過保護が過ぎる。※重複表現(中編)
一瞬、玲香さんが何を言ったのかよくわからなかった。
春からここに住む……。
「はあっ!?」
大学付属の学生寮にはすでに申請済み。先着順ではなく経済状況で決定されるから、私のここ一年の収入から考えれば、100%申請は通る。前期で合格すれば、合格通知と共に入寮許可書も届くはずだ。
このあとは授業料免除の申請をし、なるべく母の預金に手をつけず自分の稼いだお金と奨学金、それと入学後のアルバイトでやりくりしていけばいい。
そう考えていた私に――何を言った、この人は!?
「いやいや、住める訳ないじゃないですか!」
「え、ここ便利よ? 横浜駅からは徒歩十五分とちょっと遠いんだけど、Y大行きのバス停にはすごく近いから」
「そういう問題じゃないです!」
「じゃあ、どういう問題?」
「こんな高級マンション! だいたい、家賃は……」
「何と驚きの3万円❤」
「絶対、嘘だ! 騙されませんよ!」
いくら玲香さんの言う事でも、素直にハイなんて言えますか。美味しい話の裏には罠がある。
あ、いや、玲香さんが悪巧みをしているとは思ってませんけども……。
それにしたって色々おかし過ぎるのよ!
「まぁ、ちょっと落ち着いて話をしましょう。ソファに座って」
玲香さんはワインレッドのソファの片側に座ると、ポンポンと隣を叩いて私の顔を見上げた。
確かにこれはじっくり腰を据えて話を聞かないと駄目ですね。
ふむ、と息を一つ吐いて、私は玲香さんの隣に座った。
「まず、このマンションは法人契約限定のマンションなのね」
「法人契約……?」
「企業との契約限定ってことね。例えば急に横浜に転勤になった人が体一つですぐ新生活を始められるように、家具・電化製品付きになってるの。食事もついてるわよ? マンションの住人は朝食400円、夕食600円で下のカフェで食事できるの。管理栄養士監修の元、バランスのよい献立が日替わりで提供されるわ」
「はぁ……」
「見知らぬ土地に来た女性社員が安心して過ごせるように、防犯カメラ等のセキュリティもバッチリ。二階には大浴場やトレーニングマシーン、マッサージルームなんかもあるの。働く女性を癒す工夫が……」
「えーと、ちょっと待ってください?」
玲香さんが有能な不動産業者に見えてきた。私は今、何をプレゼンされてんだ。
「私は働く女性ではなく、女子大生になるんですけど?」
「会社が契約をしたあとは、誰が住もうが自由なのよ。会社の信用で借りてるわけだから、契約書で制限されていない限りは問題ないわ」
「えーと? この場合の会社というのは?」
「新川病院ね」
「なっ……」
何じゃ、そりゃ!
完全に公私混同じゃないか! 私を住まわせるために新川病院としてこのマンションを借りようとしているってことでしょ!?
駄目、それはやり過ぎ、絶対!
「新川病院は横浜にはないじゃないですか! おかしいですよ!」
「実はおかしくないのよ。今、新川病院では優秀な看護師の育成を考えていてね」
「へっ?」
何やらまた、想像もしない方向に話が飛んだな。
「例えばね。大卒の看護師が『勉強し直したい』と母校の大学に戻ったり、専門学校卒の看護師がより高度なカリキュラムを履修するために大学に編入を希望したり、といったことがあるのね。で、神奈川県には看護科を設置している大学も多いし、ここからなら東京の大学にも通えるし」
「まぁ……」
「やっぱり看護師というのはどの病院でも不足していて……例えば院内にそういう意欲のある優秀な看護師がいたら、援助をする代わりに卒業後必ずウチに帰ってきてもらいたい、と。そういう狙いがあるのよ」
「へぇ……」
確かに、それだけ向学心のある看護師が一回り大きくなって帰ってきてくれたら、地元の看護師の意識も変わるだろうし、病院内のケアだって向上するよね。
「という訳で、まぁぶっちゃけるとここの家賃は8万円なんだけど、6割は新川病院が負担、入居者に4割を負担をしてもらって……」
「えー、ちょっと待ってくださいね?」
いやいや、そんな話じゃ騙されませんよ。
とりあえず新川病院的にはそう不自然な投資ではないので違法でもなんでもない、というところは分かりました。私物化している気はするけど、病院経営としては何も問題はない、ということでしょう。そこは置いておく。
それにしたって、この豪華さはおかしいでしょ! ここ、絶対にこのマンションの中でも最高級の部屋だもん! 最上階だし、単身用なのに広々1LDKとかあり得ない!
「それでも8万は安すぎませんか。私、一応横浜の物件も調べたんです」
「え、どうして?」
「寮は2年間しか入れないので、残り2年……院まで行った場合は残り4年、アパートを借りないといけないですから。合計でいくらぐらいかかるか試算するために、情報を集めたんですよ」
寮は月に約1万だから、1万の2年間で24万。そしてその後は上限5万として、5万の2年間で120万。4年間なら240万。
月平均で家賃3万~4万なら奨学金で十分賄えるな、と判断していたのだ。
「だからちゃんと相場は調べました。このクラスなら絶対に10万は超えるはずです。法人契約で割安になるとしても、8万は安すぎます」
んでもって、新川病院の看護師でない私が家賃補助してもらうのもおかしな話です、本当に。
「うーん、やっぱりそうなるわよね」
玲香さんはそう呟くとすっくと立ち上がった。「莉子ちゃんも立って」と言われたのでおとなしく従う。
玲香さんがソファのシートの下に手を伸ばすと、ガタンと背もたれが倒れて真っ平になった。
「実はこれ、ソファーベッドなのよ」
「はぁ」
「だからね、伊知郎さんが東京に出張に来た時に私もついてこれるな、と思って」
「……いや、二人でホテルに部屋を取ればいいのではないでしょうか、それは?」
「伊知郎さんが嫌がるのよ。印象がよくないって」
「……」
それは単に、玲香さんを他の人に会わせたくないだけでは?
あるいはプライベートを探られたくない、とか職場にプライベートを持ち込みたくない、とかさ。
「後ね、お義母さんが学会に出席するときにも使えるし」
それも会場の近くのホテルを取れば済む話じゃないかなあ……。
さすがに言えないけども。
私の眉間の皺に気づいたのか、玲香さんはちょっと溜息をつくと、ソファーベッドをガタンと元の形に直した。
そして再び座り直し、ふう、と溜息をつく。
「やっぱり誤魔化されないわよね」
「そりゃ……」
「仕方ないわね。全部説明するわ」
いや、最初からそうしてくださいよ……。
とは思ったけど、とりあえず黙っておいた。
「あのね。私と松岡さんと透くん。この三者の戦いの落とし所がコレだったのよ」
「……はい?」
何でここに松岡さんが出てくるんだ? それに、新川透も。
だいたい、戦いって何なの?
首が攣るかというぐらい盛大に首を傾げていると、玲香さんは「座って」と自分の隣のシートをぽんぽんと叩いた。
* * *
事の起こりは、11月下旬のアパートの火事。
慌てふためいた松岡さんが「住むところを用意するから!」と主張し、玲香さんはそれに応じなかった。
そこまでは知ってる……けど、話はそこで終わらなかったらしい。
「莉子ちゃんはウチで預かります」
「どうせ春からは関東に来るじゃないですか」
「それでも莉子ちゃんは現在もこちらで働いていますし、それが本人の希望です。受験まではこちらにいさせます」
「では、春からの物件は松岡建設で押さえます」
「それは隠し子を公にするようなものでマズいでしょう」
「そんなことにはなりません」
「松岡家に引き入れるつもりですか」
「そちらこそ新川家で囲むつもりですか」
……と、私の『保護者枠』をいかに勝ち取るかの戦いになったそうだ。
いや待て、私はもうすぐ18歳なんですけど? 何でそんな親権の取り合いみたいなことになってんの?
とりあえず松岡さん側は交渉人を小坂さんと交代したのだが、ここで新川透もこのバトルに参加。
「莉子は俺が用意したマンションに住まわせるから」
と、突拍子もないことを言い始め、玲香さんも松岡さん側も大慌て。
「それはマズい」
となり、両者は一時休戦。
私に平穏な学生生活を、という観点から
「とりあえず安心して過ごせる女子専用マンションに住まわせよう」
というところまでは一致した、そうだ。
いや、私は寮に入るつもりだったんだけど。
私の意志は? どこにあるの?
「寮はY大の近くにあってかなり奥の方だし、交通の便が悪いわ。アルバイトするとなったら町まで降りて来ないといけないし」
「そりゃ……」
「それに女子寮は独立してなくて、男子居住棟・女子居住棟・共用棟で構成されていて交流も盛んみたいだし……とてもじゃないけど透くんが納得しないわよ」
いや、なぜ新川透を納得させないといけないのだ。
……とは思うけれども、拉致して自分の選んだ場所に閉じ込めるぐらいのことは平気でするだろうなあ。
それは困る。やっぱり好きだから……あっさりとその環境に染まってしまいそうだ。そんな自分には、絶対になりたくない。
恋愛に惚けている訳にはいかない。授業料免除は大学の成績が悪いと受けられなくなってしまうし、私は真面目に勉強を頑張りたい。
「莉子ちゃんが、この一年半の間どれだけ考えて、どんな思いで大学受験を頑張っていたか、小坂さんから聞いたわ」
私の気持ちを見通したように、玲香さんがポツリと言った。
「……小坂さんが……」
「でも、それを知った松岡さんが今度こそ力になりたいと思っていることも確かでね。それで、このマンションの話が持ち上がったの」
「ここ、ですか?」
「このマンションは、松岡浩司さんがオーナーなのよ。松岡建設じゃなくて、松岡さん個人の不動産なの」
「え……」
働く女性のためのマンションを? 松岡さんが?
なぜ敢えて、という疑問が頭を駆け巡る。
「松岡さんの奥様、もう亡くなってるって話だったでしょ?」
「はい」
「このマンションはね、その亡くなった奥様がプロデュースした最後の物件なんですって。でもね、ここのオーナーが資金難に陥って転売しようとしたの。オーナーが変わると、コンセプトから何からすべて変わって、奥さんの痕跡が無くなってしまうでしょう?」
「そう……ですね」
「それで、松岡さんが個人資産で買い取ったんですって。奥さんの想いを遺しておくために」
「……」
そうなんだ……。やっぱり松岡さんて、愛情深い人なんだな。……暴走体質でもあるけど。
お母さんは、自分のためなら何でもしそうな松岡さんを止めたかったのかな。
「それで……ここなら松岡建設も介入しないし、問題ないだろう、と。オーナー権限で住まわせることはどれだけでもできる。だけど絶対に莉子ちゃんは納得しないだろうし、やっぱり警戒するかもしれないから……」
玲香さんはソファの近くに置いてあったカバンからクリアファイルを取り出した。そして中から2枚の紙を取り出し、目の前のテーブルの上に並べる。
松岡浩司の署名がある念書、それと新川玲香の署名がある契約書のようなもの。
「莉子ちゃんに安心してもらう為に、松岡さんには松岡建設は関わりません、一切公表しません、と一筆書いてもらったの。それと、私の方は毎月5万ずつ貸与する契約書。言うなれば、玲香奨学金ね。新川家のお金じゃなくて私個人のお金を無利息無期限で貸すわ。どうしても家賃補助が嫌だったら、私個人と契約しましょう」
「玲香さん……」
「これで、納得してもらえないかな? みんな、莉子ちゃんを心配……いえ、違うわね。応援しているのよ」
玲香さんが私の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
その慈しむような瞳に、喉の奥がぎゅうっとなった。目頭が熱くなって、あっという間に視界がぼやける。
ポタッと膝の上に雫が落ちた。
二度と泣かない誓い? そんなちっぽけな私の意地なんか、どうだっていい。
だって、玲香さんも松岡さんも小坂さんも……これだけ立派な大人の人たちが、こんな子供の私の自尊心を傷つけまいと、一生懸命考えてくれたんだもの。
「あの、すみ、ま、せん……」
「あらら、泣かなくてもいいのに」
「か、感謝の気持ちで、いっぱい、で……」
「莉子ちゃん……」
我慢をやめたら、涙腺が馬鹿になったようだ。涙が後から後から溢れ出てきてどうしようもない。
両手で顔を覆い、俯く。子供みたいにしゃくり上げてしまう。
玲香さんがぎゅっと私を抱きしめて、背中を撫でてくれた。




