第6話 この切り返しでどうよ!
「お帰りなさい」
「お帰りなさーい」
「……お帰り……」
マンションに帰ってきた新川透は、私達三人を見るなりひどく驚いた表情で固まった。
私達三人――私と、恵と……新川弟。
努めて冷静を装う私と、面白そうに元気に挨拶する恵と、ひどく居心地が悪そうにしている新川弟。
事の始まりは、日曜日の夜。何と珍しくも、新川弟から電話がかかってきたのだ。
* * *
“あのさ……透兄がお前にやってる個別補習って、月曜日と木曜日だっけ?”
「そうだけど……何かあった?」
あんな事があって、明日の個別補習はどうしたものかと悩んでいたところだったから、ちょっと構えてしまう。
“いや……透兄にさ、ちょっと勉強を見てもらわないといけなくなったんだけど、邪魔しちゃ悪いからさ”
「へ?」
“俺は必要ないと思うんだけどさ。親がうるさくて……”
そう言えば、お父さんが急に面談に来たって話だったよね。新川家では新川弟について何か大変なことになってるんだろうか。
新川弟的には、私の勉強の邪魔をしたくないと思ってるのかな。でもそもそもは自分の兄なんだし、遠慮する必要はないよね。
それに出会った頃、弟はたまにマンションに来ると聞いていた気がするのに、私が行くようになってからは全く来てない……はず。
むしろ邪魔をしているのは、私の方なのでは。
「じゃあ、一緒に見てもらおうよ」
“えっ!?”
「月曜日と木曜日に来ればいいじゃない」
“冗談じゃない、透兄に殺される!”
「大丈夫だって。私、合鍵をもらってるから先に入って待ってようよ」
“尚更マズいだろ!”
「何でよ?」
“お前と二人きりとか、恐ろしすぎる!”
失礼だな。私があなたをイジメるとでも?
この人、私に対してどういうイメージを持ってるのやら。
それともアレかな、恐ろしいのは新川透に対してなのかな。
「二人きりが嫌なら、恵も呼ぶ?」
“めぐみ?”
「私の友達。時々一緒に補習してもらってるから、何の違和感もないし」
“いや、違和感ありまくりだろ!”
「とにかく明日、六時にマンションの前に集合。よろしく!」
“なっ、おい……”
ピッと『切』ボタンを押す。
ようし、どうにか押し通せたね。許せ、新川弟。
だってさあ、今日の明日で二人きりはキツかったんだよー。
恵はどっちみち誘おうと思ってたし、だけど絶対に理由を聞かれるし。
でも、これなら堂々と
「新川弟も一緒に補習を受けることになったから、恵も来ない? 二人ってのも何だしさ」
と誘えるもんね! 我ながらいい考え!
……という訳で、本日月曜日、新川透が帰ってきたのを三人で出迎えたのでしたー。
ちなみに六時に待ち合わせをしたときから新川弟はひどく怯えています。今回ばかりは、事前に兄に言っておく事すら怖くてできなかったらしい。
「お前がちゃんと説明しろよな!」
と私に文句を言う新川弟に
「噂には聞いてたけど、兄弟なのに見事な主従関係だねー」
と恵がツッコミを入れていたのが面白かった。
それでまぁ、私の方から簡単に経緯を説明した。
「新川センセーだって忙しいのに、週に何日も取られる訳にはいかないじゃない」
と言うと、新川透はかなり不服そうな顔をした。
どうやら両親からも弟を頼む的な連絡はあったようで、
「これから曜日を決めようと思ってたのに……」
とブツブツ言っている。
私としては、しばらく二人きりは勘弁願いたい。ちょっと距離を置いて、落ち着いて考えたいのよ。
……というより、あんまり考えたくないのよ、と言った方がいいんだろうか。
* * *
『ごめんなさい。何とも言えません』
小林梨花の手紙への返事。何を書こうかさんざん迷った挙句、の言葉だった。
私は『トイレのミネルヴァ』だけど、『仁神谷莉子』でもある。
私は新川透と個人的な繋がりがある。小林梨花が言う所の『恋人』ではないけれど、新川透が古手川さんに明言した『恋人』は、少なくとも私の事だ。
でもだからって、『諦めた方がいいです』なんて言う権利は、私にはない。
だけど、『諦めないで』と返すのも絶対に違う。これは、言いたくなかった。
何でだろう。無責任な感じがするからかな。
「そりゃ、諦めてほしいからでしょ」
三人補習を終えて、私のアパートに帰ってきてからのこと。
「絶対、何かあったでしょ! 白状するまで帰らないからね!」
と凄む恵を振り払えませんでした……。
仕方なく、「新川透との出来事」「小林梨花の手紙」「松岡浩司さんの手紙」の中で、比較的軽くて恵に近い2番を選びました。
でも、結局こうなる。うぐっ。
「な、何で……」
「それ以外ないじゃない。莉子、自分の意思を曲げられないのが良いところでも悪いところでもあるからね」
「……」
そう言われると、何も言い返せない。
そうか、私は単純に小林梨花が新川透に纏わりつくのが嫌だったのか。
……まぁ、そうだね。わかってはいたけどさあ……。
でもだからってこの気持ちが『恋』なのかと言われると……。
「うっ……」
思わずペタンとテーブルに突っ伏してしまう。
駄目だ、そんな言葉を思い浮かべるだけで恥ずかしさで死ねる。絶対に私には合わない言葉だよ。
「例えばさあ、莉子」
「なーにー?」
「……ちょっと顔を上げてみな」
えー、と思いながら顔を上げると、目の前に恵のはっきりした二重瞼が。
わ、超ドアップだ! 何だ? 何だ?
逃げようとすると、ガッと頭を鷲掴みされて固定される。
ちょ、恵、女同士でもこれは……!
「え、な……」
「この距離の新川センセー、どう思う?」
「どう思うも何も、キツいよ!」
絶対に昨日のキスを思い出してしまうじゃない! 無理無理無理無理――!
「キツいって何よ?」
「恥ずかしい! 耐えられない!」
「……ふうん」
私が真っ赤になるのを見届けて、恵の手の力が緩む。バッと恵から顔を離すと、私は自分の両手で自分の頬を押さえた。
うわ、熱い。ほらぁ、もう……また赤くなってるじゃーん……。
早く忘れよう。忘れたい!
「じゃあ、今日のあの……」
「新川弟のこと?」
「そう。健彦君だっけ。もし彼だったら?」
「……は? 有り得なくない?」
「それが答えじゃないのかなあ」
「はい?」
だって新川弟は妙に私にビビってるからね。そんな近くに来ることはないもの。
それにあれだ、これは昨日うっかりキスしてしまったからどうしても意識してしまうんであって、それで赤面してしまう訳であって。
だって初めてだったし……。
そんなことをグルグル考えている間に、また頬がガガーッと熱くなってきたのがわかった。
そんな私を、恵がとても胡散臭そうな顔で見ている。
うっ、隠し事してるのがバレバレだってんでしょ。見逃してよ。
「ちょっと莉子」
「何?」
「さすがに新川センセーが気の毒だからさあ、そろそろ真面目に考えた方がいいと思うよ?」
「何を?」
「莉子は新川センセーとどうなりたいの?」
「どっ……!」
な、何ていう事を聞くんだ――! さすが恵! ド直球!
って褒めてる場合じゃない!
「そ、そんなこと、私には……」
「私には?」
「決定権ないし!」
「はぁ? むしろ莉子にしか決定権がない気がするけど」
「だって……」
「え、じゃあ、新川センセーに決定権があるの? 新川センセーが結婚しようって言ったら結婚するの?」
「けっ……」
「新川センセーが今だけ楽しくやろうって言ったら、莉子はそれでいいの?」
「やっ……」
あれ? 何かデジャブ。最近、誰かに言われたような。
……そうだ、桜木社長だ。
松岡浩司さんがもし父親だとしたら、自分はどうしたいのか。それを考えろって言われたんだった。
そう、そうだよ。今はこの大きい問題がある。私の実の父親かもしれないという、本当に大きな問題が。
新川透のことで、フワフワしている場合じゃない。
その途端、プチ莉子ズがわらわらと現れて「ですよね!」とキリッとした顔で整列し出した。
よっしゃ、冷静な莉子軍団、ちゃんと戻ってきたね。だいたい最近は変なことが起こり過ぎておかしくなってたんだな、私は。
「……ちょっと莉子、目が据わってるけど……」
私の心境がガラッと変わったのに気づいたのか、恵がちょっとヒいている。
悪いが恵、私は実の父親出現か、という大事な局面に立っているのだ。
恋愛沙汰で心を揺さぶられている場合じゃないのだよ。
「ん? 何でもないよ」
「何か変な腹の決め方してない?」
「してないよ」
「ねぇ、傘のこと聞いてみた? あれで一目惚れしたんじゃないのかって……」
「あはは、それは有り得ない」
「それは莉子の意見でしょ。だからちゃんと……」
「嫌だよ!」
いい加減我慢ができなくなって、咄嗟に大声で叫ぶ。恵がギョッとしたような顔をした。
恵が悪いんじゃない。心配してくれているのはわかる。
だけど、私はもうこれ以上そのことに関して聞きたくないんだよ。
「莉子……あんた」
「前からちょっと思ってたんだけどさ」
私は恵の言葉を遮ると、スッと息を吸い込んだ。
そうそう、そうだよ、莉子。
本来の私は夢なんて見ない、地に足が着いた生活を望む、地味な人間なんだよ。
恵がたまに思わせぶりなことを言ったり、玲香さんが妙にはしゃぐからオカシくなってただけで。
「何で恵も玲香さんも、新川センセーが本気で私を好きだと思ってるの?」
「えっ!?」
恵が心底驚いたような声を出し、「そこなの!?」と続けて叫ぶ。
「いや……だって……」
「気の迷いだと思う。私の境遇に、同情しちゃったんじゃないかな」
「え、何で? ちょっと待って、言い寄られてるんじゃないの?」
「口先だけ、軽くね。本気じゃないよ、絶対。アレは、私の反応を見て楽しんでるだけだ」
「……」
ここ何か月間の出来事を振り返ってよーく考えてみたけど……新川透は、いつもフザけているのだ。
最初だって、真剣に告白された訳じゃない。「愛しているよー❤」と、アイドルが大勢のファンに振りまくやつですか?ぐらいの軽さだった。
妙に接触が多い気はするけど、あれはペットを可愛がるようなものなのだろう。
たまに独占欲みたいなのを見せるときもあったけど、あれも自分のモノと認識している相手が勝手な行動をするのが気に入らなかっただけに違いない。
……昨日のキスだって、その延長線上だ。
「え、ちょっと待ってよ……おかしいな。莉子、あんた一体どうしたの?」
「どうもしてない」
「えー……」
恵は全く納得していないようだったけど、これ以上話しても無駄だと思ったみたいだ。それ以上、何も言わなかった。
そして「今日はとりあえず帰るね」と言っておとなしく引き上げていった。
私としても、これ以上押し問答しても仕方がないし、助かった。
そうだ。私はたまたま拾われて世話をしてもらっている、捨て猫のようなものなのだ。いつノラに返されるかわからない、そんな立場なのだ。
いつかお家ができるかもしれない、なんて思ってはいけない。




