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埠頭に追い詰められた私たち

 地下の駐車場に入った。

 私は、ワゴン車に乗り込む。飛び乗るようにして運転席についた桃山は、ワゴン車を急発進させた。シャッターを閉鎖されたら袋の鼠だ。事実、シャッターは降りはじめていた。

「黄色い鉢に、あなたの望むものがありますよ」

 アクセルをベタ踏みしながら、桃山が叫んだ。

 ワゴン車のタイヤが悲鳴を上げ、荒馬の様に車体が跳ねる。

 私は、黄色い鉢に手を伸ばし、植わっているポトスの茎を掴んでそれを引き抜いた。鉢の底に油紙の小さな包みが見える。私の胸が高鳴る。

 ワルサーPPKだ。

 黒澤にもらった銃。

 私の闇を照らす灯。

 私だけの小さな剣。

 飢えた囚人がパンの包みを見つけたかのような震える手つきで油紙を破った。

 そして、ワルサーPPKをその手に握る。

 冷たい鋼の感触。ガンオイルの匂い。手に慣れたその重さ。懐かしくて心が躍る。

 スライドをちょっと引き、薬室に弾があるのを確認し、マガジンを抜いて弾を 確かめた。32ACP弾が出番を待って並んでいるのが見える。

 使い慣れたヒップホルスターも同封してあったけれど、接客係の制服には丈夫なベルトが付帯していないので、それをポケットに押し込んだ。

 予備のマガジンは二つ。

 私がいつも持ち歩いている数だ。

「お気に召しましたか?」

 桃山が言う。彼が運転しているワゴン車は、降りかかるシャッターに天井を擦るようにして外に出たところだった。

 平日なので少ないとはいえ、観光客はいる。

 桃山は乱暴にクラクションを鳴らして通りに飛び出た。

 通行人から悲鳴が上がる。

 そのくせ、怯んで棒立ちになるだけで、回避行動はとらない。さすが平和ボケした日本人。危険に対する嗅覚が世界一鈍いと言われるだけはある。

 ワルサーPPKは、セーフティをかけてポケットに入れる。抜き撃ちは出来なくなるけど、ホルスターが使えないのだから仕方がない。

「気が利いているのね。うれしいわ。ありがとう」

 追跡者の姿を肩越しに確認しながら、私が答える。桃山は、驚いたような顔をして私を一瞥しただけだった。私がお礼を言うなどと思わなかったのだろう。それはそれで、失礼な反応ではある。

 やはり、桃山とは気が合わない。

「バイクが一台追ってくるわよ」

 私にはその追跡者が誰だかわかった。チャンだ。彼は、トカレフらしき銃を懐から抜いて、撃ってくる。

 昼日中、街中で発砲するなんて、だいぶ頭に血が昇っているみたいね。

 観光客が逃げ惑う。凶暴な猫に乱入されたヒヨコの群れは、きっとこんな様子だろう。

 自分の意思で逃げる方向を定めるのではなく、何となく前の人についてゆくだけ。それを見ていると、頭の中がお花畑だった三年前の私を思い出してしまって、ムカつく。

 走行するバイクから片手撃ちの拳銃では、命中率はたかが知れている。

 それでも、桃山は念のためワゴン車を蛇行させていた。

 クラクションは鳴らし続けている。

 中華街にはちょっとしたパニックが起こりつつあった。

 唖然と見送る警察官の姿が見えた。この警察官は駐車違反の切符を切っているところだった。通り過ぎざま、張がその警察官を至近距離から撃つ。この警官は、腰に拳銃をぶら下げているのに、銃声を聞いてグリップに手をかけてもいなかった。

 バックミラーを一瞥して桃山が舌打ちをした。

「なんだ、あの男。頭がおかしいのか?」

 食材を運んでいるらしいトラックを際どく躱しながら、桃山が吐き捨てるように言った。

「私たちを、警察に渡したくないからじゃないの」

 床に置いたベビーブローニングを拾い上げて、私はそう答えた。

 優先順位が何かを見定めて、それを果たすために全力を傾ける。それが「兵士」だ。警察官が邪魔だと思えば躊躇なく撃つ。張がやったのはそれ。

 多分、私も張の立場になれば同じことをしただろう。

 桃山は多分出来ない。警察を介入させるのが不利だと分かっていても、常識が邪魔をする。私やホアンキムと、赤崎や桃山で決定的に違う点がそれだ。

 張がバイクの速度を上げる。

 私は、手だけをワゴン車の窓から出して、ベビーブローニングを撃った。いつもの癖で二発。ダブルタップ。

 同じ小口径の銃でも、ワルサーPPKがしっかりとした反動を手に残すのに対して、ベビーブローニングはあまり反動を感じない。

 まるで玩具の拳銃を撃っているみたいで、物足りないと思うのは私だけだろうか。

 私は、ベビーブローニングを撃つとき、どうせ当たらないから大まかな狙いしかつけなかった。近寄れば反撃するという意思表示なら、それで十分だし。

 張はバイクを傾けて射線から逃れた。

 私と張の視線が絡む。張の目は猟犬の目だった。獲物を見つけ、執拗に追う獣の目。

 見ているとなんだか苛立つ目つきなのは、私と正反対の素質だかかもしれない。

 私にはわかる。張の行動原理は怒りだ。自分が所属する組織に敵対する者に対する怒り。

 根っからの猟犬の根性が張には染みついている。

 私にはそれがない。

 怒りも沸かない。

 組織に対する忠誠も愛着もない。

 もしも、生きている人形があるのなら、それが私なのかもしれなかった。

 唯一、心の中にある『人』としての残滓は黒澤の存在だけ。

 私は、いつか黒澤を殺すだろう。私に残る最後の人間性が消えた時、黒澤を殺して私も死ぬ。その時、黒澤は永遠に私だけのものになるのだ。


 奇跡的に誰も轢かずに、中華街を抜ける。

 そのまま、海沿いの道を走った。

 この道は、休日ともなれば渋滞が恒常化している道だが、今日は比較的空いているようだ。

 張は一定の距離を保ちつつ、追跡をしている。

 この光景を目撃した警官を犬っころでも殺すように射殺して、通報を遅延させたとはいえ、警察もそろそろ動く頃だろう。

 張は、警察が来る前に我々を捕獲したいと思っている。

 それが出来ないなら、殺してもいいと考えているはずだ。

 港湾職業能力開発専門学校という、珍しい学校の横を過ぎる。ここは、港の貿易港としての役割を果たす突堤がいくつも並んでいる場所で、倉庫やコンテナが並ぶ一角だった。

 篠組が雇った人民解放軍崩れの傭兵に赤崎が襲われたのは、たしか、この近くだったと思う。

 張が仲間に位置を教え続けていたのだろう。私たちを追跡する車両が増えていた。目立たない国産の車だが、乗っているのは間違いなく物騒な連中。

 銃火器で武装しているはずだし、その扱いにも慣れているから、篠組の連中の様に簡単に片づけるのは難しいと思う。軍隊を相手にしていると思えば丁度いい。

 我々のワゴン車は、突堤の方に追い詰められている状況なので、果たして桃山がどうやってこの事態に決着をつける気なのか、気になるところだ。

「窓のカーテンをおろしてくれますかね」

 桃山は案外落ち着いた口調で言う。私は大人しく言われた通りにした。

 カーテンを下すということは、車内を見せないため。

 狙撃の心配をするなら、当然の処置ではある。

「一分間だけ、敵を足止めしてください。三脚にこれを縛り付けるといい」

 助手席の下を桃山が指差す。そこには防弾チョッキがあった。

「車のボディは、鋼板が埋め込まれていて、防弾仕様です。窓は普通の窓ですか ら、そいつを盾にしてください」

 工事中の三角コーンで囲ってある場所に桃山は車を停め、サイドブレーキを引いた。

 私は、言われた通りに三脚に防弾チョッキを巻き付け、それを窓の高さに合わせて立たせた。その後ろに、私はしゃがみこむ。

 まだワルサーPPKは抜かない。手に持ったままのベビーブローニングで応戦するつもりだ。ベビーブローニングが奪われたことは、追跡してきた者は知っている可能性がある。

 特徴ある小口径の拳銃の発射音があれば、私たちの武装はそれだけと思うかもしれない。

 予備のマガジンなどないのだから、七発撃てば弾切れ。弾切れを待って、突っ込んでくる迂闊な奴がいれば、今度はワルサーPPKで仕留める。

 こっちに武装がないと思わせる小細工だけど、やらないよりましじゃない?

 張のバイクの他に二台の乗用車が我々の後方二十メートル位に停車した。ドアが開き、トランクが開けられたのが見える。

 カラシニコフの愛称で知られる自動小銃がそこから取り出されて、男たちは無表情でそれを受け取っていた。

 軍隊のような訓練された動きだった。

 私の背後で桃山は、床のカーペットを剥がして何か作業をしていた。

「ねぇ、知ってる? 人民解放軍はさ、自動小銃のことを『歩槍』って言うんだって。銃剣を付けることが出来るからなの? 中国人は銃が槍に見えるの?」

 私が常に疑問に思っていることを、彼らの自動小銃を見て思い出したので、桃山にぶつけてみたのだけれど、返事はなかった。

 一回、舌打ちだけが聞こえたけど『人当たりのいい人物』を常に演じている桃山には珍しい。

 私は桃山のそんな反応を引き出せたことに満足して声を立てずに笑った。

 ああ……そういえば、演技ではなく笑ったのは本当に久しぶりだ。

 機嫌がよくなった私の前で、『歩槍』の受け取りを終え九人の男が散開する。 そして、警告もなくいきなり撃ってきたのだった。

 無数のハンマーで叩かれたかのように、連続した打撃音がワゴン車のボディから響き、跳弾の火花が散る。窓は爆ぜ割れて、カーテンは突風に煽られたかの様に暴れまわった。

 桃山が頭を抱えて床に伏せた。

 私は鋼板が嵌められている後部ハッチに背中を預けて身を低くしていた。タイヤが割れて、車体が傾く。ここが日本であることを忘れるくらいの、清々しいほどの集中砲火だ。銃声を気にする素振りすらない。

 日本の警察官は外国人犯罪者にナメられている。銃を携行していても撃ってこないから。

 平和なのはいいことだけど、価値観が違いすぎる者を相手にするには、全く頼りにならない。

「下手すると一分もたないかもよ」

 私がそう言うと、桃山は床から頭を上げ、

「そんなこと言わないで、頑張ってくださいよ。あ、それと、おパンツが丸見えです」

 ……と、珍しく額に汗を光らせた桃山が、珍しく軽口を叩く。

「見ないでよ。変態」

 私が毒づくと、へらへらと笑いながら、桃山は植木鉢にコードを繋げる作業を再開した。

 久しぶりの荒事の現場で、桃山は変なテンションだ。

 でもまぁ今の桃山は、嫌いではない。いつものスカした桃山よりずっといい。

 私は、後部ハッチの窓から手だけを出して、ベビーブローニングで撃つ。

 至近距離じゃないと当たらないのは分かっているので、単なる反抗の意思表示だ。


「近づけば撃つ」


 そのことを銃声に託して叫んだに過ぎない。

 私のそれに対する張たちの回答は、更なる打撃だった。恐怖ゆえなのか、桃山が鋭く息を吸い込んだのが、すこし痛快だった。

 もう一度、私はベビーブローニングで応戦する。これで、残り五発の弾は撃ち尽くした。

 床に、小さな玩具みたいな拳銃を投げ捨て、ポケットからワルサーPPKを抜く。まるで、頼りになる相棒に、ポンと肩を叩かれたかのような安心感。

 誰にも負けないような不思議な精神の高揚。

 あるべきものが、あるべき場所にカチッと収まった感覚。

 この愛用のワルサーPPKではないと感じることができない瞬間だった。

 黒澤にもらった、この銃でないと駄目なのだ。

「弾切れだろ? 三秒やるから出てこい」

 張の声がする。やはり彼は、私が何発撃ったのか数えていたらしい。

 ここは、平和な日本。銃の入手は難しい。私をピックアップに来た車に、新しい銃が積んであるという可能性を、張は軽視していた。

「お前が来い、張。さもないとお前の薄汚い母親を犬に犯させてやる」

 私は中国語でそう叫んだ。これは、中国では典型的な侮蔑の言葉で、これを言われた者は男女問わず激怒する。

 肉親を大事にする傾向にある中国人には耐えられない言葉なのだろう。案の定、怒号が上がった。

 黒星を構えて、張が遮蔽物の陰から出たのが気配で分かった。誰かが張を止めようとしていたけど、彼はそれを無視した。

 声の方向。

 アスファルトを踏む足音とその向き。

 私の頭の中に構築された、この近辺の3D映像に張の移動する姿が投影された。

 張の黒星トカレフを含め、九つの銃口がこっちを向いている。


 『頭を出して、撃って、頭を引っ込める』


 その動作を素早くやらないと、危険だった。

 聞くに堪えない侮蔑語を喚き散らしながら、張が歩いてくる。私の手足を切り落として、性交用の奴隷にするとかなんとわめいていた。下品ね。

 遮蔽物から出た彼は、どうせ反撃はないとタカをくくっているのだろう。平和な日本にいると、人民解放軍崩れの飢狼のような中国人も平和ボケするのだろうか?

 飼い慣らされた羊みたいな日本人ばかりを見ているうちに、侮る癖がついてしまうのだろうか?

 日本には銃器が出回っていない。銃器を自在に扱えるのは自分たちばかりであると思い込みが、彼らにはある。そして、優越感を感じている。この調子で、日本のヤクザはやられた。だから、私たちの様な暴力の専門家が出来たのだ。

 車体の陰から顔を出す。

 八つの『歩槍』が、構えられる金属音が聞こえたような気がした。

 怒気で膨れ上がった張の顔が見える。張は、初めから私をスパイだと疑っていた。

 だから、丹念に裏をとった。執拗にテストも繰り返し、神経を摩耗させるために緊張を強いる場所に異動させたりもした。

 そこまでしても、私の尻尾を掴むことが出来なかったのは屈辱だっただろう。

 そんな私に母親を侮蔑されたのだ。

 神経戦は、仕掛けた本人をも蝕む。張の大胆とも乱暴とも思える行動は、それで、張の緊張の糸が切れたとしか思えない。

 篠組が差し向けた傭兵部隊の男もそうだったけど、どうも、人民解放軍崩れは感情の抑えが苦手なようだ。一人っ子政策によって、大事に育てられすぎて『小皇帝』と揶揄されるほど甘やかされた世代であることと無関係ではないのかもしれない。

 もっとも、そうしたメンタル面では、日本人でもあまり変わらないけど。

 ダブルタップでワルサーPPKを撃つ。

 張の端正な顔がひしゃげて爆ぜる。

 私のワルサーPPKから放たれた32ACP弾は、二発とも張の顔に当たっていた。

 張が地面に倒れるより早く、八丁もの『歩槍』の反撃があった。

 私は既にハッチの後ろに隠れている。

「お待たせしました」

 桃山が言う。びっしりと浮かんだ額の汗を乱暴に袖で拭いながら。

 そして、私にガスマスクと軟膏のチューブ、それに小型のマグライトを差し出す。軟膏はヴィックスヴェポラッブで、これは揮発性の有効成分を鼻や口で吸いこむタイプの薬だ。

「こいつは鼻の下に塗ってください。そのうえでマスクをしてください」

 そういって、カーペットを剥がした車の床に取り付けてあるノブを引っ張った。

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