潜入
清掃会社のものに擬装したワゴン車に乗って、黒澤が連絡を入れていたのは魔法使だった。
ウィザードは、黒澤との打ち合わせ通り、過激派を装って警視庁に連絡を入れ、私たちが死体の山を築いたビルを爆破する旨、犯行声明を出しているはず。
同時に『2チャンネル』などに情報をリークしている。
野次馬が『ヤクザビル』周辺に集まるだろう。
動画で、その様子をアップしようとする奴は必ず出てくる。
警察がマスコミに報道規制を敷いても、今は無駄だった。リアルタイムで情報は駆け抜けてゆく。
「もう、スレッドがいくつか立ったわよ」
ウィザードから連絡があった。
私はノートパソコンを立ち上げ、教えられたサイトを開く。
「池袋オワタ。テロリストから爆破予告」
というスレッドだった。
「オワタってなに?」
書き込みされた記事を読みながら、意味がわからなかった部分を黒澤に聞く。
「終了したって意味じゃないの?」
ならば、終了したと書けばいいのに。
まぁ、これは、共通の言い回しや符丁を用いることによって、見ず知らずの者同士でも連帯感を持とうという試みなのだろう。それは一つのコミュニケーション術の方法ではあるけれど。
「いたずら電話と勘違いしないように、信管とC4の破片を警視庁に郵送しておいたからな。今頃は大騒ぎだろうぜ」
黒澤の言うとおり、動画サイトには今まで私たちが居た篠組のビルが次々とアップされてゆく。
その動画は、警察が到着し、周囲に立ち入り禁止区域を作る様子がライブ映像で映し出されていた。
こいつらみたいな野次馬がいれば、観測員は要らないってことね。
両隣のマンションとビルは避難勧告が出て、続々と住民や従業員が出てきていた。
ネット上でテロリストによる犯行という事が既に流布されてしまっているので、「不発弾」や「ガス漏れ」などといってごまかすことが出来ないようで、警察の正式発表も正体不明のテロ組織によるものとされているようだった。
世界一安全な国という評判を守ってきた警察としては、苦渋の選択だろう。
「馬鹿みたい。まるで、お祭りね」
ネット上では、次々と新しいスレッドが立ち、野次馬根性丸出しの書き込みがなされてゆく。
薄皮一枚剥げば、安全安心など幻想に過ぎないと知っている私は、こうした人々が滑稽に思えてならない。
他人事なのだ。自分には決して降りかからない事だと思っている。三年前の私がそうであったように。
「避難誘導は終わったみたいだな」
動画サイトを覗き込んで、黒澤が言う。
「それじゃ、篠組には消えてもらおう」
プリペイド式の携帯電話の短縮番号を黒澤がプッシュする。
動画サイトの画面上で、篠組の細いビルが揺れた。たちまち、画面上に書き込める文字で、画面が埋め尽くされた。『W』の文字が連続して書き込まれていた。『ヤクザビル、ざまぁ』という書き込みもあった。
黒澤は舌打ちして、文字を非表示にする。画面が良く見えないのだ。
断続的に轟音は続き、積木のお城がくしゃりと潰れる様にビルが崩壊する。
土煙が上がる。野次馬が悲鳴を上げながら走る。ライブ映像の投稿者も走っているようで画面が乱れた。
瓦礫が飛散しないように、計算された爆破を黒澤は行ったらしい。
ビルの解体工事なんかでよくやるやつ。
黒澤にそんな特技があったなんて、私は今日初めて知った。いろいろ引き出しがある男だ。そして、本拠地を跡形もなく解体されたことで、篠組の面子も潰れた。解体ショーよろしく公開処刑されたのだ。ごまかしようがない。
金と紫が狙っている篠塚にも何らかの動きがあるはずだ。
安全な巣穴から出た時が、篠塚の最後になるだろう。狙撃手に狙われるということはそういうこと。
「いこうか」
ノートパソコンを閉じ、プリペイドの携帯電話をへし折って投げ捨てて、黒澤がワゴン車のエンジンをかける。
上空には、おっとり刀で駆け付けたマスコミのヘリコプターが飛んでいた。
中国語が飛び交っていた。
黒光りして使い込まれた中華鍋が、炎の上で踊る。
長葱を木の切り株のようなまな板での上で大量に切り刻む音がまるで自動小銃の斉射音の様に響く。
誰もが汗をかいていた。外が冬であるのが、にわかには信じ難いほど。
私は、シンクにたっぷり貯められた洗剤入りの水で、大まかに油汚れを取り、本格的に皿を洗う隣のシンクに運ぶ役目をしていた。
厨房の中にもしも身分階級があるのなら、私の仕事はド底辺の仕事。
三人いる私の同僚は手が荒れると嘆いていたが、不思議と私の手は荒れなかった。特にクリームで手入れしたわけではないのだけれど。
「はいよ」
また、大量の皿が運び込まれてきた。今日は、宴会が三件も入っているので特に忙しい。スポンジで油汚れを拭って、シンクに沈める。
シンクがいっぱいになると、そこから皿を取り出して、ざっと水洗いをして、きれいに洗う工程を担当する者に渡す。
延々と、それを繰り返す。
単調で辛い作業らしいのだけれど、私は苦にならない。自分を愛していないから。だから、頭をからっぽにして作業を反復する事が平気なのだと思う。
ここは、日本でも有名な中華街の一つにある比較的大型の店。
日本人観光客は全く来ない。
日本にいる中国人が、会合や交歓に使う店だ。
中華街の中では有名なのに、なぜ日本人観光客がこないのか?
理由は単純。外部に宣伝をしていないため。
バスツアーを企画するような旅行会社にまったく接触をしていない。
この店の実態は、大陸の黒社会が出資した日本の拠点の一つで、本来、中華街を仕切っている華僑の長老会がこうしたイメージダウンにつながる出店は拒否するのだけれど、強引な手法で脅かされたりして、渋々受け入れたという経緯があるらしい。
交換条件は、何が起こっても中華街内部で処理できるように、身内以外に使わせない事。観光客が逃げてしまうのは、中華街にとっては致命的だ。
だから、安全のため、日本人観光客は占め締め出されているのだった。
黒社会側は、日本に橋頭堡を作るのが目的で、儲けを考えていないので、その条件を飲んだという。
非公式な黒社会専用の大使館。そう思ってくれればいいかもしれない。
平和ボケした日本の大使館などより、よっぽど警戒は厳重で、従業員は徹底的に経歴を洗われる。
私も実在の人物で既に死亡している同世代の女の経歴を騙り、応募したのだった。
言葉の心配はなかった。
中国語はスラングや発音に至るまで完璧だから。
私の身体のリハビリと軍事教練を担当してくれたのが中国の退役軍人で、言葉も教えてくれたのだ。
おかげで、公用語と言われる北京語は勿論、広東語、上海語、台湾語、福建語の発音も完璧に真似できるようになっていた。
今回、私が演じる女は福建省出身の女なので、福建語なまりの北京語を使っている。
たまに、同郷だという者が話しかけてくる。
私が出身地であると騙っている場所の風景などを聞いてくるのだ。
もちろん、これは、故郷を懐かしがってのことではない。
抜き打ちでスパイかどうかを調べているのだ。
ここは、敵対組織がスパイを送り込んでくるのは日常茶飯事の世界なのだから。
本当に私は福建省出身の女なのか? と思えるほど、徹底的にデータを頭に叩き込んだ結果、何度かの抜き打ちテストに合格したらしく、試されるようなことは、ここに来て二週間が経過した現在、なくなった。
油断させて、ある日突然……というのは、権謀詐術の歴史が長い中国人なら、いかにもやりそうだけどね。
慣れないのは、ワルサーPPKを常時持てない事。なんだか、無防備になった気がして、落ち着かない。
私は不法入国してきたという設定なので、寮をあてがわれているのだけれど、 私の留守中に荷物を探られただろうし、多分部屋には盗聴器も監視カメラも仕込まれているはず。
だから、やむなくワルサーPPKは置いてきたのだが、体の一部を引き裂かれたかのように辛いし、恋しい。
実は、潜入に関して、私の組織内では悶着があった。
篠組は本拠地の建物が崩壊し、殆どの構成員が死亡。別荘地に隠れていた篠塚は、海外に逃亡を企てたけれど、移動の途中で交通事故に遭い、炎上する車の中で焼け死んでしまった。
これをもって、組織に対する攻撃への報復を終わると思っていた赤崎と、篠組へ我々の組織への攻撃を依頼した元請をも標的にすると言った黒澤が対立したのだった。
赤崎は、
『我々と敵対するとリスクが大きい』
……ということを充分示せたので、これで終わりにすべきだと言った。
私も、それには同感だった。口には出さなかったけど、灰谷も同じ意見だったと思う。
白井先生と桃山は何を考えているかよくわからないけど。
だけど、黒澤は頑なだった。なぜ、ある黒社会が依頼元と判明したのかネタ元を明かさなかったけど、そこを叩くことを強硬に主張したのだった。
日本のヤクザを相手にするのと、日本に進出してきている黒社会を相手にするのとでは、危険度のレベルが違う。
リスクを避けるという、本来の黒澤の行動規範とは明らかに異なる判断だった。
その違和感は、赤崎らも感じていて、危惧を抱いているらしかった。
最終的には黒澤が押し切る形で作戦に着手することになったけど、私の心に小さなしこりを作ったのは確かだ。
「何か意図がある」
そう主張していたのは瓦礫の中から焼死体の一つとして発見された緋村が言っていた言葉だった。
緋村の言葉は、ちりばめられたピースの一つ。
それらピースを組み合わせると、どんな絵が完成するのか、私は知りたくない。
それは、私と黒澤の関係が終わる原因になるのかもしれないから。
まだ、私は黒澤に執着しているのだから。
私の同僚に張という名の男がいる。
私と同じく厨房に勤務している男だ。
きれいな北京語を話すところから見ると、農村部の出身ではなく都心部の人間なのだろう。
日本では想像もつかないが、農村部と都会は、かの国では生活水準も教育水準は天と地ほども違う。
そういう意味で、底辺の仕事とされる厨房の洗い場のような場所にいるのが不思議な男なのだが、妙に人懐こいところがあり、厨房の中でも人気者なのだった。
中国人はビジネスライクであると言われているが、それはその通りだと思う。
しかし、一度心を許すと案外友情を大事にするところがあり、張はそういった彼らの民族固有の関係を作る才能があるみたいだった。
その張がやたらと私に話しかけてくる。なにかと面倒を見たがる。
同僚の女性などは、嫉妬混じりに
「あなたの事が好きなんじゃない?」
などと言ってくるが、私は面倒だなとしか思わなかった。
張は、見ていると、なんだか桃山を思い出させる。
人当たりはいい。
見てくれもいい。
何事も卒なくこなし、それを鼻にかけることもない。
でも、私から見ると、全てが演技のように見えるのだ。
私は、決定的な理由もなく桃山が苦手で、それと同種の煩わしさを張に感じてしまう。
私は今、敵地のまっただ中にいる。油断は禁物だ。
ここでの私の味方は、敵を察知する嗅覚だけ。その嗅覚が張を要注意と断ずるならば、私はその声に従うのみだ。
「しばらくは忙しくなるよ」
秘密めかして、張が言う。
厨房の下級スタッフが集まる休憩室でのことだ。
調理担当の上級スタッフは、タバコを吸わない。料理にタバコの匂いが移ってしまうから。対して、下級スタッフはよくタバコを吸う。
だから、この休憩室は換気扇を回していないと、タバコの煙で霧がかかったようになってしまう。
「大物が来日するんだってさ。接客係から聞いたんだよ」
下級スタッフにはそうした情報が入らない。
だから、張のようにどこからか情報を仕入れてくる者は重宝がられる。
私は、こうした噂話を玉か石か分からないまま黒澤に報告する。
玉石混交のデータの選別は私の役目ではない。黒澤の役目だ。私は聞いていないふりをして耳を澄まし、情報をキャッチする。




