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トイレのミネルヴァは何も知らない  作者: 加瀬優妃
1時間目 ストーカー問題
9/108

第9話 ほだされただけです。……絶対そう!

 新川センセーの無料個別講習は2時間ほどで終わった。

 次は、ストーカー会議だ。


「新しい記事がアップされてました」

「えっ!!」


 コーヒーを淹れる手がビクッと震える。……そんなに驚くようなことか?

 まぁ確かに、木曜日のアップ率は低かったけどね。


「これです」


 タブレットを起ち上げると、台所の新川透のところまで持っていって見せてあげた。例の、大笑い写真だ。

 新川透はそのブログを見るなり、チッと舌打ちをした。

 その表情は、前に「ストーカーされてるんだよね」と言ったときよりずっとずっと苦々しいものだった。

 うーん、そんなに嫌だったのかな、大笑い写真を撮られたの。


「ったく……」

「ところで何を笑ってたんです? 私は必死だったんですけど」

「ああ、ソレね」


 新川透は私にコーヒーカップを一つ渡すと、自分はチェストに向かい、しゃがんで一番下の深めの引き出しを開けた。

 何やら途中で金属がぐにゃんと曲がった、黒い変な器具を取り出す。


「ヘッドセットを渡すのを忘れてた、と思ってね。だけど……肩に担ぐって……」


 思い出したのか、新川透がまた「ぶくくくく……」と変な声を上げた。

 右手で顔は隠してますけどね、目尻の皺がすんごいことになってますから! わかるんだよ!

 何なんだー、もう。


「はい、耳出して」

「何でですか」

「いちいち反抗しないでよ。ヘッドセットの使い方を教えてあげるから」

「……」


 どうやらタブレットで電話するときに使うものらしい。大人しく髪をかきあげて耳を出すと、その黒いぐにゃんとした部分が右耳にかけられた。


「重くないか? 痛くない?」

「痛くはないけど……眼鏡のツルとぶつかって何か邪魔ですね」

「電話の時は眼鏡は要らないだろ。外せば?」

「そうですね」


 眼鏡を外すと、新川透が「はふっ」と変な声を上げた。

 前からちょっと気になってるんだけど、この人、何でいつも私の素顔を見て笑うんだろう? 目の焦点が合わないから、おかしな顔をしてるのかな。もともと大きくはない目が糸目になってるとか。


 聞いてみたいけど、はっきり「すごく変だから」と答えられるとさすがに傷つくな、と思い、とりあえず黙っていることにした。

 イケメンに顔が変って言われるの、一番キツいです。


 その後、ヘッドセットの使い方や電話の取り方を聞く。その性能の凄さに驚いて「便利ですねー!」と言うと、なぜかぶくく、とまた笑っていた。

 いったい何がそんなにツボだったのか……。


「あー、で、本題はそこじゃないんですよ」


 とりあえずヘッドセットを仕舞い再び眼鏡をかけ直すと、私は新川透にまっすぐ聞いてみた。


「このときストーカーは、間違いなく駐輪場にいたはずなんです。誰か見かけませんでしたか?」

「うーん、そっちは見てなかったからなあ……」

「やっぱり……」


 何でちゃんと周囲を見回しておかないのかなあ……。

 この人、ストーカー被害に遭ってる、と言う割に警戒心がゼロだよね。


「ただね。これで、ストーカーは自転車通学の生徒だとわかりました」

「え、何で?」


 私は自分の考えた推理を一生懸命に説明した。私の話を聞いていた新川透の顔が、徐々に険しいものになる。

 ぼんやりとした存在だったストーカーがはっきりと実体を伴ってきたことで、さすがに恐怖を感じているんだろうか。


「……ですから、自転車通学の生徒の名簿から割り出せるのではないでしょうか」

「そうだね……うーん……」


 名案! 解決まで一気に近づいた! ……と喜ぶかと思ったのに、新川透の表情は暗く、冴えない。

 何でだ?


「何か問題あります? 個人情報の問題もありますし、私に見せてくれとは言いませんよ。あとは新川センセーの方で……」

「いやね。そもそも、違法駐輪の問題があるから管理してる訳だからさ」

「はぁ」

「自転車通学じゃない生徒が自転車を使うこともあるな、と……」

「ふうむ……確かに」


 とは言え、毎日予備校職員が自転車の整理をしつつ、違反者は呼び出して説教したりしている。

 不特定多数ということはない、それにしたって絞られるんじゃないか?


「防犯カメラって裏口にはないんでしたっけ?」

「あるけど、管理会社の管轄だから職員は見れないよ。事件が起きない限り」

「そうか……」


 うーん、いい案だと思ったんだけどなあ……。

 とにかく新しい情報が入るまで、噂話に注意しつつ気をつけるしかないのか。

 

 唸りながら壁の時計を見上げると、もう十時を過ぎていた。朝は新聞配達で早いから、もう寝ないといけない時間だ。

 私は残っていたコーヒーを飲み干すと、洗い物をしようとすっくと立ち上がった。


「ああ、いいよ、いいよ。俺がやっておくから。もう遅いから帰らないとね。車で送るよ」


 私の動きで時間に気づいたのか、新川透はそう言って私からカップを取り上げた。

 私は素直に、その厚意に甘えることにした。


   * * * 


 最寄りのコンビニで降ろしてもらう。

 新川透は「アパートの前まで送ろうか」と心配そうだったけど、ここから私のアパートまでは一本道だし、街灯もたくさんある。住宅街だし、何かあれば大声を上げればいいことだ。

 それよりもご近所に見られることの方が、私にとっては大問題だった。


「……あ、そうだ」


 私はリュックを開くと、クリアファイルに挟んであったルーズリーフを取り出し、新川透に差し出した。


「ブログの記事から、『この時間帯は授業を取っていない』と思われる時間帯をピックアップしておきました」

「え?」

「例えば、金曜日は午前の写真を撮られているので、午前中の授業を取っていないかまたはその日にサボった人、ということになりますよね? そういうのを受講登録や出席簿から照らし合わせていけば、絞れるんじゃないかと思って」

「……」


 新川透はコンビニの明かりで照らされる私の顔と手元のルーズリーフを見比べると、

「莉子……真面目だね」

とまるで他人事のように呟いた。


「呼び捨ては止めてください」


 イラっときて、私は吐き捨てるように言い、新川透を睨みつけた。

 何なの、この人。何考えてるのか全然わからない。

 自分のことでしょ? 何でそんなに呑気なの?


「私が真面目なんじゃなくて、新川センセーが自分のことなのにテキトー過ぎるんです。本当にストーカーを見つける気、あるんですか!?」

「ある……けど……」

「だったら! 本腰を入れて! 調査しましょうよ!」

「声が大きいよ、莉子。……まぁそのうち熱も冷めるかなって」

「呼び捨て禁止! そうやってのんびり構えている間にエスカレートしたらどうするんですか? そっちの事例の方が多いじゃないですか!」


 私が叫ぶように訴えると、新川透は左手を自分の口元にやり、何かを考え込んでいた。


 やっと事の重大さに気づいていただけましたか。それなら良かった。

 ……と思っていたんだけど、新川透がぶつけてきた言葉は、全然見当違いのものだった。


「……莉子はさ、俺のこと心配してるの?」

「はぁ? だから呼び捨ては……」

「ねえ、心配?」


 重ねて聞く新川透の顔は真剣そのもので――どことなく寂しそうだった。

 俺のことが心配だと言ってくれって、身体全体で叫んでいる気がする。


 ええい、畜生!

 何だってこんなときばかりわかりやすいのよ!


 そういうとき、私は絶対に言ってなんかやるもんか、と思うのだけど――。


「そりゃ心配しますよ! 関わった以上、見過ごせないじゃないですか!」


 本気で傷つきそうな気がしたから、恥ずかしかったけど思い切って言ってみた。

 ああ、もう! 何でわざわざ言わせるかね、この男は!

 本当にめんどくさい!!

 恥ずかしさのあまり、パッとコンビニの明かりから顔をそむける。

 すると……。


「わーい!」


……という異常にテンションの高い声が頭上から降ってきて……私の目の前は、真っ暗闇になった。

 えっ! 何!? 何が起こった!?


 熱っ! 息苦しい! でもいい匂い!

 バカバカ、トチ狂ってんじゃないよ!

 

 …………。

 ひいぃぃぃ! これは、ハグとかいうやつでわ!

 私好みのあの腕が、背中にぎゅっと回っちゃってるんですけど!!


「嬉しい、莉子! ああ、俺は着実にゴールに向かってるな!!」

「な、ぐ……」


 何、なになになになに、何なの!?

 身体が熱い! 今なら間違いなく炎が出せる!

 ……ってバカ、今出すなら炎じゃなくて――。


「……ぐはっ!!」


 またもや頭上から苦しそうな呻き声が聞こえ、背中の腕の力が緩んだ。

 その隙にババッと離れ、距離を取る。


 ……そうですね、今出すなら膝蹴りですよ、正解は。


 私はバクバクする心臓を押さえながら、すっかり乱れてしまった息を整えた。

 私に太腿を思い切り蹴飛ばされた新川透は、顔を歪ませている。そしてその両腕は前に出したままで、まだ何だか名残惜しそうだ。


「お前は帰国子女か――!」

「中学生のときに、飛び飛びだけど半年ほど」

「そうか、それなら……じゃねーし! いい!? みだりに他人に抱きついちゃいけません! お触り禁止!」

「莉子……」

「呼び捨ても禁止!」


 噛みつくように叫ぶと、私はダダダーッと自分のアパートに向かって走り出した。


 ヤバい、ヤバい、あっさりパーソナルスペースに入ってくんなよ!

 油断した!! そういやそもそも、奴は「お尻が若い」とのっけから言い放ったんだった!!


 父親がいない私にとって、男性とのハグは正真正銘、これが初めてだった。

 知らなかった、男の人って熱いのね。…………とか言ってる場合じゃないっ!!


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加瀬優妃はかつて「リサイクル活動」というものをやっておりました。
よろしければ活動報告を読んでみてくださいね。作品の紹介をしております。
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