第九十一話 決戦 Ⅳ
たった一発の弾丸が戦局を変えることがある。
参謀長は、その奇跡の瞬間を高台の指揮所から目撃していた。
北方辺境伯軍の放った一斉射撃は効果的とはいいがたかった。
倒した狼鷲兵は十騎に満たない。
だが、その僅かな数の中にあの男が含まれていたのだ。
望遠鏡の丸く狭い視界の中で、あの男が鞍から真っ逆さまに落ちるのを彼は確かに見た。
『馬鹿な!』
彼は望遠鏡をのぞき込みながら思わずそう叫んだ。
あの男が鍛え上げた傭兵隊は、もちろん長を失った程度で戦闘力を喪失したりはしなかった。
即座に反転。背後に出現した新たな敵に向けて隊列を整える。
(やめろ! やめるんだ! そうじゃない!)
参謀長はそう叫びそうになるのを必死で堪えた。
背後の安全を確保せねばならない。それは分かる。
隊長の仇も討たねばならぬ。それも分かる。
だが、あの男ならばそんな命令は決して出さなかったはずだ。
勝利はもう目前なのだ。
あの男であれば背後の敵にも構わず獲物に向けて突進し、陛下の首級を上げたに違いない。
例えそれで死ぬことになろうが、勝利の後であれば気にもかけない。
あれはそういう男だった。
だが、奴らはその勝利を自ら打ち捨てようとしている。
あの男は勝利をその手にしかけていたのだ。
それが、こんな形で失われていいはずがない。
こんな形で自分たちの生涯をかけた戦いに決着がついていいはずがない。
狼鷲兵が突進を開始した。
貧弱極まりない寄せ集めの北方辺境伯軍は瞬く間にその隊列を切り裂かれた。
彼らが一人斬り殺される毎に、あの男が掴みかけていた勝利が零れ落ちていく。
北方辺境伯軍が消滅するのにそう時間はかからなかった。
だが、その僅かな間に必死で駆け続けていた近衛軍の第一陣が、息も絶え絶えなまま布陣を開始した。
今の彼らは極めて脆弱だ。すぐに打ち破られるだろう。
だが、僅かな時間を稼ぐことができる。
その間に近衛軍の残りが続々と駆けつけてくるはずだ。
それらはさらなる時間を稼ぎ、やがて近衛全軍が到着することになる。
事実そうなった。
参謀長の周囲で幕僚たちが歓声を上げていた。
勝利は今や彼らの手の内にあった。
だが、参謀長の手の内にはなかった。
あの男にしてやられたという思いだけが残っている。
そして、再戦の機会は二度とやってこない。
あの男なら何と言っただろうか?
参謀長はぼんやりとそんなことを考える。
長い付き合いではあったから、大体想像できた。
”幸運にすぎない? だからどうした。勝利は勝利、敗北は敗北だ”
先の内乱も終わりに差し掛かったあの日、あの男はかすめた銃弾でへこんだ鉄兜を自慢げに指しながらそう言ったものだった。
そして今度は運がなかった。そういうことなのだろう。
『勝利は勝利、敗北は敗北、か』
もう一度、あの男の言葉を反芻してみる。
なるほど勝利には違いあるまい。
それでも、彼の胸の内は空しいままだった。
既に勝機は喪われたというのに、あの男の傭兵隊はなおも突撃を継続していた。
彼らが完全に磨り潰されるまでそう長くはかからないだろう。
『参謀長、あちらをご覧ください!
狼鷲兵です! 傭兵たちが戻ってきました!』
言われてそちらに目をやれば、千騎程の狼鷲兵が左翼軍の向こう側から駆けてくるのが見えた。
『よし、伝令を送れ。
そのまま賊軍右翼の側背を襲撃させろ』
あれだけ飛び回っていた竜もいつの間にか姿を消していた。
どうやら、あの恐ろしい怪物どもも継戦能力に何らかの制限を抱えているらしい。
再び右翼方向に望遠鏡を向ける。
人間どもは、敵中に取り残された竜とその護衛を取り戻すべく突撃を再開していた。
近衛軍の主力は陛下を守るために後退していたから、恐らくこの試みは成功することだろう。
だがそこまでだ。
彼らは既にその数を大きく減らしており、竜の支援ももはやない。
じきに戦線に復帰する近衛軍主力を撃破することは不可能だ。
主戦線はどうか。
賊軍は丘に敷いた陣地に拠って、いまだ頑強に戦い続けていた。
だが、その戦列は目に見えて薄くなっており、崩壊も時間の問題だ。
もはやこの戦場に脅威は存在しない。
勝利の果実は熟しきっている。後はそれが落ちてくるのを待つばかり。
『参謀長! 違います! 敵です!
あれは敵勢です!』
幕僚の誰かがそう叫んだ。
敵とは誰のことか。もちろん、先ほどの狼鷲兵のことだろう。
『馬鹿な! そんなはずがない!』
こちらは敵勢に倍する狼鷲兵を送り込んでいたのだ。
それをこの短時間で、それもほとんど被害を出さずに完全に撃破するなどできるわけがない。
『し、しかし、狼鷲兵は我が軍左翼を襲撃しています!』
事実であった。
左翼軍が背後からの攻撃を受けて崩れかけている。
それに呼応して賊軍右翼が一斉に突撃に移った。
一体どこにそんな力が残っていたというのか!
攻守が逆転した。
左翼軍は崩壊寸前。
混乱は中央にまで波及しつつある。
だが、右翼ではまだ近衛軍が優勢だ。
『近衛軍に伝達。
急ぎ人間どもを撃破し、賊軍中央戦列を側面攻撃せよ』
左翼軍はまだかろうじて持ちこたえている。
中央も浮き足立ってはいるものの数の上ではまだ優勢だ。
逆転の目はある。
そう思った矢先のことだった。
『参謀長! 竜です! 竜が戻ってきました!
腹に樽を抱えています!』
参謀長はうめき声をあげた。
竜どもは近衛軍の上空で次々と樽を切り離した。
いくつもの火柱が上がり、近衛軍の動きが止まった。
空いた穴を埋め、隊列を組みなおすためだ。
竜の救出を終えたらしい人間たちがゆっくりと後退していく。
そうこうしている間に、いよいよ左翼軍が崩壊し始めた。
一度崩れてしまえばあとはあっという間だ。
左翼軍の戦列が火にかけられたバターのように流れ出し、形を失っていく。
中央戦列に波及するのも時間の問題だろう。
もはや全ての勝機は潰えた。
『全軍撤退だ。
だが中央戦列にはもう少し持ち堪えてもらう。
皇帝陛下及び近衛軍が安全に後退できるよう、時間を稼がせろ』
『は!』
参謀長の指示を実現すべく、幕僚たちが慌ただしく動き始める。
その時、新たな報告が上がった。
『参謀長! 狼鷲兵と思われる集団が新たに出現しました!
今度こそ友軍と思われます!』
『遅い!』
そう叫びながら参謀長は望遠鏡を向けた。
その数二千程。帝国軍に所属することを示す軍旗も掲げている。
こちら側の軍勢であるのは確かだ。
確かだが、まだ距離が遠い。あれでは間に合わない。
彼らがほとんど無傷で、その上遅れて登場したのを見て参謀長はようやく合点がいった。
無傷なのは、本格的な戦闘をしていないからだ。
おそらく敵の指揮官はこちらの狼鷲兵を戦場から引き離した後、土地勘を生かして撒いたのだ。
言葉にするのは簡単だが、いかに地の利があるとはいえ容易にできることではない。
何者かは知らないが、恐るべき軍才の持ち主であることは疑いなかった。
『……全て、持っていかれてしまったな』
そう呟いてふと気づく。
つい先ほどまで、この戦は自分と『あの男』の戦いだと思っていた。
だが、違ったのだ。
この戦の真の主役は、あの狼鷲兵を率いている男だったのだろう。
『狼鷲兵は撤退援護にまわせ。
殿軍を務めてもらう』
『はっ!』
ここまでろくに働いていないのだから、最後の苦労ぐらいは背負ってもらわねばなるまい。
とはいえ、所詮は傭兵である。
負け戦となればどれだけ役に立つことやら。
参謀長は小さく息を漏らすと、今後の撤退計画について算段を巡らし始めた。
*
幸いにもヴェラルゴンの傷はさほど深刻なものではなかった。
傷が癒えさえすれば元通り飛ぶことができるだろうというのが古参の竜飼いの見立てである。
もちろん当面は大人しくしていなければならないし、感染症にも注意が必要だ。
竜は飛べないストレスで命を落とすことがままあるという。
半年も地上で過ごすのだから、リハビリも当然必要になる。
でもまあ、俺とこいつとなら恐らく乗り越えられるだろう。
そんな気がしている。
人類の傭兵軍はこの戦で参加兵力の三分の一を失った。
それだけの意義がある戦だった、と思いたい。
それは今後の俺の働き次第になるだろう。
無駄にするまいと心に誓う。
まあ、俺一人でやらなきゃいけないわけじゃない。
国王陛下はもちろん、メグやスレットも志を同じくする仲間である。
仲間がいるのだから何とかなるはずだ。
人類軍の宿営地に戻りヴェラルゴンが寝息を立てているのを眺めていると、〈黒犬〉がやってきた。
既に、あの決戦から丸一日が経っている。
なんでも昨夜は一晩中追撃を行っていたとのことだった。
ちなみに、人類軍は追撃戦への参加は見送っている。
戦闘による損耗が大きかったのもあるが、なにより敵味方の区別がつかないせいだ。
日中でもだいぶ怪しいのに、夜間となれば完全に判別不能になる。
それで同士討ちでも起こした日には今後の展開に大いに差し支える。
こういった連携上の問題は山ほどあった。今後の課題だ。
〈黒犬〉は俺の前にやってきて跪いた。
他の人間がいる前ではそうすることになっている。
そういう建前であり、取り決めだ。
俺がオークたちの方へ出向けば立場は逆になる。
〈黒犬〉が頭を垂れたままブヒブヒと何か言った。
花子が持つ石板に目をやると、人間への感謝と戦死者へのお悔やみが堅苦しい言葉で述べられていた。
俺は厳かに〈黒犬〉に立ち上がるよう命じ、それから花子共々ついてくるよう仕草で促した。
ここではどうにもやり難い。
人間の群れから十分に距離をとってから、その後の経過を訊ねてみる。
「それで、首尾はどうだった?
この戦は勝ったのか?」
奇妙な質問に思えるかもしれないが、戦闘の勝利者が必ずしも戦争の勝者になれるとは限らない。
こちらの損害もずいぶん大きかった。
追撃でしくじれば、態勢を立て直した敵が再度戦いを挑んでくる事も十分ありうる。
まだ勝利は確定していないのだ。
〈黒犬〉は花子が翻訳した俺の言葉を聞いて不機嫌そうに鼻を鳴らした。
馬鹿にするなとでも言いたげだ。
『夜通しで攻撃を継続し、十分な打撃を与えた。
敵は一目散に退却中である。
未確認ではあるが、竜による最後の攻撃で王が負傷したらしいとの情報も捕虜から得た。
国土の防衛は果たされたといっていいだろう』
なるほど。
それならこちらも骨折ったかいがあったというものだ。
「あなた方の勝利にお祝いを申し上げます、閣下」
俺はそう言いながら、〈黒犬〉に向かってオーク式の敬礼をして見せた。
「どうでしたか。我々の軍勢は。
我らの働きにはご満足いただけましたか?」
俺が礼をしたまま顔だけあげてそう言うと、〈黒犬〉はニヤリと笑った、ように見えた。
『無論、貴殿らにも感謝している。
支払った黄金以上の見事な働きをしてくれた。
貴殿らの活躍がなければ、我らの勝利もなかっただろう』
そうだろうとも。
「それで、今後はどうなるんだ。
戦はまだ続くんだろう?」
『残念ながらな。
いずれまた、貴殿らの力を借りることもあるだろう。
その時はよろしく頼む』
「できるだけ頻繁に呼んでくれると嬉しいな」
俺がうっかり本音を漏らすと、〈黒犬〉は嫌そうな顔をした。
そりゃそうだ。
『それでは我々が持たん。
黄金が無限に湧いてくるわけではないのだ』
「やりようはいくらでもあるさ。
俺たちにモノを売りつけて、黄金を取り戻せばいい。
技術はそちらの方が進んでいるからな。
高く売れるぞ。
あまり派手にやってもらっちゃ困るが、ある程度は俺も目をつむるよ」
〈黒犬〉は思案顔だ。ならばもう一押し。
「支払いは必ずしも黄金でなくていい。
食料や武器、火薬類の現物支給もありだ。
あるいは技術とかな。
技術指導者なんかを派遣してくれるなら大歓迎だ」
〈黒犬〉が俺をギロリと睨みつけると、唸るように鼻を鳴らした。
『最初からそれが目的か』
「邪な意図はない。
お前たちも、俺たちが強いほうが嬉しいだろう。
共存共栄というやつだ。
俺たちの力を必要としているのなら、お前たち自身にとっても有益だ。
でもまあ、警戒するのもわかる。
軍事技術についてはもっと信用を積み上げてからになるだろうし、それでいい。
落ち着いたらまたゆっくりと話し合おう」
〈黒犬〉は、話は終わりだと言わんばかりに短く鼻を鳴らして俺たちに背を向けた。
が、二三歩歩いたところで振り返ると、また何かブヒブヒと鼻を鳴らす。
花子がしまいかけていた石板を取り出して、その内容を書き付けた。
そこにはこう書かれていた。
『貴殿の名は何という』
名前。
名前ねえ。
「〈勇者〉と呼ばれている。
俺に用があるなら、それで通じるよ」
異世界にいる間はいつでもどこでも〈勇者〉で通じる。
それこそ不自然な程に。
俺の行く異世界では誰も〈勇者〉という存在を疑わない。
最初は疑っても、短期間でその存在を信じるようになる。
ガリルのような俺と対立する連中ですらそうなのだ。
たぶん、俺を送り込んでいる謎の存在がそうさせている。
俺が異世界に素早く馴染めるように。
その結果だろう。
〈勇者〉という役割を通してのみ、俺はその世界の人々に認知される。
俺の言葉を花子が翻訳して伝えた。
すると〈黒犬〉がまたブヒブヒと何か言う。
『それは、称号のようなものであろう。
私は、貴方の名前を知りたい』
〈黒犬〉が妙に食い下がってきた。
俺の名前なんて知ったところで、オークには無意味だろうに。
だが、こんなに俺の名前を気にしたのはあの娘ぐらいなものだ、
あまり邪険にするのもかわいそうなので名前を教えてやった。
ところが花子も〈黒犬〉もきょとんとしたままだ。
ああ、そうか。辞書にない言葉になるからな。
もう一度、俺の顔を指さしながら一音ずつゆっくりと発音してやる。
それで伝わったらしい。
さて、これで満足したかね?
今度こそ話は終わりだろうと思っていると、〈黒犬〉が口を開いた。
そうして、ア゛ァともゲェともつかない音を喉の奥から絞り出している。
どんなに努力したところオークの喉では人間の声なぞ出せるはずもない。
そもそもの構造が違うのだ。
だというのに、〈黒犬〉は必死に酷い音を出し続ける。
そのあまりに真剣な表情がかえっておかしみを誘い、俺は思わず吹き出してしまった。
〈黒犬〉がムスッとした顔でこちらを見る。
これは仕方ないだろう。お前のせいだぞ。
俺が形ばかりの謝罪をして見せると、奴は自分の顔を指さした。
そして鼻を鳴らす。
俺がきょとんとしていると、奴はもう一度自分を指さしながらゆっくりと鼻を鳴らした。
ああ、名前か。
俺も〈黒犬〉のマネをして鼻を鳴らしてみる。
変な音が出るばかりだ。
笑われた。
俺も一緒に笑った。
ひとしきり笑った後に聞いてみた。
「そういえば、お前らの方では俺のことを何と呼んでいるんだ?」
〈黒犬〉が鼻を鳴らした。
それを聞いた花子が戸惑うような表情を浮かべている。
多分、あまりいい言葉じゃないんだろう。
構わんと言って、花子にそのまま伝えるよう促す。
石板に書かれた文字は『魔王』。
なるほど。いいじゃないか。
「それでいいよ。これからもそう呼んでくれ」
勇者なんて呼ばれるよりも、こっちの方がずっと良かった。
これは俺自身につけられた呼び名だ。
〈黒犬〉がまた鼻を鳴らす。
『俺は何と呼ばれているのか』
黒犬だ、毛色の黒い犬のことだ、と教えてやるとつまらなそうな顔をした。
確かに〈魔王〉に比べると格は落ちるだろう。
だが、俺が名付けたわけじゃないんだからそんな顔をされても困る。
『さらばだ、〈魔王〉。
いずれまた、次の戦場で』
〈黒犬〉はそう言って一礼した。
「こちらこそよろしく。
また戦場で」
互いに礼を交わして、俺たちは別れた。
次回、最終話です。
今夜19時に更新します。




