第1話 きれいなお姉さん、好きですか?
はぁ、もう10月も中旬に入ろうとしている。センター試験まであと3か月とちょっと、といったところだ。
少し肌寒くなってきた。雪が降ると自転車で通えなくなるんだよね。どうしようかなあ……。
あ、日が落ちるのが本当に早くなってきたな。太陽があんなところにある。そういや朝の新聞配達のときも、薄暗くなってきたよね。
「夜遅いと心配」だの「新聞配達は身体がキツ過ぎないか」だの、新川透もガチャガチャうるさくなってきたんだよなあ。
そんなことをボケーッと考えながら、日が落ちてオレンジ色に染まるアパートに繋がる細い道を自転車で走る。
今日は水曜日。唯一の昼上がりの日。
掃除の仕事が終わった後、ちょっと本屋に行って問題集を物色してきた。
欲しいものはいっぱいあるけど、全部買ってたらかなりお金がかかってしまう。悩みに悩んで、とりあえず1冊だけ買ってきた。
勿論、今は追い込みの時期だからどんどんいろんな問題をやらないといけない。1冊ぐらいじゃ駄目なんだけど、そこは予備校講師の新川透がちょっと手助けしてくれている。
例えば、予備校で備品としてあるものを貸してくれたり。あと、こういう予備校や塾では一般の本屋には卸されないものが教材として採用されたりしてるんだけど、余っている分をこっそり1冊くれたり。
教材費も払ってないのに、予備校生の皆さん、ごめんなさい。……見逃して?
その代わり、『トイレのミネルヴァ』頑張るからさ!
私の事をやたら「可愛い」と言い(どう考えても私はその部類には入らないので何をどうトチ狂ったのかはわからない)、私に食べさせるご飯を作り(さながらペットと飼い主)、月曜と木曜の週2回は個別補習をしてくれる(通いカテキョですな)新川透は、光野予備校の人気数学講師です。
そして私は、去年母を亡くしたため高校中退し、学費を稼ぐために早朝の新聞配達と昼間の光野予備校の掃除婦を頑張っている、仁神谷莉子です。
私と新川透は、ひょんなことから……いや違うな、念入りに計算し尽くされた出会いを経まして、現在……えーと……どう言ったらいいのかな、一応
「莉子、愛してるよー」
と言われている関係です。
どんな関係だよ、という感じですが、それ以上は説明するのが難しいです。
で、そう言われてどうしたの?と問われれば……トキメキはするもののどうしたらいいかよくわからず、返事はしないままになっています。
新川透は、背が高くて、すごくカッコ良くて、頭もいいし、料理も上手。一般的に見て、外見・スキルに関しては文句のつけようがない。腕の太さとか筋の入り加減も好みだし(これは私の個人的な趣味)。
で、じゃあ内面はどうなのかというと、エラぶってないし、優しい。ちゃんと話も聞いてくれるし、頼りがいもある。
え? そこまで褒めておいてなぜ「OK」の返事をしないのかって?
いやね、迂闊な言動は何かマズい予感だけはしてて、ちょっと覚悟が決まらないんだよね。
何しろ出会いがすでに騙し討ちだし、処女をくれとか言うし、手錠をかけたりするし、ひそかに盗聴したりするし、GPS付けたりするし……。
あー、こう言うと犯罪者っぽいけど、そうではないんだけどね。ただ物凄い心配性と言うか。
……って、何で私が新川透を庇わないといけないんだ。
えー、まぁ、とにかく。
何て言うかな、何を考えてんだかさっぱり分からないし、それに自分の気持ちもよく分からないし……。
分からないのに結論を出すのはよくないと思うんだよ。うん。
そういう感じです。
* * *
自転車で自分が住んでいるアパートに着くと、見慣れない光景が目に飛び込んだ。アパートの目の前の駐車場に、小型のトラックが止まっている。
どうやら誰かが引っ越してきたようだ。家具や電化製品は見当たらないけど、段ボールが積まれてる。運送屋さんもいないし、もう殆ど終わってるのかもしれないな。
多分、私の隣の部屋だな。ちょっと前に一人暮らしのおじいちゃんが出て行ったんだよね。娘とおぼしきおばさんが一緒にいたから同居することになったんだろうな、とか思ってたけど。
「……あら!」
自分の部屋のドアの鍵を開けていると、案の定、私の部屋の隣の扉が開き、女の人が出てきた。私より10センチは背の高い、女の人。髪の毛を無造作に後ろで1つに縛り、白い長袖Tシャツにジーンズという出で立ち。
そんなラフな格好なのに、何だか雰囲気が華やか。その人が扉から出てきただけで周りにパッと花が咲いたような空気に変わる。
私を見て、なぜか嬉しそうに笑った。
「お隣の方ですね? こんな格好でごめんなさい。今日からこちらに引っ越してきました、モリタレイカといいます」
私なんて全然年下の子供なのに、きちんとお辞儀をする。驚いて、私も慌てて頭を下げた。
多分、24、5歳だと思う。結構キレイな人だ……バリバリのキャリアウーマンって感じ。こんなボロアパートに来るような人には見えないけどな。
「あ、えっと……仁神谷莉子です」
相手が名乗ったのに自分が名乗らないのも変だな、と思い、私はそう言ってもう一度頭を下げた。
まぁ、アパートのポストには名字は書いてあるしね。悪い人には見えないし、隠すこともないか。
モリタレイカさんは再びニコッと笑うと、
「少しうるさいと思うんですけどもう少しで終わるので、ごめんなさいね」
と言って停めてあるトラックの方に駆けて行った。
アパートの住人とは、あんまり話をしない。まぁ、どういう人が住んでるかは知ってるけど、母がいなくなってから一人暮らししている私にあまりいい感情を持っていない気がするし、ここに住んでいる人ってみんな「自分が生きていくのに精一杯」って感じで、あんまり他人に構わないんだよね。
それがまぁ、随分と別世界の人が来たなあ、と思いながら、私は自分の部屋に入った。
それから1時間ほどすると、ピンポーンというチャイムの音が。
久しぶり過ぎて、ビクッとなっちゃった。恵が来るときは事前にメールが来るし足音で分かるから、こっちから扉を開けて迎えるようにしてるからね。わざわざチャイムなんて鳴らさないし。
このアパートってチャイム付いてたんだ、壊れてなかったんだねぇと思いながら、扉を開けた。
先ほどと同じ格好のモリタレイカさんが、小袋みたいなものを持って立っていた。
「こんばんは。改めまして、引っ越しのご挨拶に来ました」
「あ、はぁ……」
随分、律義な……。今時こんな人いるのか。
そう思ったのが顔に出ていたのか、モリタさんは「あら」というような顔をした。
「ごめんなさい、仰々しかったですか? 悩んだんですが、まだお家の人にご挨拶してなかったから、と思って……」
「あ、いえ。珍しいな、と思っただけで……」
お家の人いないんだけど、どうしよう。そんなことわざわざ知らせる訳にもなあ。悪い人ではないと思うんだけど。
私の困った様子を察したらしく、モリタさんは手に持っていた小袋をさっと私に差し出した。
「これ、つまらないものですがお召し上がりください。お家の人にもよろしくお伝えくださいね」
「あ、はい」
「それでは、また」
ペコリとお辞儀をすると、ニコッと笑ってさっと帰っていった。随分引き際のよろしいことで……。
そう思いながら渡された小袋を開く。
中を見ると、高級メーカーのクッキー5枚入りだった。
『よろしくお願いします。森田玲香』
という、小さいメッセージカード付き。
ちょっと嬉しい。お菓子とかそうそう買えないしね……ありがたや~。
しかしあの人、逆側の隣の人にも持っていったのかなあ? 確かちょっと怖い感じのおじさんが住んでたと思うけど。上の階の住人に「うるせぇぞ!」とか殴り込んでるのを見たことがあって、母親と一緒に住んでいた時から関わらないようにしてたんだよね。
こういうの、しなくていいと思うんだけどなあ……。いや、一般常識とか礼儀としては正しいのかもしれないけどね? でもここではどうだろう? しかも自分の名前を教えて歩くとか、ちょっと怖い。
心配になって玄関の扉を少し開けて覗くと、やはりそのまま行っていたようだ。ピンポーンと鳴らして困ったように首を傾げている。
あのおじさん、どうやら留守のようだ。こんな時間にはいないことが多いしね。良かった、間に合った。
「あ、あのぉ……」
こそっと呼びかけると、私に気づいた森田さんが
「何? 何?」
と凄まじい勢いでこっちに戻ってきた。
まるで取って来ーいをした犬のようだな、と失礼ながら思いつつ
「あの、止めておいたほうがいいと思います」
とだけ言った。
「どうして?」
「んーと……ここ、あまり近所付き合いしていないというか……特にそこのおじさんは、ちょっと怖くて」
「ふうん、そう……」
「夜中にならないと帰ってこないし、気にしなくていいと思いますよ」
「そうなんですね。ありがとうございます、にぎゃ、にがみじゃ……」
「……っ、ぶふーっ!!」
すごっ、この人、めちゃくちゃ噛んだー!!
私の苗字は確かに言いにくい。しかし、そこまで噛む人は見たことがない。駄目だ、我慢できない!
堪えきれずに大声で笑うと、森田さんは「ご、ごめ……」と言いかけたあと、自分でも吹き出してしまった。
上品な人なのかな、と思いきや、その笑い声は豪快だ。
「あはは、やだ、本当にごめん! あは、失礼すぎるよね、私! ぶくくく……」
どうやらこっちが地のようだ。さっきまでの丁寧な感じも悪くなかったけど、こっちの方がずっと好感が持てる。
……うん、この人は大丈夫だ。
何となく、そう思った。
「いえ、言いにくいですから……。あの、莉子で構いませんので」
「莉子ちゃんね。よろしくね」
「はい、森田さん」
「玲香の方がいいかな」
「じゃあ……玲香さんで」
私がそう答えると、玲香さんは「うん!」と大きく頷いた。その笑顔は、大輪のヒマワリが咲いたみたいで、本当に温かくて力強い。
引き籠りがちな私を、明るく照らしてくれる感じ。
玲香さんは「それじゃ、また」と言うと、そのまま自分の部屋に入っていった。
何か面白そうなお姉さんが来たなあ。そうだ、恵と新川透にも話してみよう。
知り合いが増えれば、安心してくれるかもしれないしね。
そんなことを考えてちょっと微笑みながら、私は玄関のドアを閉めた。




