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脱出行

 ワルサーPPKを撃ち、そして殺す仕事は私に向いているらしいけれど、案外こうした忍耐が必要とされ、緊張を持続させなくてはならない仕事も向いているらしい。

 私は部屋に戻ると、まずシャワーを浴びる。

 皮膚にも髪にも、べっとりと焼けた油の匂いがついてしまっているから。

 実は、私はその匂いが別に気にならないけど、私が演じている福建省出身の若い女の子なら、油の匂いを嫌って、すぐに体と髪を洗うだろう。だからそうしている。

 そして部屋着に着替えると、ノートパソコンを広げる。私が持ち込んだモバイルPCは没収され、代わりに支給されたのがこのPCだった。

 内部の情報がリークされるのを防ぐ意味があり、従業員の行動を監視するという意味もある。つまり、このPCには既にバックドアが用意されており、いつでもセキュリティ担当の者が私のメールなどの内容や、使用履歴をのぞき見することが出来るというわけ。

 内部粛清は、度々発生しているらしく、ある日突然厨房から姿を消した従業員もいる。そして、昨日まで親しく言葉を交わしていた他の従業員は、判で押したかのように、その人物が居なくなったことを話題にしない。

 文字通り、ふっつりと消えてしまったその人物が初めからいなかったかの様に。

 本国では、軍閥を背景にした組織と、この店の母体である老舗の黄金三角形ゴールデントライアングルを背景にした組織とが鎬を削っているらしく、潜り込んでくるスパイは多い。

 だから、防諜のレベルが高くなっているのだ。消えてしまった人の中には冤罪もあっただろうけど、ここでの裁判はスピーディで迷いがない。そして判決内容は一種類しかない。つまり疑われた時点で終わりということ。

 私は、その中で、監視の目をごまかし情報を電子メールの形で送信する。送り先は、福建省にいる私が演じている人物の友人という設定の若い女性。

 送り先のアドレスも調べられるだろうから、小細工はしない。実在の人物だ。

 その人物は、とても幸運なことに、とある企業のプレゼントの抽選でノートPCが当選した人物。

 もちろん「とある企業」は、架空の企業。

 黒澤とウィザードが作ったダミー会社だった。

 そのノートPCには、ウィザードが仕掛けたバックドアがあり、遠隔操作ができるようになっている。

 私が普通の他愛のない文章をそのPCに送ると、ウィザードがその情報を遠隔操作で抜き出し、翻訳する。そうやって、データの交換をしているのだった。

 暗号は共通の本を使う。一週間毎に決められた小説の特定のページの何行目何文字目を見るのか、文章に混ぜる方法だ。

 単純で原始的だが、鍵となる小説のタイトルがわからないとどんな優秀な暗号解読機でも解くことは出来ない。

 当然、私の送ったメールも、友人から届くメールも、コピーされて分析班に回されているだろうけど、今のところ私が疑われている様子はないみたい。

 このまま、私が監視から離れてくれるといいのだけれど、新入りはすべからく監視対象だし油断しないようにしなければ。

 まかないの飯がうまいのは、役得だけどね。


 状況を分析するのは私の仕事ではないけれど、情報を送り続けていると見えてくるものがある。

 黒澤が狙っているのは、混乱。

 敵対する二つの組織があり、警戒を強めているのなら、互いの心に疑心暗鬼を育ててやればいい。

 いちはやく日本に足場を作っていたのは黄金三角形を背景にした黒社会だけど、その足場を揺すり、出来れば破壊してしまいたいと、黒澤は思っていることが分かる。

 だから、日本に古くからいて、日本の情報に精通している人物を集中的に罠に嵌めようとしているのだ。

 あたかも警察庁公安部に買収されているかのような状況を作ったり、特定の幹部しか知らないはずの情報をわざとリークしたり、そんな情報戦を展開している。

 日本の事情に精通している人物を潰せば、そのまま日本の足場の弱体化につながるという効果もある。

 どちらかというと、物事へのこだわりがあっさりしている黒澤にしては、執拗だった。

 黒澤には似合わない妄執を感じる。

 篠組を、文字通り「消滅」させて、我々と敵対することのリスクの大きさは示威できたと思う。つまり、大義名分は果たした。

 我々の様な正体不明の暴力組織は、日本進出を確実なものにしたい黒社会にしては、目障りな存在だとは思うけど、まだ全面戦争するには至っていない。

 巨大な組織である彼らにとって、我々は小さすぎて相手にする価値すらないと思われている状態だ。

 だがこうして、アブの様に五月蠅くぶんぶんと飛び回られれば、払い落としたくなるのも道理で、赤崎の懸念はそこにある。

 私は、実はそんなことはどうでもいいと思っている。

 黒澤に「ウワサを拾い集めて送れ」と言われたので送っているだけ。

 自分が危険な場所にいるのは承知しているし、それが怖いとも思わない。

 人はしぶとくてなかなか死なない事もあるし、人はサクリ、ホロリと簡単に死ぬこともある。

 私は一度、バラバラに分解されて、再構築された人形。死への憧憬と生への妄執が常にせめぎ合う不安定な分子のようなもの。

 私の執着は、地獄から救ってくれて、生と死両方の象徴となった黒澤そのものであり、他にはあまり興味がわかない。

 だから、神経をすり減らす敵の組織への潜入も平気だ。ワルサーPPKを手に出来ないのは寂しいのだけれど。


 新入りは疑われる。もともと非合法な組織による日本の橋頭堡の役割をする施設なのだ。

 敵は、日本の公安はもちろん、ヤクザも機会があれば牙をむく。中国人同士でも、所属する派閥が違えば敵だ。渋々場所を提供してくれた中華街の華僑集団だって、味方とは言えない。

 だから、私の様な末端仕事の応募者でも、徹底的に身元を洗われるし、内部で監視を担当する警備係りもいる。

 スパイを洗い出す内部監査員があちこちの職場に潜り込んでいるのだった。

 私の職場にも内部監査員らしき男が居て、そいつは職場の人気者であるチャンだと確信している。

 その張は、私を密偵だと疑っていていて、その確証を得るために様々に仕掛けをしてくる。

 勘がいい男は、こうした世界では重宝される。だから張も、内部監査の分野では優秀な部類に入るのであろう。私をターゲットに定めたのだから。

 私は、ボロを出さない。

 なぜなら恐れていないから。

 なぜなら余計な事を考えないから。

 黒澤が命じた。私は従う。それだけのこと。

 私からの情報を受け取った黒澤は、それを分析する。私をスパイと特定するためにわざと流された偽の情報も、その中には混ざっているだろう。

 それを丹念に選り分け、確度の高い情報を採用し蓄積する。それは黒澤が行うべき闘いで、それをミスすれば私が死ぬ。その時は、黒澤と私の結末がそういうことになったということで、それはそれで仕方ないと考えている私がいる。

 出来ればワルサーPPKを握って死にたいと思うけれど、思い通りにいかないのも運命というものだ。

 この世界に神様なんかいない。こんがらがった未来と過去を紡ぐ糸があるだけ。その糸がどこに繫がっているかなんて、私にはわかるはずもない。

 この世界に神様なんかいない。三年前のあの日、私は何度も何度もそいつに助けを乞うたけれど、結局私を助けてくれたのは黒澤という一人の男だった。

 この世界に神様なんていない。慈悲なんてない。

 だから私は祈らない。

 だから私は夢なんて見ない。

 無駄だから。


 ある日のことだ。異例だが、洗い場から私は接客係りに抜擢された。

 接客係りは、情報に接する機会が多いので、密偵には良いポジションだが、同時に抜擢されたのが張だということを考えれば、監視が強化されたと考えられなくもない。

 だけど、肉体的には、かなり楽になった。

 洗い場では、前かがみの姿勢をとってばかりいたので、慢性的に背中の筋肉が痛かったのだ。肩も凝った。化粧をしなくていいのは、楽だったけれど、接客係りになったらそうもいかない。

 最初はわざと野暮ったく化粧をし、先輩にメイクを直され徐々に薄化粧になる態を装う。

 私は福建省の田舎から出てきた女の子という設定なのだから、ろくに化粧の仕方も知らないという演技は必要だった。

 制服も変わった。洗い場に居た頃は、野暮ったい白衣だったけれど、金糸や銀糸で美しく刺繍されたチャイナドレスになった。肌触りからすると、絹。

 スリットは深く、腰の近くまで切れ上がっている。裾は極端に短い。すこし屈んだだけで下着が見えてしまうのは、仕様らしく、着用する下着も支給されることになった。

 いわゆる、高級ランジェリーといやつだ。見せるための下着。

 私は、恥ずかしがって、裾を下に引っ張る。スリットが開かない様に、手で押さえる。もちろん、演技だ。私は純朴な田舎娘なのだから、それらしく振舞わないと。

「見違えたなぁ。すごい美人じゃないか。それに、すごくスタイルがいい」

 張がメイクを終えた私に言う。

「化粧すれば、誰でもそうなるわよ。それより、この裾、短すぎない?」

 うれしそうに、そしてはにかみながら、私は言う。これも、演技。

「ちょっと、エッチな制服だけど、見た目も接客係りの仕事だからね。じきになれるよ」

 慰めるように、張が言う。だけど、ねっとりと私の体中を這う視線に、コイツの下司な本性が仄見えた。

 幹部クラスと思しき連中の会合は多かった。本国の経済状況の混乱や、目下、敵対中の軍閥を背景にした新興の黒社会との抗争で、処理すべき案件が多く発生するのだろう。

 私は拾い集めた情報を黒澤に送り続ける。

 手元に届いた膨大な資料を黒澤はどうしているのだろう。以前は青木がその手伝いをしていたけれど、今は黒澤一人でやっているのだろうか?


 私が、この店で働き始めて半年、接客係りになって四ヶ月が過ぎた頃この店に桃山が来た。当然のことだが、客としてではない。

 観葉植物の納入スタッフの一人としてだ。

 私は、客室に業者を誘導する役目を仰せつかったのだった。

「いやぁ、目のやり場に困る服装ですね。似合ってますけど。さて、もう、ここはまずい。逃げますよ」

 私と並んで歩きながら桃山が言う。観葉植物を抱え持ち、巧みに葉で口元を隠しながら。

 私は俯いて、監視カメラから顔をそむけて答える。監視カメラの位置はすべて頭に入っていた。

「どうやって?」

 桃山は観葉植物の鉢を床に置き、

「受け取りにサインを頂きたいんで、一緒に来ていただけますか?」

 と言った。これが答えだろう。

 私は、桃山について地下の駐車場まで行く。

 観葉植物を積んだ白いワゴン車が駐車してある。納入業者も徹底的に身元を洗われる。

 それでやっと出入りが許されるのだが、どうやって桃山が潜り込めたのか不思議だ。

 違和感。それを覚える。

 かなり前から、周到に準備をしていないと、ここまで出来ない。

 黒澤には特定の目標があり、私たちはそれに利用されているだけ……という、緋村の言葉が脳裏をよぎる。

 私は、黒澤が特定の目的を持っているのならそれでいいと思っているし、黒澤がやれと言うならどんなことでもやる。

 こんな危険な場所で、こんな卑猥な服を着て、いやらしい男どもの視線にさらされても構わない。

 人殺しだって平気だ。私は人を殺めても心が痛まないのだから。

でも、嘘はついてほしくない。私と黒澤の間には、不純物が入り込んでほしくない。

 『志』とか『信念』とか、そんなものは邪魔でしかない。

 ばったりと、先輩の接客係りに出くわした。化粧を指導してくれた女性で、彼女はふるいつきたくなるような美人だった。

 配膳の準備らしく、銀の食器を乗せたワゴンを押している。

「あら、あなた。張があなたを捜していたわよ」

 桃山が私を見る。私も桃山を見た。あまりよくない事態だ。桃山の偽装が発覚したか、桃山が「まずい」といっていた事態が進行したかのどちらか。

 私は咄嗟に銀食器の中から果物ナイフを掴みとって、接客係の喉を突いた。

 それを掌底でグイッと押し込む。


 ……虎落笛もがりぶえ……


 灰谷がそう言っていた音が先輩接客係の喉から漏れる。ゴトンとその接客係の女性の手から落ちたのは、ベビーブローニングと呼ばれる古い小型拳銃で、ワルサーPPKよりさらに小さい拳銃だ。

 接客係は、そのほとんどが内部監視員だと思っていたけれど、その通りだったみたい。

 彼女は、ワゴンの下でこの銃を構えていた。油断させて私と桃山を撃つつもりだったようだ。

 けっこう際どいタイミングだった。一瞬でも躊躇していたら、桃山か私は撃たれていた。私はその拳銃を拾い上げて、作動を確認する。

 第二次世界大戦中の使われていた様な古い拳銃だけど、普通に使えそうだった。口径は25口径。これだけ小さい銃だと至近距離じゃないと当たらないけど丸腰よりはマシだ。


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