
私は、屋根裏に上がるのを拒否した。
ネズミのマネは一日一回やれば十分だと思ったから。
「扉の前に来たぞ。C4で、ドアを吹き飛ばす気だ。まったく、乱暴な奴らだ……3・2・1……ドカン」
黒澤の爆発音の口真似から一瞬の後、ドアがはじけ飛ぶ。C4はいわゆるプラスチック爆弾。軍の特殊部隊御用達の爆弾だ。
爆発の音はそれほどでもない。
ドアの蝶番とドアノブを吹き飛ばすだけの爆薬量だから。
敵がドアを踏み倒した瞬間、私はワルサーPPKの引き金を三度引いた。
銃声が必要なだけで、狙撃したわけではない。天井に穴は三つ開いたけど。
敵は反射的に、壁に張り付き銃声のした方向……つまり、わたしの方向にフルオートの斉射を加えてくる。
これで、敵の注意は私に集中した。
天井は心理的な死角になり、そこに潜む黒澤の奇襲の成功率がはね上がる。




