セーフハウス
私は半年以上、日本に進出し浸透を図ろうとする外国の犯罪組織のアジトである中華料理店に下働きとして潜入していた。
そこで得た情報は、暗号化されたメールで逐一報告され、我々の組織に蓄積されている。
私に限らず、その料理店に勤務する者は、すべて監視対象となるので、虚偽の情報が流されることもある。
情報の漏洩元を特定するためだ。
それを分析していたのが、黒澤と赤崎だった。
私も神経をすり減らしたが、彼らも消耗したはずだ。少しでも取扱いを間違えれば、私は殺される。
相手の組織が大規模すぎるので、我々が特定され『正体不明』という我々がもつ唯一の防備がなくなれば、一瞬で攻め滅ぼされてしまうだろう。
私の偽装は実に巧妙で用意周到だった。
だが、長年抗争を経験してきた黒社会の防諜チームは想像よりずっと優秀で、そして果断だった。
我々は、メールの中継点として福建省在住の少女のモバイルPCを利用していた。少女は、我々とは面識がなく、懸賞でPCが当選したと思っている一般市民だった。
送られてきたモバイルPCには、予め我々がバックドアを仕込んでいてそのバックドアを遠隔操作でこじ開け、私が送信した暗号文書を取り出したのは黒澤の知人の魔法使い。
私のPCの使用履歴から、その少女を特定することが出来た防諜チームだが、捜索はそこで途切れてしまっていた。
少女は念入りに調査されただろうが恐らく何も出てこなかっただろう。何故なら、その少女は我々とは無関係で、自分が中継点になっていることすら知らないのだから。
そこで、防諜チームは、乱暴なことにその少女を拉致、拷問にかけて殺し、持ち物を全て持ち去った。
それが、一週間前。
防諜チームが、まだ少女が生きている風を装い、私からのメールを受け取り、その文章を解析し、どうも暗号らしいといく結論を下すまでに六日。
魔法使いが、逆ハッキングを仕掛けられたことに気が付かなければ、私は殺されていただろう。
疑わしきは殺す。『推定無罪』などという言葉は、彼らの中には無い。そして、判決は一つしかない。
黒澤は、僅か一日で私の脱出計画を練り、準備をし、実行したのが昨日。
だから、私の脱出劇は実に際どいタイミングだったと言える。
私は一度死んでいるので、もう死は怖くはないけれど、黒澤と私の結末を見届けられないのは心残りになっていただろう。
私が、その決死行で得たそのデータをもとに、金と紫のコンビが動いている。
どのデータをどうやって活用したか、私は知らない。
歯車の一つである私は知る必要がないから。
私は今回の役目を終え、新しい任務に向けてメンテナンスをする。それが次に私が行うべきこと。
「今回のセーフ・ハウスはどこ?」
任務が終了した後、休養を行う安全地帯を我々はセーフ・ハウスという。同じセーフ・ハウスは2度と使わない。『正体不明』が我々の最大の利点なので、常に拠点を動かす必要があるから。
金と紫は熱川に決まったセーフ・ハウスを持っているけど、彼らは遠距離からの狙撃を主な活動としていて、隠密性の高い我々の中でも特に知られていない存在なので例外。
多少リスクが高まってもたかが知れている。
「今度のセーフ・ハウスは温泉付きだぜ」
灰谷が車を出す。
私は助手席に座った。そして、キャップを目深にかぶる。どこに監視カメラがあるのかわからないから。
「黒澤のせいで、桃山と下水の中を這いずり回ることになったの、だから、温泉はありがたいわね」
風呂のことを考えると、たまらなく湯船に浸かりたくなった。
思えば、潜入していた半年はシャワーばかりで、全く風呂に入っていない。
灰谷が送り届けてくれたのは、荒川と江戸川の間にある埼玉県の北部にある中 規模の市の老人ホームだった。
天然温泉の風呂が使える高級な介護付老人ホームだったのだけど、経営破たんをして、闇金経由でヤクザが差し押さえた物件だった。
施設はまだ使えるが、入居者は全部退去してしまい、買い手がつくのを待っている物件だ。それでも温泉は湧き続けているので、そのメンテナンスのために、清掃が入るのだが、それを赤崎がダミー会社を介して引き受けている状態だった。
だから贅沢にも、今回のセーフ・ハウスは温泉付きというわけ。
厳重にチェーンを巻かれた門扉を開け、敷地内に入る。
駐車場には、ダミー会社のロゴがある白いワゴン車と、軽の乗用車が一台停まっていた。
「任務継続中の金と紫以外は皆、ここに来ている」
私の視線に気づいて灰谷が言う。門扉にチェーンを巻きつけ直して、非常口から建物内に入る。
いつもの様に、小型CCDカメラが、巧妙に隠してあって、この非常口と駐車場を監視しているだろう。
屋内は、設備が撤去されてしまっているので、ガランと広い印象だ。
一階は受付と防災センター、それといくつかの面会室、ちょっとした喫茶コーナーで構成されていたようだった。
要介護の老人が入る施設だったらしいので、認知症の人たちもいる。
だから入り口を監視して入所患者が外に出ないように監視していたのだと思う。
エレベーターのボタンに、暗証番号を入力するボタンがあった。
非常階段はあったけど、そこは鉄扉で常時施錠されていたらしい。
一見、病院のように見えるけど、ここの実情は『収容所』みたいなもの。徘徊癖のある入所者を逃がしてしまえば、責任問題になるので、仕方ないといえば仕方ないのだけれど、私は人生のターミナルをこんなところで過ごしたくないと思ってしまった。
私はどうせ長生きしない。こんな生き方をしていれば、いつか死ぬ。だから、それは杞憂というものだけど。
カギをあけて二階へと向かう。建物は地下一階から四階までという構造なのだけど、我々が主に使うのは二階ということになるみたい。
大浴場も二階みたいだし、一番使い勝手がいいという判断らしかった。
非常階段の脇にエレベーターがあって、その前がちょっとしたロビーになっている。エレバーターと非常階段を見渡せる位置にナースステーション風のブースがあって、多分ここに警備員や介護士が詰めていたのだと思う。
黒澤は、ここにノートPCなどを持ち込んで起動させ、監視所を作っているらしかった。
黒澤がそこから顔を出して、私に声をかけてくる。
「よう。久しぶりだな。お疲れさん」
私は黒澤の顔を見て動揺していた。
懐かしくてではない。その焦燥した様子に……だ。
目の下に隈が出来、頬は落ちくぼみ、顔色が悪かった。
そのくせ、熱にうかされたかのように、目だけは爛々と光っていて、まるで薬物の中毒者みたいだったから。
背中を向けていた赤崎も、黒澤の声にこっちを振り向いたが、彼も同様のやつれ方をしている。
「無理をしすぎだ。それこそ、命を削るほどに。温泉付を選んだのは、わしの指示だよ」
白井さんが、いつの間にか私の前に立っていた。
黒澤と赤崎に気を取られていたとはいえ、こんな近くにくるまで、私は白井さんの気配を察知することが出来なかった。
三年前、あんなことがあってから、私は他人の気配を察知するのが敏い方になったのだけど。
「おかえり翠。あんたも疲れた顔しとる」
白井さんは杖をついていた。
若い頃、膝を壊したことがあって、冬に入る頃になると、シクシクと痛む様になったと、嘆いていたっけ。
灰谷が、私にキーを差し出した。
二階の個室の鍵だった。ベッドなどは既に持ち出されていたが、簡易ベッドと寝袋が置いてあるそうだ。
着替え一式や洗面道具やタオルなども用意されていて、それだけあれば私にとっては充分だった。
私は、疲れていた。緊張から解放された今、それがよく分かる。
久しぶりに浸かる風呂が大きな風呂だというのはとても魅力的に思えた。




