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震える手

 何度も何度も図面を頭に描く。一つも余すことなく、動きを撮影する。

 普通の人間なら投げ出したくなるような延々と続くこんな単調な作業も、私は全く苦にならない。

 あの日、毀れてしまった私は、私自身を愛していないのだから。自己憐憫の感情が全く無いのだ。

 ファインダーを覗く。望遠レンズに映ったのは、久しぶりに見る緋村の姿だった。

 緋村は、頬がげっそりと落ち、脅えたような目をしていた。


 『無理やり巣穴から引きずりだされた薄汚いネズミ』


 そんな言葉が私の頭に浮かぶ。

 緋村を見つけたことを、黒澤に連絡を入れる。

 我々に罠を仕掛けた張本人が緋村だ。青木を拷問にかけたのもこいつだろう。

 私は青木には特別な思い入れはないけれど、黒澤が作り上げた仕組みを壊そうとしたことは許せない。断じて許せない。

 当然、黒澤も同じ気持ちだろうと思ったのだ。

 何なら、このまま緋村を待ち伏せして捕獲するのも厭わないつもりだった。

 しかし、黒澤の返答はあっさりしたものだった。

「ああ緋村ね。ほっといていいよ。緋村の背後関係の方が大事だったのだけど、殆どわかっちゃったからね。俺たちがやらなくても、緋村は奴の雇い主に責任をとらされる。いずれにせよ、彼奴は『詰み』さ」

 白井さんの影響で、黒澤はたまに将棋用語を使う。

 私は将棋が下手くそだけど、白井さんの相手をさせられるので、多少の用語は分かる。『詰み』の意味するところも。

「そう。じゃあ、見張っていなくていいのね?」

 私は念を押す。

 緋村を殺したかった。弾丸を撃ち込みたかった。黒澤に牙を剥く者は皆殺しにしてやりたい。


「紫と金が配置についたそうだ。明日、篠組を襲う。全部壊してしまおう。割って、砕いて、潰して、散らせてしまおう」


 携帯電話からでも、黒澤の暗い情念の炎の匂いがする。

 私の背中にゾクゾクと電気が走る。

「そうね。みんな殺そう」

 ああ喉がかわく。私の中の雌が黒澤を求めて鳴いている。

 だから、喉がかわく。声が掠れる。

「ああ、みんな殺す。もしも緋村に運命が味方するなら、明日あいつは事務所にいない。居たら、有象無象といっしょくたに殺す」


 『明日、緋村が事務所に残っていますように』


 そう祈りつつ、私は監視場所から撤収した。

 計画を練り、実行に移す。そこにはなぜか、昂揚感とともに一抹の寂しさを感じる。作戦行動も何もない時間は、私は虚ろな抜け殻。私は抜け殻に戻るのが寂しい。

 だから、私が黒澤以外に執着を感じているのは、企画し立案し実行するという今の生活。殺すという仕事。殺されるかもしれないという緊張感。

 どこまで、危険に踏み込めば死が私をからめとるのか、その境界を見てみたい。

 それは、誰よりも死に近い場所を見た私に憑いた呪詛。ふと、苦労して見つけた監視場所を振り返る。そこには、まだ私の体温が残っているようだった。

 否、それは私の執着なのかもしれない。


 黒澤と私が潜伏する巣穴で、ワルサーPPKのマガジンに7発目の32ACP弾を詰めていると、私の気分は高揚してきた。

 普段は、マガジン内の発条に負担をかけないために7発入るマガジンに6発しか入れていないのだけれども、いよいよ襲撃を実施する段になると、私は私のワルサーPPKを、薬室に1発・マガジンに7発という状態にしてセーフティをかける。

 これは、オフの状態から戦闘状態へと心身を切り替えるための儀式のようなもの。

「翠が鼻歌なんか、珍しいなぁ」

 隣のマンションから篠組のビルの屋上に降下するためのザイルやハーネスを点検しながら、黒澤が言った。

「それ、知っているぜ。○○だろ」

 若い女の子に人気のあるアイドルグループの名前を黒澤は言った。

 私が、あいつらに拉致られて監禁され凌辱しつくされる前、世界は花が咲き乱れていて安全で優しくて怖いものなど何もないと信じていた頃の私が、ファンだったグループの名前だ。

 今では、好きでも嫌いでもない。そもそも音楽はあまり興味がなくなってしまっている。

 ふと、フレーズが浮かんだだけ。いわば記憶の残滓のようなものだ。

「ちょっと、耳に残っていただけよ。好きでも嫌いでもないわ。」

 マガジンをはめたワルサーPPKをホルスターに収めて、テーブルに置いた。

 その隣に装弾済のマガジンを4つ並べる。

 ピザの箱。

 ピザ屋の制服。

 ダクトテープ。

 スローイングナイフを2本。

 小型のモバイルPC。

 これらもテーブルの上に並べる。

 手に馴染んだマキリは、後で研ぎをいれておこう。

 あやうく、また鼻歌が出るところだった。

 黒澤に指摘されるまで、自分の癖が鼻歌とはわからなかったけれど、毀れてしまう前の私の癖が今も残っているのだろうか。

 今日は、好きなパスタを食べ、ぐっすりと眠らなければならない。

 明日はいっぱい殺さないといけないから、最高のコンディションで臨みたい。

 いつも私の眠りは浅く、たいがいは悪夢にうなされるのだけれど、今夜は深く眠れそうだった。ナイトキャップにラムを一杯だけひっかけるのもいい。

 ああ、それはとてもいい考えだ。


 黒澤と潜伏している巣穴は、窓がふさがれて陽も差さないけれど、私は朝の気配だということが分かった。

 いよいよ仕事に取り掛かるという時、普段はまるっきり鈍麻している私の感覚はカミソリのように鋭くなる。

 人間は麻痺してしまった野生の本能を、どこかに隠しているそうだけど、私の正確な体内時計や鋭敏な五感はそれに近いのかも知れない。

 壁に貼られていた模造紙は全て撤去されていたが、データは全て私の頭の中にある。

 黒澤との段取りも確認済だ。

 私の役割はシンプル。


『強襲による陽動』


 正面から攻め入って、暴れるだけ暴れる。

 目につく者は皆、殺す。

 警備の目を引き付けるのが私の役割。

 まったくもって、私向きの役割だった。

 黒澤のプランニングは、紫の様に緻密ではなくむしろシンプルなのだけど、私にはその方がやりやすい。

「緋村が居たら、生け捕る?」

 やっと起き上がり、強いくせ毛を手指で梳きながらハイライトを咥える黒澤に確認をとる。

「その他大勢と変わらんよ。翠の好きにしていい」

 朝日が差し込まない、暗い巣穴にマッチの火がともる。

 ハイライトのいがらっぽい紫煙がたなびく。

「いつもそのタバコね」

 私は、ピザ屋の派手な制服に着替えながら言う。スクーターに乗るというのに、ちょっと屈んだだけでパンツが見えてしまう様な、短いスカートだった。

 これは、こにピザ屋のサービスの一環? だとしたら、下司ね。

 黒澤は、他人にあまり興味を示さない私が、個人の嗜好に言及したのが珍しかったのか、左の眉を上げた。

 驚いた時の、彼の癖だ。

「俺の恩人が、こいつを吸っていてね。真似して吸っているうちに、なんとなく……な」

 折り畳みの簡易ベッドに腰掛けて、黒澤が伸びをする。

 バキバキと骨が鳴る音が私にまで聞こえた。

「恩人って?」

 ダクトテープで、ピザの箱の中にボンレスハムの塊ほどもある、業務用瞬間接着剤のチューブを固定する。

 作業を進めながら、私は我ながら今日は口数が多いと思っていた。

 多分、黒澤もそう思っているだろう。彼は意外と紳士なので、顔には出さないけれど。

「人間のクズだったよ。そして、負け犬さ」

 過去形で言った。

 だから、私でもその人がすでに死んでいることが分かった。

「逃げて逃げて逃げて逃げ回って、挙句の果てに疲れ切って死んじまった男だよ」

 黒澤が吐き捨てるように言う。

 でも私には分かる。私だから分かる。黒澤はその男が好きだったのだ。憧れていたのだ。だから、死んでしまったことに黒澤は怒っている。悲しんでいる。悔やんでいる。


 ――― だめだ! ―――


 黄ですら崩せない黒澤のガードが崩れかけている。

 そんな黒澤を知ってしまうと、いつかこの男を殺そうとするとき、私は躊躇ってしまう。

抱きしめてしまいたくなる。


 ――― だめだ! だめだ! だめだ! ―――


 イタリアの国旗を模した、派手なピザ屋の制服の下に隠れている、ワルサーPPKのグリップに指を這わす。

 私の力の源泉。勇気を奮い起こす私の剣。黒澤との絆の証。

 

 抜く? 撃つ? 


 血まみれの黒澤を抱きしめたら、どんな気分だろう?

 黒澤の温かい血をすすり、肉を食いちぎって、全てを私のものに出来たら、私はそんな気分になるだろうか?


 だけど …… 抜けなかった。


 もしも、ワルサーPPKを抜いたとき、私は黒澤を撃てただろうか?

 それはもう今となっては分からない。

 案外、あっさりと撃てたかも知れないし、そうでないかも知れない。

 迷いがあるうちは、黒澤を殺す時期ではないのは確かなことだ。

「準備はいいか?」

 黒澤が言う。

 いつもの不敵な声。自信に溢れて、パワーを感じさせるいつもの黒澤に戻っていた。

「ええ」

 ワルサーPPKから手を放す。

 見下ろす私の小さな手は、すこし震えているようだった。



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