閑話・恵の呟き
「恵ちゃんには恩がある」の真相です。
私、中西恵の親友、仁神谷莉子は、本能で敵と味方を嗅ぎ分ける。
周りの人間一人一人と絶妙に距離感を計っている。警戒心が強く、一度「敵」判定をすると、その相手には絶対に近寄らない。
ノラ猫みたいな子だなあ、と思う。
そして莉子は、「味方」判定するとやっと少し甘えるようになる。……とは言っても、私の知る限りでは、もう私しかいないんじゃないかな。
最大の「味方」だったお母さんを亡くし高校を辞めた途端、一気に周りの人間が離れていったことで、莉子のこの「敵味方判定」は一層シビアになった。
莉子が私を信頼して甘えてくれるのは嬉しい。だけど、私一人というのはあまりにも寂しすぎる。
誰かいないもんかね、とは思っていたけどさ。
まさかあんな化け……いやいや、えー、こほん、大物が現れるとは……。
* * *
8月に入り、相変わらず蒸し暑い日が続いていた。新川透情報を仕入れたから莉子に予定を聞かなきゃ、と何回か電話を入れたけど、全然つながらない。
仕方なくメールを送ったところで、1階から4つ下の妹・望の
「お姉ちゃん、電話ー」
という声が聞こえてきた。
「はー!?」
「だから電話だってば!」
私に電話? わざわざ家電に?
変なの、と思いながらトントンと階段を降りる。望が階段の下でぷうっとふくれっ面をしている。
「誰から?」
「新川って男の人」
「え! ……って、おっと!」
危うく階段からずるりと足を踏み外しそうになり、慌てて手すりを掴んだ。
はぁ? 新川? 新川って男の人からだって?
学校の友人関係に、新川という人間はいない。
私が知っている「新川」は、おととい莉子から聞いた「新川透」だけだ。
昨日、情報収集はしたけど……まさかそれがバレて、クレームの電話とか?
「……もしもし?」
“突然すみません。新川透です”
ぎゃはーっ、やっぱ本人だ!
いったい何でウチにかかってきたの!? ……っていうか、何で私を知ってんの?
「あ、えーと……初めま」
“緊急のお願いがあるんで、聞いてもらえませんか?”
いや、挨拶ぐらいさせろや。
……って、緊急?
「莉子に何かありました?」
どう考えてもそれしか考えられない。
思い切ってそう言うと、私の反応に安心したのか受話器の向こうから
“ああ”
という素に戻った声が聞こえてきた。
“熱を出して今日、予備校を休んでるんだ。様子を見てきてほしいんだが”
「熱?」
”出勤時間から2時間も経ってから連絡があった。だから、ひどい状態なんじゃないかと思う”
「わかりました。じゃあ、薬とか準備して……」
“いや、用意はしてあるから、可能ならすぐに出てきてほしい。すぐ近くにいるから”
「え、あ……え!?」
“それじゃ”
プーッ、プーッ、プーッ……。
頭が追い付かず、受話器を持ったまましばし呆然とする。
え、ちょ、待っ……。すぐ近く? はい?
何がどうなっているのかさっぱりわからなかったけど、望に「莉子が病気みたいだからちょっと行ってくる!」とだけ言い残し、慌てて家を飛び出した。
私の家から莉子のアパートまでは、徒歩で十分といったところだ。
莉子が一人暮らしをするようになってから、念のため鍵を預かっておいて良かった。新川センセーの言う「すぐ近く」がどこを指すのかわからないけど、とりあえず莉子の家に向かえば会えるだろう。
一つ目の角を曲がったところで、後ろからクラクションが鳴る。振り返ると、白いレクサスがキキィッと音を立てて止まった。
ウィーンと窓が開き、ちょっと腰が引けるぐらいのイケメンが顔を出す。絶対にこれが新川透だわ、と思っていると、ずいっと薬屋のナイロン袋を手渡された。
「とりあえず、これ。中に俺の携帯番号を書いたメモを入れておいたから、様子がわかったら一度連絡をくれる?」
「あ、はい……」
「ありがとう。申し訳ないけど、時間があまり無いからこれで戻る。本当にごめん」
「はぁ……」
車はそのままブロロローッと走り去っていった。一瞬ポカーンとしてしまったけど、それどころじゃなかった、と再び駆け出した。
アパートに着くと、家のドアの鍵もかかってない。慌てて入ると、莉子は、死んだように眠っていた。おでこに手を当てると、めちゃくちゃ熱がある。
とにかくすぐに、新川センセーに電話して莉子の様子を伝えた。
どうしたらいいか一通り説明してくれたあと、新川センセーは自分のことは絶対に言わないでくれ、と私に念を押した。
「えっ、何で……」
“警戒されるから”
それを聞いて、「やべ、この人本気だわ。本気で莉子を攻略する気だ」と直感的に思った。
経緯はよくわからないけど、ノラ猫の莉子を十分理解している。その上で、全力で莉子の「味方」になろうとしている。
だとしたら、作戦は失敗だ。莉子のもう一つの性質については、全然わかってないよ。
莉子は、悪意には敏感だけど好意には鈍感だ。どこか「自分なんか」と思っている節があって、そんな自分に「助けてくれ」と頼ってきた人を絶対に拒絶しない。頑固だし責任感も強いから、どうにかできないかとやがて自分のこと以上に夢中になってしまう。
ここは一つ、私がビシッと言ってやらなくては。
「あの! 莉子は自分の生活で、本当にいっぱいいっぱいなんです。だけど頼られたら必要以上に頑張っちゃうんですよ。だから……」
“そうだよね。少し、反省してる。わかってた……つもりだったんだけど”
「はぁ?」
『わかってた』って何だ、『わかってた』っていうのは。
まるで莉子がストーカー探しに前向きになるのを見越していたみたいじゃないの!
“まさか本気で気にしてくれるとは……その……思わなかったから……”
「……はぁ?」
莉子が気にしてた? 新川センセーを? 事件解決にしゃかりきになった、とかじゃなくて?
でもって、何でこの人……こんなに声が嬉しそうなの? 全く隠せてないから!
ちょっとちょっと……私の知らないうちに、何があったのよ!
「あの……」
“あ、もう授業の時間だ。とにかく、本当にありがとう。恩にきるよ。熱が下がらないようならまた連絡してくれ”
「……わかりました」
これ以上問い詰めてもな、とプツッと電話を切った。とりあえず言われた通りにタオルを水で濡らしたり脇の下を冷やす氷を入れたりする。
だいぶん辛いらしく、莉子は全く目を覚まさなかった。
短いやりとりだったけど、とにかく莉子が大事、ということはわかった。
時間がない中、莉子のために駆け付けたのだろう。最大限知恵を絞って、莉子の迷惑にならないような、莉子の負担にならないような手段を捻り出して。
* * *
熱が下がった莉子に何があったか聞いてみたけど、頑として口を割らない。
この子は自分が納得しない限り、テコでも動かない。いつもならちょっと強引にでも聞き出すところだけど、相手はあんな怪ぶ……えー、ごほん、傑物なのだ。気持ちの整理にも時間がかかるのだろう。
そう思って、諦めておとなしく引き下がった。
このあとストーカー事件は新川センセーの愛の告白で締めくくられ、莉子が
「もう、全然わかんないんだけど! 何がどうしてそうなったんだと思う!?」
というとっちらかった電話をかけてくることになる。
それは本人に聞けば、と言ってみたけど
「無理! 聞いたら、何かこう……終わる気がする!」
と言っていた。
危機察知能力は相変わらずだ。新川センセーのはるか遠くの未だ見えない入念な囲い込みにすら、うっすら気づいている。
最後は、どっちが勝つんだろう。
* * *
「感謝してくださいね。初めて、莉子に隠し事をしたんですから」
新川センセーのマンションに行ったとき。
莉子が席を外している隙にボソッと言ってみた。
すると新川センセーは
「莉子のためにならない隠し事なら、しなかっただろう?」
とイヤーな笑みを浮かべた。
……こりゃ、私じゃ太刀打ちできないわ。
でも、莉子が相手だったらどうかな?
ヤツがどれだけ知略を尽くしたとしても、本能でトラップを避ける莉子には敵わないかもしれない。
頑張れ、莉子。
私はずーっと、莉子の「味方」だからね。




