潜入任務完了
地面が見える。桃山が開けたのは、車の床部分に作った脱出口だった。
そこにはちょうどマンホールがあり、桃山はバールでマンホールの突起を引っかけてそれを開けた。
下水の臭気が上がってくる。軟膏はその耐えがたい臭気を緩和する処置だった。腐乱死体を発見した際、警察の鑑識課でも行う技法。
「レディファーストで」
自分も、軟膏とマスクで防備しながら、桃山がマンホールを指し示す。
「このくだらない仕掛けの考案者は、黒澤?」
ため息交じりに私が問うと、桃山が頷いた。
「映画だかドラマだかで使われたトリックらしいですよ、これ」
やれやれ……私は肩をすくめ、ぬるぬるするマンホールの梯子に足をかけた。
「消化ガスの発生を抑制するために、アンモニアを散布していますので、ガスマスクは外さないようにしてくださいね」
汚泥をメタン菌が嫌気発酵させると、いわゆるメタンガスなどが発生する。それらを総称して消化ガスというのだが、これは可燃性だ。
その阻害要因となるのがアンモニアだった。
「ネズミやゴキブリと一緒にローストになるのは、ごめんですからね」
桃山が自分で言ったその台詞に自分で受けて笑う。逃げる算段がついたので、少し余裕が出てきたらしい。普段のスカした桃山に戻りつつあった。
「あいつらが追ってきたらどうするの?地下を逃げ回るのは嫌よ」
すぐ追跡出来ないようにするのと、ガスの発生を抑えるのと二重の効果を期待してのアンモニア散布だと思うけど、あいつらの戦力供給先は軍隊。退役した……または現役の……人民解放軍が母体なのだ。
当然、対化学兵器の訓練も積んでいるはずで、ガスマスクもすぐに調達してくるだろう。
場合によっては、車に積んである可能性も無いとは言えない。
「大丈夫。もうすぐ彼らは追跡する事が出来なくなりますよ」
嫌な光を目に浮かべながら桃山が言う。ガスマスクの下はさぞ、醜悪な笑顔を浮かべていることだろう。
もとが秀麗な顔である分、桃山はそのどす黒い本性を見せると、邪悪な笑顔はより隠惨になる。
同じ、日陰に生息する人間でも、黒澤にはそういった面がない。カラリと陽性なのだ。
黒澤と桃山の差は、各人が持って生まれた地金のようなものなのかもしれない。
ワゴン車には、小型CCDカメラが設置されているらしく、そこから飛ばされてくる映像を、桃山がスマートフォンで見ている。
桃山がもう片方の手で持っているのは、トバシの携帯電話だ。
桃山は、植木鉢の中にある何かをコードでつないでいた。そして大粒のベアリング玉を植木鉢にザラザラと流し込んでいた。
そこから導かれる結論は一つ。ワゴン車を爆破するつもりなのだ。
追跡者たちは、我々がワゴン車から脱出していることを知らない。ワゴン車が爆散すれば、我々が自害したように見えるだろう。加えて、死傷者も必ず出る。 そうなれば、もう追跡どころでは無くなる。
「えげつないわね」
私がそうつぶやくと、耳聡くそれを聞きつけた桃山が、
「これは、古い忍者漫画から採った方法ですよ。黒澤や私が生まれる前の頃の作品ですけどね。あなたも知らないでしょう」
……と、言った。毎度の事だけど、黒澤の引用は私にはまったく分からない。
マグライトの明かりを頼りに、迷路のような下水道の中を歩いていると、私はもう死んでしまっていて、桃山と一緒に地獄を巡っているような気がする。
ゴキブリやら鼠が多いのも、いい加減うんざりさせられる。
いちいち悲鳴を上げるほど私は乙女ではないけれど、見なくて済むものなら見たくはない。
意外なことに、潔癖症に見える桃山は、この行軍が全く苦にならないらしかった。
「風呂に使って、体を洗えば、リセットできますよ」
そんなことを言って笑っていたが、私は桃山の合理性がうらやましい。
「あ、やっと来たな」
ワゴン車に仕掛けたCCDカメラの映像を見た桃山がつぶやく。
「大きな音が出ますよ。鼓膜を守ってくださいね」
桃山が、携帯電話の短縮ボタンに指をかける。
「あはは、C4に気が付いたみたいだ。慌てていますよ。滑稽だなぁ」
そう言いつつ、ボタンを押す。
私は口をあけて耳を塞ぎ爆音に備えた。
地下にいる私たちには、爆発音は重い低音が衝撃となって伝わる。
鼓膜で……というより、体腔で音を感じる感覚といえばわかりやすいだろうか。
狂ったように鼠が走り、天井を這っていたゴキブリが雨の様に落ちてきたのはうんざりさせられた。
「忍法微塵隠れ」
桃山は、私には全く意味が分からないことを呟いて、歩きはじめる。
私はため息をついて、上機嫌の桃山の後について歩く。こんな迷路のようなところで、迷子になるのは御免だ。
くさいし、ゴキブリはいるし、ドブネズミは猫ほどのサイズだし。
下水のマンホールをあけて再び地上に出た場所は、廃ビルの地下にある駐車場だった。
ここも、埃っぽくて黴臭いけど、アンモニアとドブ泥の悪臭に較べれば、ずっとマシだ。
着替えは、ビニールに包んで用意してあった。
私はハーフブーツとデニムと軍用パーカーとキャップといういつもの格好。
軍用パーカーを愛用するのは、監視カメラ対策だ。体型をごまかせるし、ヒップホルスターも目立たない。キャップもそう。目深に被れば顔を隠せる。髪はわざと耳にかぶせる。
耳の形は指紋と同じくその人固有のパターンを持っていて、今の発達した画像技術なら、耳の映像だけでも個人を特定できるから。
体や髪に染みついた下水の匂いを消すための消臭剤まで用意してあった。
桃山は作業着と長靴を脱いで、用意してあったスーツに着替えている。
ひょろひょろした青瓢箪に見える桃山だが、その裸身は鞭を束ねたかのような、見事な筋肉をしていた。
圧倒的なパワーを秘めた剣闘士を思わせる黒澤の肉体と違って、鍛え抜かれた武術家の肉体だった。
多分、何かの格闘技を習得しているのだろう。
私は汚物まみれのパンプスを脱いで、雑巾で足を洗うところから始めなければならなかったので、着替えは桃山より遅い。
使える水道があったけれど、水しか出ないので、足が冷えるのが嫌だ。
「ピックアップは渋谷です。灰谷が迎えにきます。詳しい座標はポケットのスマホに記憶させてあります。一応、追跡は無いと思いますけど、用心してくださいね」
桃山は、それだけ言うとさっさと廃ビルを出てゆく。
彼の変装はいつみても見事だ。さっきまでは、植木業者になりきっていたけど、今は颯爽としたエリートサラリーマンにしか見えない。
おそらく、死んだ張も変装は巧みだっただろう。嘘つきの男は、口数が多くて変装も上手い。変装の奥義は自分すらだますことだから。
私は、猫がグルーミングして身ぎれいにするように、体の異臭を取ることに専念した。
電車で移動することになるので、異臭は避けなければならない。記憶に残ることを避けたいから。
目立たない事。
存在を知られない事。
私たちは人が多く、監視カメラがあふれるこの都会で、漂う幽霊のように生きていかなければならないのだから。
着替えが終わったものは、下水管の中に落とした。あの、いやらしい服を脱ぐことが出来て清々した。
重いマンホールの蓋を苦労してもとに戻す。
そして、スマホの動画サイトを開いてニュースを見る。
中華街の暴走と倉庫街の爆発事故が報道されていた。
どちらも死傷者はいないと発表されていたが、張の仲間が死体を回収したのだろうか。
日本の警察がいくらテロ事案に疎くても、これだけの短時間で血痕だけを消し去るのは不可能に近い。
となると、情報を伏せている可能性が高い。
テロ事案と断定したなら、動くのは公安? それともヤクザの抗争とみて組織犯罪対策課が出張る? いずれにせよ、日本の警察の中では、この二つのセクションは手強い部類に入るので、用心したほうがよさそうだ。
異動については主要駅を避ける。
駅で張っているのは警官ばかりではない。
殺気立った黒社会の連中も目を光らせている可能性が高い。
私は、ぶらぶらと廃ビルから裏道に出て、カクテルのグラスに差してある櫛形に切ったレモンのような噴飯ものの形状のホテルの方向に歩いてゆく。
港町らしく、『風をはらむ帆』をイメージしたデザインという触れ込みらしいけど、考えた奴も、採用した奴も、きっとクスリでもキメていたのだと思う。
人が流れているのは、そのホテルでイベントがあるから。
私は人の流れに乗るようにして歩いてゆく。自然に、まるで観光客の様に。
近くで爆発事故があったにもかかわらず、イベントは実施されていて、それはオリジナルアニメーションの試写会らしかった。
題名を見ても私には何がなんだかわからなかったけれど、これだけ人が集まるのなら人気の作品なのだろう。
途中で人の流れを反れて、タクシー乗り場に向う。こういったイベントがあると、タクシー乗り場に客待ちのタクシーが多く並ぶ。その一台に乗った。
キャップの間から見ると、車載カメラが見える。一時期、タクシー強盗が頻発したので、こういった装置を設置するタクシー会社が増えている。
私は、カメラから顔を不自然ではなく隠す角度で座って、駅名を告げる。
この港から三駅いったところにある駅の名だ。まるで中国の詩人のような名前の駅。
タクシーが出る。
検問を張るところまで、行っていないのは、公安や組織犯罪対策課の隠蔽体質にある。
所轄警察と情報を共有しないのが、彼らの伝統みたいなものだ。
悪意があってのことではない。
刑事警察と公安警察では事案に対する取り組み方が根本から違うのだから仕方がないのだ。
前者は防犯に重きを置き、後者は組織ぐるみの検挙に重心を置いている。
よって、公安は目の前の犯罪に目をつぶり、より大きな標的を狙う覚悟が出来ている。
覚悟をした者は手強い。
手強い奴とは敢えて事を構える必要はない。
改正暴力団対策法によって、既存の暴力団は骨抜きになった。
その代り、民族系の組織や半分グレーゾーン……いわゆる『半グレ』と呼ばれる組織が台頭してきている。
暴力のアウトソーシングを請け負う我々も、その時代を背景に咲く仇花のようなもの。
公安は、そうした新しい暴力組織にメスを入れたがっている。
民族系や半グレは比較的わかりやすいだろう。
既存の暴力団の焼き直しだから。
全く手をつけられないのは、私たちのような現代の傭兵集団のような組織なのかも。
実体がなく、暴力の痕跡だけが残るのだ。




