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コバルト色の空

 主要駅を避けて、三つ離れた駅にタクシーで向かった。

 キャップを目深にかぶって、改札を通過する。

 電車に乗れば、ピックアップ場所の渋谷まで乗り換え無しでいける。

 俯いて駅に立ちながら、電車を待つ。そうしていながら、尾行の有無を確認していた。

 平日の昼ともなれば、乗客は少ない。

 尾行があれば、私にはすぐにわかるはずだ。

 さっきまでの、命がけの鬼ごっこは楽しかった。

 生きるか死ぬかのギリギリのラインで踊るのは、快感に近いものを感じる。

 だから、黒社会のアジトに潜入中も、私は楽しかったのだと思う。

 三年前に私は一度死んだと同じ。だから「生きている」と感じるには、神経がヒリつくような危険がないといけない。リストカットを繰り返すような病んだ奴は、これと同じく死を感じさせる儀式を行うことによって生の実感を味わっているのかもしれない。私は、剃刀の刃で肌を傷つけるようなことはしないけど。

 電車が到着した。それに乗る。尾行者はいない。

 目に見えない包囲網を突破した実感があった。

 これは、戦場に身を置いていないと理解出来ない感覚だと思うけど、安全地帯に抜けた時は、感覚で分かるのだ。

 女子高校生が二人電車に乗ってくる。

 時間帯が時間帯なので、学校をさぼったのかどうか知らないけれど、まるで小鳥の囀りのように、次から次と話題を変えながら楽しそうに話している。

 三年前の私がそうであったように、自分の身の回りには危険など何もないと思っているのだろう。


「今、あなたたちのすぐそばに、人を射殺したばかり人がいるよ」


「いっぱい人を殺して、それでも何の痛みも感じない殺人人形みたいな女が隣にいるんだよ」


 そう、囁いてやったら、彼女らはどんな顔をするだろう。

 棲む世界が違う。違ってしまった。

 そこに後悔はないけれど、三年前、あんな目に合わなかった別の自分が何処かに生きているような気がしてならないのは、やはり私が毀れている証拠なのだろうか?


 渋谷で私をピックアップしたのは、灰谷だった。車は都会では目立たたない白の乗用車だった。灰谷も地味なダークスーツ姿。これが、都市迷彩と同じ働きをする。

 私はなんとなく黒澤が直接迎えに来るのだと思っていたので、落胆の表情が出たのかも知れない。

「おいおいおい……傷つくじゃねぇか。露骨に『なんだ灰谷か』って顔するなや」

 そういって、車を発車させる。土から掘り起こしたばかりのジャガイモみたいな朴訥な顔をして、灰谷は人の心の動きを読むのが上手い。

「そんな顔していた? ごめんね」

 私は、後部座席から身を乗り出して、灰谷の剃り上げた頭にキスをする。

「やめろ! 馬鹿!」

 耳まで真っ赤になって灰谷が照れる。灰谷をからかうのは面白い。

 私のクスクス笑いが収まると、灰谷が肩越しに私を見ながら言う。

「大変だったろう。半年もあんなところに潜り込んでよ」

 車は渋谷から王子方面に向かっているようだった。

 ここは安全地帯。灰谷が守ってくれる。そんなことを考えると、どっと疲れが出てきたようだった。

「疲れたよ。今日はぐっすり眠れそう」

 私の眠りは浅い。そしていつも悪夢にうなされるけど、その悪夢の内容は朝にはきれいさっぱり忘れているのが常だった。

「そうか。眠かったら寝ていいぜ」

 灰谷が言う。

「そうさせてもらおうかしら」

 灰谷の好意に甘えることにした途端、睡魔が襲ってきた。

 シートに横になる。

「子守唄でも歌ってやろうか?」

 私は運転席の背もたれを蹴り、それをもって回答とした。

 そして眠りについたのだった。


 私が目を覚ましたのは、東京と埼玉の境になる荒川の土手だった。

 土手のすぐ脇に車が止められおり、私は車の後部シートに横なったままぐっすり眠ってしまったみたいだった。

 灰谷は、彼のスーツの上着を毛布代わりに私にかけてくれていた。

 いつもは眠りが浅いので、誰かが接近すると目が覚めるのだけど、今回はよほど疲れていたらしい。

 敵地での日々の疲労は、澱のように静かに私に蓄積していたのかも知れない。

 日は傾いて、夕焼けが西の空に赤い。時計に目をやると四時間は寝ていたことに気が付いた。夢も見ない深い眠りだった。おかげで、ラードのようにべっとりと貼りついていた労感はすっかり拭い去られていた。

 キャップをかぶり直し、伸びをする。骨がバキバキと鳴った。

 灰谷は、車の外でタバコを吸っていた。

 寒空の中、ワイシャツ姿だったけど、すこしも寒そうに見えないのは、どこもかしこもゴツゴツと太い体つきのせいか。

 私にかけてあったスーツの上着を持って、車の外に出る。

 ドアを開閉する音は聞こえただろうけど、灰谷は私の方を振り返らなかった。

 川面を渡る風が冷たい。風は、薄汚い東京のドブ川の匂いがした。

 私は、灰谷の肩にスーツを羽織らせる。

「ん」

 灰谷はくわえ煙草のまま、スーツの袖に腕を通した。

「私を寝かせておいてくれたのね」

 灰谷が手にした缶コーヒーを私に差し出してくる。

「買ったはいいんだが、桃山のコーヒーに慣れちまうと、どうも飲む気になれなくてね」

 寝起きで喉が渇いていたので、私は喉を鳴らしてそれを飲む。

 甘いだけで香りもコクもない液体だったけど、私にはそれで十分だった。

「俺は、このあたりの出身でね」

 灰谷が目を細めたのはタバコの煙のせいか、懐かしさゆえか。

「ド底辺の頭の悪い連中が集まる高校が俺の母校さ。赤崎とちがって、俺は勉強なんか出来なかったし」

 灰谷はポケットから携帯灰皿を出して、タバコを消す。

「ここらは貧しい地域でね。荒っぽい連中も多い。町工場に努める奴らと、建築会社の連中が仲悪くてさ、しょっちゅうケンカしていたよ」

 カラスが鳴いて、夕焼けの空をねぐらに帰ってゆく。

 掛け声をかけながら、河原のグランドで近所の野球部員が走っていた。

 自転車の前かごから長ネギをはみ出させて、主婦が家路を急いで自転車を漕いでいた。その背中には、赤子の姿。

 下校途中の小学生が、リコーダーを吹きながら歩いていた。

 渋谷の雑踏からくらべると、ここはなんだか時間が止まってしまったような場所だ。

 私は下町育ちではないけれど、灰谷の様な下町っ子はこうした景色が原風景なのかもしれない。

「揉め事を仲裁したりするのが、当時地元の顔役だった篠組でね。腕っ節しか誇るものがなかった俺は、篠組にあこがれたものさ。馬鹿なガキだったんだな」

 灰谷は、篠組が広域暴力団の傘下に入るのを潔しとせずにそこを抜けた。

 表向きは、広域暴力団から杯を受けた直後に引退した先代の組長に義理立てして足を洗ったことになっているが、組織の在り方を変えるにあたって、反対派が一斉に首を斬られたようなものだったらしい。

「警察は市民の味方じゃねぇんだ。警察は警察という組織の味方でしかねぇ。本当の市民の味方は『任侠』だなんて、当時の俺は思っていたのだが、そんな考え方は青かったし、古かったんだな」

 灰谷が笑う。自嘲の笑いだった。だから、木枯らしのようなうすら寒い笑い声だった。

「俺には居場所が無ぇ。誰にも必要とされない男だ。赤﨑も同じさ。だから、黒澤っていう旗に縋ったのさ」

 灰谷は暴力の世界に身を置いていたので、暴力を否定しない。

 ただし、それは暴力を是とする世界のみで行使されるべきで、一般市民を巻き込むべきではないと考えているらしかった。

 『堅気の衆に手を出すな』という篠組の先代の教えに、広域暴力団は反する。

 外国の犯罪組織や、半グレなどその信念の対極にいる。

 灰谷は、黒澤の存在に彼らが失ってしまったヒロイズムを見出したのかもしれない。

 『志』とか『信念』とか、男はそんなもので動く。

 女である私には理解できない行動原理だった。


「もしもの話だが、黒澤が裏切っていたら、お前はどうする?」


 長い沈黙の後、灰谷が言う。

「裏切るって、何を?」

 私は、笑い飛ばさなかった。

 緋村の言葉。

 強引な作戦。

 時折、黒澤に覚える違和感。

 それらが、私の心の中に忍び寄っていたから。

「黒澤にはある目的があって、その目的のために俺らが利用されているとしたら、お前はそれを裏切りと見るかってことさ」

 奥歯にモノの挟まったような言い方だ。

 灰谷らしくないが、そこに灰谷の迷いを感じる。

 私は、たとえ黒澤が自分のために私を利用しても構わないと思っている。

 黒澤によって生命を吹き込まれた殺人人形なのだから。

 人形は夢を見ないし、理想も志も語らない。


 『私という存在を生み出した事に、黒澤が責任を持っているかどうか』


 それだけが、私にとって重要なことなのだ。

 死の願望に撮り付かれた私の思考のベクトルを、生の渇望に変換したのは黒澤だ。そして、その不安定な思考のベクトルは、いつ死へと振り切るのか、私にも分からない。

 私が死を望んだ時、私を現世に繋ぎ止める碇たる黒澤は死ななければならないし、黒澤を殺す権利があるのは私だけだ。

 狂った考えだとは、自分でもわかっている。

 しかし、一ヶ月近くも監禁され、おもちゃにされ、凌辱しつくされ、心身ともに破壊されたあの日あの時、黒澤によって救い出された私が、私自身に課したルールがこれなのだから仕方がない。

 黒澤は、私の狂った考えを理解はしていないだろうけど、受け入れてくれた。

「お前になら殺されてやってもいい」と、言ってくれた。

 私にとって、黒澤が裏切るということは、この二人だけの狂った『絆』を否定する事。

 そんな理論は、灰谷には理解出来ないだろうし、理解してもらうとも思わない。私は毀れていて、黒澤もまた毀れている。毀れた者同士の約束なのだから。

「私を裏切ったら殺す。それだけ」

 私は、灰谷にそう答えた。

 灰谷の問いかけの答えにはなっていないけど、それで充分に分かるはずだ。


「俺は、馬鹿だからよくわからん。だから、俺は兄弟分の赤崎を基準にする。奴には借りがあって借りを返すまでは、俺は奴を守る。それなら、俺でも理解できるし、迷わない」


 灰谷らしい言葉だった。シンプルに割り切る。その部分が私と似ている。だから灰谷の考え方には共感できる。

 赤﨑の様に理論を重視しない。

 桃山のように偽装を常としない。

 かといって白井先生の様に無関心でもない。

「やりたいようにやればいいと思うよ。色々悩んだり迷ったりしても、結局最初に思いついた考えが正しいことが多いもの」

 私の言葉に、灰谷は「そうだな」と、だけ言ってすこし笑い、タバコに火をつけた。

 夕日が沈む。

 振り返ると、コバルト色の空に星が見えた。


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