第9話 ほだされただけです。……絶対そう!
新川センセーの無料個別講習は2時間ほどで終わった。
次は、ストーカー会議だ。
「新しい記事がアップされてました」
「えっ!!」
コーヒーを淹れる手がビクッと震える。……そんなに驚くようなことか?
まぁ確かに、木曜日のアップ率は低かったけどね。
「これです」
タブレットを起ち上げると、台所の新川透のところまで持っていって見せてあげた。例の、大笑い写真だ。
新川透はそのブログを見るなり、チッと舌打ちをした。
その表情は、前に「ストーカーされてるんだよね」と言ったときよりずっとずっと苦々しいものだった。
うーん、そんなに嫌だったのかな、大笑い写真を撮られたの。
「ったく……」
「ところで何を笑ってたんです? 私は必死だったんですけど」
「ああ、ソレね」
新川透は私にコーヒーカップを一つ渡すと、自分はチェストに向かい、しゃがんで一番下の深めの引き出しを開けた。
何やら途中で金属がぐにゃんと曲がった、黒い変な器具を取り出す。
「ヘッドセットを渡すのを忘れてた、と思ってね。だけど……肩に担ぐって……」
思い出したのか、新川透がまた「ぶくくくく……」と変な声を上げた。
右手で顔は隠してますけどね、目尻の皺がすんごいことになってますから! わかるんだよ!
何なんだー、もう。
「はい、耳出して」
「何でですか」
「いちいち反抗しないでよ。ヘッドセットの使い方を教えてあげるから」
「……」
どうやらタブレットで電話するときに使うものらしい。大人しく髪をかきあげて耳を出すと、その黒いぐにゃんとした部分が右耳にかけられた。
「重くないか? 痛くない?」
「痛くはないけど……眼鏡のツルとぶつかって何か邪魔ですね」
「電話の時は眼鏡は要らないだろ。外せば?」
「そうですね」
眼鏡を外すと、新川透が「はふっ」と変な声を上げた。
前からちょっと気になってるんだけど、この人、何でいつも私の素顔を見て笑うんだろう? 目の焦点が合わないから、おかしな顔をしてるのかな。もともと大きくはない目が糸目になってるとか。
聞いてみたいけど、はっきり「すごく変だから」と答えられるとさすがに傷つくな、と思い、とりあえず黙っていることにした。
イケメンに顔が変って言われるの、一番キツいです。
その後、ヘッドセットの使い方や電話の取り方を聞く。その性能の凄さに驚いて「便利ですねー!」と言うと、なぜかぶくく、とまた笑っていた。
いったい何がそんなにツボだったのか……。
「あー、で、本題はそこじゃないんですよ」
とりあえずヘッドセットを仕舞い再び眼鏡をかけ直すと、私は新川透にまっすぐ聞いてみた。
「このときストーカーは、間違いなく駐輪場にいたはずなんです。誰か見かけませんでしたか?」
「うーん、そっちは見てなかったからなあ……」
「やっぱり……」
何でちゃんと周囲を見回しておかないのかなあ……。
この人、ストーカー被害に遭ってる、と言う割に警戒心がゼロだよね。
「ただね。これで、ストーカーは自転車通学の生徒だとわかりました」
「え、何で?」
私は自分の考えた推理を一生懸命に説明した。私の話を聞いていた新川透の顔が、徐々に険しいものになる。
ぼんやりとした存在だったストーカーがはっきりと実体を伴ってきたことで、さすがに恐怖を感じているんだろうか。
「……ですから、自転車通学の生徒の名簿から割り出せるのではないでしょうか」
「そうだね……うーん……」
名案! 解決まで一気に近づいた! ……と喜ぶかと思ったのに、新川透の表情は暗く、冴えない。
何でだ?
「何か問題あります? 個人情報の問題もありますし、私に見せてくれとは言いませんよ。あとは新川センセーの方で……」
「いやね。そもそも、違法駐輪の問題があるから管理してる訳だからさ」
「はぁ」
「自転車通学じゃない生徒が自転車を使うこともあるな、と……」
「ふうむ……確かに」
とは言え、毎日予備校職員が自転車の整理をしつつ、違反者は呼び出して説教したりしている。
不特定多数ということはない、それにしたって絞られるんじゃないか?
「防犯カメラって裏口にはないんでしたっけ?」
「あるけど、管理会社の管轄だから職員は見れないよ。事件が起きない限り」
「そうか……」
うーん、いい案だと思ったんだけどなあ……。
とにかく新しい情報が入るまで、噂話に注意しつつ気をつけるしかないのか。
唸りながら壁の時計を見上げると、もう十時を過ぎていた。朝は新聞配達で早いから、もう寝ないといけない時間だ。
私は残っていたコーヒーを飲み干すと、洗い物をしようとすっくと立ち上がった。
「ああ、いいよ、いいよ。俺がやっておくから。もう遅いから帰らないとね。車で送るよ」
私の動きで時間に気づいたのか、新川透はそう言って私からカップを取り上げた。
私は素直に、その厚意に甘えることにした。
* * *
最寄りのコンビニで降ろしてもらう。
新川透は「アパートの前まで送ろうか」と心配そうだったけど、ここから私のアパートまでは一本道だし、街灯もたくさんある。住宅街だし、何かあれば大声を上げればいいことだ。
それよりもご近所に見られることの方が、私にとっては大問題だった。
「……あ、そうだ」
私はリュックを開くと、クリアファイルに挟んであったルーズリーフを取り出し、新川透に差し出した。
「ブログの記事から、『この時間帯は授業を取っていない』と思われる時間帯をピックアップしておきました」
「え?」
「例えば、金曜日は午前の写真を撮られているので、午前中の授業を取っていないかまたはその日にサボった人、ということになりますよね? そういうのを受講登録や出席簿から照らし合わせていけば、絞れるんじゃないかと思って」
「……」
新川透はコンビニの明かりで照らされる私の顔と手元のルーズリーフを見比べると、
「莉子……真面目だね」
とまるで他人事のように呟いた。
「呼び捨ては止めてください」
イラっときて、私は吐き捨てるように言い、新川透を睨みつけた。
何なの、この人。何考えてるのか全然わからない。
自分のことでしょ? 何でそんなに呑気なの?
「私が真面目なんじゃなくて、新川センセーが自分のことなのにテキトー過ぎるんです。本当にストーカーを見つける気、あるんですか!?」
「ある……けど……」
「だったら! 本腰を入れて! 調査しましょうよ!」
「声が大きいよ、莉子。……まぁそのうち熱も冷めるかなって」
「呼び捨て禁止! そうやってのんびり構えている間にエスカレートしたらどうするんですか? そっちの事例の方が多いじゃないですか!」
私が叫ぶように訴えると、新川透は左手を自分の口元にやり、何かを考え込んでいた。
やっと事の重大さに気づいていただけましたか。それなら良かった。
……と思っていたんだけど、新川透がぶつけてきた言葉は、全然見当違いのものだった。
「……莉子はさ、俺のこと心配してるの?」
「はぁ? だから呼び捨ては……」
「ねえ、心配?」
重ねて聞く新川透の顔は真剣そのもので――どことなく寂しそうだった。
俺のことが心配だと言ってくれって、身体全体で叫んでいる気がする。
ええい、畜生!
何だってこんなときばかりわかりやすいのよ!
そういうとき、私は絶対に言ってなんかやるもんか、と思うのだけど――。
「そりゃ心配しますよ! 関わった以上、見過ごせないじゃないですか!」
本気で傷つきそうな気がしたから、恥ずかしかったけど思い切って言ってみた。
ああ、もう! 何でわざわざ言わせるかね、この男は!
本当にめんどくさい!!
恥ずかしさのあまり、パッとコンビニの明かりから顔をそむける。
すると……。
「わーい!」
……という異常にテンションの高い声が頭上から降ってきて……私の目の前は、真っ暗闇になった。
えっ! 何!? 何が起こった!?
熱っ! 息苦しい! でもいい匂い!
バカバカ、トチ狂ってんじゃないよ!
…………。
ひいぃぃぃ! これは、ハグとかいうやつでわ!
私好みのあの腕が、背中にぎゅっと回っちゃってるんですけど!!
「嬉しい、莉子! ああ、俺は着実にゴールに向かってるな!!」
「な、ぐ……」
何、なになになになに、何なの!?
身体が熱い! 今なら間違いなく炎が出せる!
……ってバカ、今出すなら炎じゃなくて――。
「……ぐはっ!!」
またもや頭上から苦しそうな呻き声が聞こえ、背中の腕の力が緩んだ。
その隙にババッと離れ、距離を取る。
……そうですね、今出すなら膝蹴りですよ、正解は。
私はバクバクする心臓を押さえながら、すっかり乱れてしまった息を整えた。
私に太腿を思い切り蹴飛ばされた新川透は、顔を歪ませている。そしてその両腕は前に出したままで、まだ何だか名残惜しそうだ。
「お前は帰国子女か――!」
「中学生のときに、飛び飛びだけど半年ほど」
「そうか、それなら……じゃねーし! いい!? みだりに他人に抱きついちゃいけません! お触り禁止!」
「莉子……」
「呼び捨ても禁止!」
噛みつくように叫ぶと、私はダダダーッと自分のアパートに向かって走り出した。
ヤバい、ヤバい、あっさりパーソナルスペースに入ってくんなよ!
油断した!! そういやそもそも、奴は「お尻が若い」とのっけから言い放ったんだった!!
父親がいない私にとって、男性とのハグは正真正銘、これが初めてだった。
知らなかった、男の人って熱いのね。…………とか言ってる場合じゃないっ!!




