第12話 何かテンション、おかしくない?
44歳・素敵な紳士の松岡さんが、私の手を握って異常なくらいに舞い上がっています。
何だ、この構図。少年スイッチ、どこで入った。
「多恵は、わたしを嫌いになって別れた訳じゃない。そうですよね!?」
「えっと、多分……」
「だからわたしの子を産んでくれた。ど、どうしましょう。わたしには娘がいたんですね!」
ちょっとちょっと、急に盛り上がられても困る!
やっぱりボンだからなのか。脳内お花畑なのか?
「いえ、あの、落ち着きましょう、松岡さん」
「これは落ち着いていられませんよ。莉子さん、ちょっと『お父さん』と言ってみていただけませんか」
「えーと……」
「いや、いきなりは無理ですよね。……そうだ、これからどうしましょう?」
「はい?」
だからちょっと待ってください、オトーサマ。
これからって何だ? お話さえ聞ければ、私はもういいんですけど。ここからどこに連れていくつもりよ?
「私には幸い……と言ってはおかしいですが、妻との間に子はいません。その妻も他界して、今は独身ですし。ですから認知をして……」
「えっ、ちょっと!」
何で急にそんな話になるの? 浮かれ過ぎじゃない? そもそもお爺さんに交際を断ち切られたんだよね?
お爺さんは今は会長……ってことは、当然ご存命。今から認知とか、あり得ないでしょ。松岡建設の総力を上げて反対されるよ。
それにお父様は? 確か、社長だよね?
「いや、ちょっと待ってください。会長さんや社長さんは……」
「今日、私がここに来ていることは祖父には言いませんでしたが、知らないということは無いと思います。勿論、現社長である父は知っています。多恵と莉子さんのことを調べて教えてくれたのは、社長室の者ですから」
え、何じゃ、その手の平返しは! 後継ぎがいないから、じゃあ仕方なくってこと!?
でも待て、それに素直に「ありがとう」と乗っかるのってどうかと思うよ。もっと人を疑うことを覚えようよ。何か裏があるのかもしれないじゃん!
あと、ぶっちゃけ過ぎだし。もう少し私に気を遣って!
「あ、莉子さん、もおかしいですかね。娘なんだから莉子ちゃん、ぐらいの方がいいでしょうか」
気を遣うところが違うだろ!
えーと、何から話せばいいんだ? 誰かこの人のテンションをグッと下げてくれない? 話が通じる気がしないんですけど。
「今までお辛かったですよね。高校も辞めて働いているとか」
「それは大学の学費を稼ぐためで……」
「ええ、聞いています。ちなみに第一志望はどちらに?」
「Y大の建築を……」
「建築ですか! 我が社にピッタリですね! しかも春には関東に来られるんでしょう? どうしましょう! どうしましょうか!?」
だからどうもしねーっての! 人の話を聞けや!
お母さん、この人のどこが良かったの?
この純粋無垢な感じ? 天然っぽいところ?
まぁ、ちょっと分かるけどさ……。
何て言うか、お母さんがツッコミだったんだろうね。そんな気がするよ。
「――専務。それ以上は、私の方から説明させていただきます」
やや皺枯れてはいるものの、低い理知的な声が頭上から降ってくる。
見上げると、グレーのスーツに身を包んだ細身の男性が私達を見下ろしていた。
銀縁の眼鏡に一瞬左手をやると、その男性は懐から名刺ケースを取り出した。とても慣れた様子で一枚抜き取ると、ピシッと私に向かって差し出す。
「松岡建設の社長室長を務めております。小坂明仁と申します」
「え……あ、はい!」
私は慌てて立ち上がると、両手で名刺を受け取った。確かに『小坂明仁』と書いてあり、その肩書は『社長室長』。
社長室の長、だよね。社長室って社長の補佐をするところ……それの頭ということは、社長の右腕ってこと? 何か凄そう。
「小坂、わたしが紹介するまで待ってろと言ったのに……」
「わたしは社長の命令で来ていますから。専務だけでは話がまとまりません」
そう言うと、小坂さんは松岡さんの隣に「失礼します」と言って座り、ピンと背筋を伸ばした。
私も慌てて元のように松岡さんの向かいに腰掛ける。
小坂さんは、松岡さんより年上に見えた。それでも五十前後といったところだろうか。何かヤリ手そう……。
「専務、会社としては専務の私情だけで物事を決定する訳には参りません」
「それはそうだが……」
「とにかくここは私にお任せください」
「……」
松岡さんはしばらく考え込むと、渋々「うん」と頷いた。
何だろうな、この執事とお坊ちゃんみたいな光景は。
「仁神谷莉子様。先ほど専務も仰いましたが、これは社長も公認で動いている事案です」
「事案……」
「はい」
小坂さんの眼鏡の奥の瞳がキラリと光ったような気がする。
おかしいな、何だか話がすごく大きくなってきたような気がするんだけど。
「松岡建設は実力主義ですが、トップには代々松岡家の人間を擁しております」
「はあ……」
「次は浩司様が社長職に就かれる予定ですが、浩司様には残念ながらお子様がおられない。浩司様の甥姪にあたる人間はおりますが、社長は後継者選びに慎重になっておられます。やはり浩司様のお血筋で、という思いが強いのでしょう」
それと私がどういう関係が……。
あれ、風向きが何かおかしくなってきた? 何だ、この昼メロのような世界観は……。
これって夢じゃないのかな。
試しに自分の太腿をつねってみる。ピリリとした痛みを感じて、どうやら現実で間違いないらしい、と認識した。
「ここまではよろしいでしょうか?」
「え、あ、はい……」
「では、続けさせていただきます。そこで社長は、仁神谷多恵子様、莉子様のことを詳細に調べられました。もっとも、浩司様のご婚約の際に一度調べておられますから、莉子様の存在は社長もご存知だったようですが」
「……そうなのか?」
松岡さんがひどく驚いた様子で小坂さんの顔を見つめる。そんな松岡さんを、小坂さんは
「会長が下した命令とはいえ、社長がその結末を追わないとでも? 調査は当然でしょう」
と冷静に言い返した。
ちょいとオトーサマ、吞気にもほどがありませんか。
ということは、松岡浩司さんのお父さんもお爺さんも、私が隠し子かもしれないってことはとうの昔に知ってたのか!
そうだよね、よからぬ人間に悪用されたら困るもんね。大企業は大変だね。
しかし当の本人の松岡さんだけ知らなかったとは。まぁ、知ってたら後先考えず会いにいきそうだもんね、このオトーサマ。
「ですが、そうは言ってもこのまま莉子様を松岡家に迎える訳にはいきません」
「え……はい」
誰も松岡家に入りたい、なんて言ってないけど。
「まずDNA検査を受けて頂き、浩司様との親子関係を証明して頂きます。それが立証されましたら正式に入って頂き、後継者候補としての勉強をして頂きます」
「ちょ……」
「おい、小坂。そこまでやらなければならないのか?」
「そうでなければ親戚関係や役員を説得できないでしょう」
「うむ……」
「では、よろしいですか? 莉子様。話を続けさせていただきます」
「ちょっと……」
「そうして行く行くは然るべき殿方と結婚して婿を迎えて頂き、松岡家を盤石にしてもらいたいと……」
「ちょっと待ってください!」
や、やっと口を挟めた。
オイコラ、何を言い出すんだ、この頭でっかち室長は!
人の意思を無視して勝手に話を進めるんじゃない!
「私、松岡家に入る気なんて全く無いんですけど!」
「えっ!」
松岡さん、そこでガーンみたいな顔しないで。話がややこしくなる。
しかし予想通りだったのか、小坂さんは慌てることなくうっすらと笑みさえ浮かべた。
何かイラッとするな。
「ですが、断る理由も無いのでは? 金銭的にも……」
「自分でちゃんと大学の学費は貯めました。後は奨学金を駆使すればどうにかなります。松岡家のお世話になる必要はありません」
「しかし今後、保証人が必要になることは多々ありますよ。就職の場合だってそうです」
「でも……」
「ましてやあなたの志望は建築とのこと、方向性としてもズレてはいない。松岡家に入ろうが、あなたの未来にそう変化は生じないと思いますが」
「変化……ありますよ!」
「何がです?」
「だって……」
私の脳裏に、新川透の顔がよぎる。
「婿を迎える、とか、そんなの……」
勿論、新川透とのそんな未来まで考えている訳じゃない。
だけど、今ちゃんと、いるのに。特別な人だって、やっと自覚できたのに。
ここで見知らぬ人を婿に迎えるとか、絶対無理! そんな話、承服できる訳がないって!
「――そうですね、それは困ります」
急に私の背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
少し低めの、艶がある……時々、私を惑わせる声。
そしていつも、嬉しそうに『莉子』と弾ませる声。
「彼女は、私の婚約者なので」
まさか……と思いながら見上げると、新川透が紺の三つ揃えのスーツをビシッと着こなし、不敵な笑みを浮かべて立っていた。




