第八十五話 真の王者
〈北の王都〉――少し前までは北方辺境伯の都――の広場にて、〈北の王〉の戴冠式が行われた。
広場には大勢の市民や難民が儀式を見届けようと詰め掛けていた 彼らがこの戴冠式に向ける視線は冷ややかなものだった。
これが戦乱の序幕に過ぎないことを誰もが理解していたからだ。
かつて〈北の王〉の戴冠式は聖樹と呼ばれた巨大な杉の古木の前で行われていた。
だがその聖樹はとうの昔に帝国軍によって切り倒され、炊事場の灰と変えられてしまっている。
そこで、常備連隊長らは新たに杉の若木を〈北の王都〉の広場に植えて聖樹の代わりとした。
これには新しい王国の誕生を象徴する意味合いもある。
広場の中央では、王冠がこの聖樹の枝に掛けられて新たな主人を待っていた。
その小さな聖樹の前に、半裸の子供が一人跪いていた。
彼こそが新しい〈北の王〉であった。
かつての〈北の王〉はその直系の血こそ絶えたものの、古い土着の王統の例に漏れず傍系としてその血統を幾筋にもわたって保存していた。
この子供もそうした古き王の血を引く一人である。
先の北方辺境伯の孫娘との結婚を見据えて、あえて年の近い幼児が選ばれた。
婚約は戴冠式の終わりに人々に告知され、新旧の支配者が一つになったことを知らしめる予定である。
衆人が見守る中、二人の男がゆっくりと男児に歩み寄ってゆく。
手にはそれぞれ毛皮のマントと酒の入った壺を携えていた。
彼らは帝国内で広く信仰されている神々に仕える司祭たちであった。
まず壺を携えた男が男児に一礼すると、彼の頭に赤い葡萄酒を振りかけて清めた。
続いて、マントを携えた男が男児にそのマントを着せた。
こうして男児は彼らの神々より祝福された者となった。
続いて、それぞれ槍と盾とをその手に携えた二人の男が男児の下にやってきた。
彼らは北の地に土着する木々の神々に仕える僧だった。
二人の僧は男児を立ち上がらせると、その手に槍と盾とを握らせた。
男児は、聖なる木々より力を授かった者となった。
それらが終わると、それぞれの神に仕える四人の男たちは男児の前に跪いた。
あとは男児が自らの手で枝に掛けられた王冠を取り、頭にのせれば儀式は完成する。
ところが、その男児がピクリとも動かなかった。
僧の一人が微かに顔を上げて小声で冠を被るよう促したが、かわいそうな幼い男児は血の気の引いた顔で立ちすくむばかりだった。
無理もない。
いくら王の血を引くとはいえ、それも遠い昔のことだ。
帝国の支配下では地位や権力など与えられるはずもなく、今ではほとんど庶民と変わらぬ暮らしをしていたのである。
年は七歳。ついこの間まで、近所の悪童どもと虫取りをして遊んでいた。
それが急にこのような場に引きずり出されればこうもなろう。
民衆はすぐに異常を察した。
張り詰めた空気の中で、微かなざわめきがそこかしこで広がり始める。
その異様な雰囲気にのまれ、男児の顔がますます強張っていく。
男児の前に跪いていた聖職者たちが今一度彼に王冠を取るよう促したが、もはや彼は完全に身動きが取れなくなっていた。
その時、一人の男が動いた。
それはクーデターの首謀者の一人と目されている傭兵隊長だった。
先の辺境伯の孫娘を人間どもから救い出した英雄である。
彼は王の護衛者として聖職者の背後に兵士たちと共に控えていた。
彼はひとりその列を抜けだすとツカツカと王の御前に進み出た。
そうして国王陛下に一礼した後、王冠に手を伸ばし、それを幼王の頭に被せた。
これはある種の偶然に過ぎなかった。
それが常備連隊長でも元帝国伯でもなかったのは、ただ彼が護衛として王の最も近くに控えていたからだ。
それでもその光景は象徴的に過ぎた。
少なくとも、民衆がこの新たな国の真の支配者について誤解するに十分だった。
〈黒犬〉は王冠を被せると、王の前に跪き頭を垂れた。
非礼を詫びるための仕草であったが、儀式を見守っていた人々はそうは捉えなかった。
彼が一番に国王に忠誠を誓ったのだと考えた。
それは、臣下筆頭であることを主張することと同じであった。
新たな王が誕生し、式次第に従って国家の重鎮たちが順に国王陛下の前に進み出てきた。
一番最初にやってきた常備連隊長は、〈黒犬〉に小声でその場に控え続けるよう指示した。
かくして〈黒犬〉の地位は承認され、誤解は事実となった。
そんなささやかなアクシデントがあった他は、戴冠式はおおむね順調に進んだ。
新政府の閣僚としてこの戴冠式に招かれた者の中には帝国系の貴族であったものも少なくなかったが、誰一人として異議を申し立てる者はなく静かに忠誠を誓っていった。
そしていよいよ最後の一人が忠誠を誓い、儀式が終わりを迎えようとした時にそれは起きた。
広場のはるか上空から突如として咆哮が轟き、オークたちは空を見上げた。
そこには白く巨大な竜が、雲一つない透き通った青空を背負って翼を広げていた。
それは数多くの村々を焼き払ったあの悪魔の獣であった。
難民たちの中には叫び声をあげながら逃げ出そうとする者もいたが、各所に配置されていた兵士たちが彼らを落ち着かせた。
もっとも大半の者は落ち着かせるまでもなく、ぼんやりと口を開けたまま、優雅に空を舞うその姿を見つめるばかりであった。
恐怖すら忘れさせてしまうほどに、その白い竜は美しかった。
白竜は広場の上空を大きく旋回しながら高度を下げると、ゆったりと新しい王の前に降り立った。
その背には一人の人間が跨っていた。
この人間こそが開拓地を恐怖のどん底に陥れたあの〈魔王〉であると、広場にいた誰もが確信した。
そう感じさせるだけの禍々しい気配をその人間はまとっていた。
彼は竜の背から周囲のオークたちを睨めつけるように見回した。
その姿はかの人間が放つ恐ろしげな雰囲気とは裏腹にひどく緊張しているように見えた。
まるで怯えているようではないか。
彼は竜の背から降りると、その首に手を伸ばしてその頭を抱き寄せた。
そうして竜の頭を撫でるその姿は、まるで別れを惜しむかのようだ。
広場に集まった全てのオークたちが固唾をのんで見守る中、〈魔王〉は竜からその身を離し、新王の前に進み出た。
竜から身を離した途端、人間の体から放たれていた禍々しい気配が消えた。
ちらちらと不安げに竜を振り返る様は、臆病で弱々しくすら見えた。
そして〈魔王〉は彼らの王の前に頭を垂れて跪いた。
その驚くべき光景にどよめきが起きる。
ここにきてようやくオークたちの呪縛が解けたのだった。
〈魔王〉は幼王の前に頭を垂れたまま何か言葉を発した。
王の傍らに控えていた〈黒犬〉が、大声でその言葉の意味を伝えた。
『陛下!
この者はこれまでの非道な行いを悔い、陛下の御慈悲に縋りに来たと申しております。
かくなる上は、陛下に忠誠を誓い、その求めに応じて軍兵を提供し、
陛下のお役に立つことで罪を償いたいと申しております』
〈黒犬〉の声を聞き取れた者がそれを周囲の者に伝え、瞬く間に広場中にいきわたる。
〈魔王〉の忠誠が新王に向けられたものではないことは明白だった。
だがそれは何ら問題にならなかった。
その対象は今、彼らの目の前にいるのだ。
ならば同じことだ。
広場が歓声で満たされた。
その声に驚いてか竜が吠えた。
本能的な恐怖を煽る咆哮が広場に轟いたが、もはや民衆を怯えさせることはできなかった。
竜が恐ろしければ恐ろしいほど、それを服従させた者の強さの証明となる。
我々の真の王は強い。
彼ならば、いかなる敵からもこの北の王国を守り抜いてくれるはずだ。
誰もがそう信じた。
人間が再び竜にまたがり、飛び去った後も歓声は止まなかった。
理性ではなく熱狂が彼らの心を塗りつぶしていた。
もはや、この新たな王国の誕生に不安を抱くものはこの場にはいなくなっていた。
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