第八十四話 魔王の誘惑
『より良い提案がある。
その資金で人間を雇うべきである。
私はその仲介をすることができる。
と、我が主人は申しております』
元侍女が訳したその言葉を聞いて、〈黒犬〉は己が耳を疑った。
人間の軍勢を雇い入れるだと?
彼の中の常識は即座にその提案を否定した。
開拓民たちはこれまでずっと人間の脅威に晒され続けてきたのだ。
親しい者を殺された、あるいは攫われた者は数知れず、その恨みは彼らの間に深く根付いている。
そんな人間どもに金を払うだけでも、民に知られれば裏切りと見なされかねない。
先の辺境伯ですら、娘を取り戻す交渉を行うにあたって極力他者に知られぬよう気遣っていた程である。
この上怪物の軍勢を自らオークの領域に招き入れるなど到底許されるはずがない。
『有難い申し出であるが、受け入れることはできない』
〈黒犬〉自身、目の前の〈魔王〉本人を信じることはできても、それ以外の人間たちまで信じることは難しかった。
しかし、〈魔王〉はなお言葉をつづけた。
『今回の提案はあなた方の利益にもなると同時に
人間とオークの新たな関係への最初の一歩になるものと期待している。
どうか受け入れて欲しい、と我が主は申しております』
『新たな関係とはなんだ』
『同盟である、と我が主は申しております』
『同盟だと!?』
『はい。ただの和平ではなく、その先。同盟である。
それは共に手を取り合い、危機に対して協力していく関係である。
軍事的な雇用関係はそれに向けた最初の前例となる、と我が主は申しております』
〈黒犬〉は目を見開いて〈魔王〉を見た。
〈魔王〉は片膝をついたまま、まっすぐに〈黒犬〉の眼を見据えていた。
『そんなことが、できるわけがない』
〈黒犬〉の言葉を元侍女が石板に書き取り、〈魔王〉に見せた。
〈魔王〉は一瞬だけ石板に目を落とすと、〈黒犬〉に視線を戻して口を開いた。
『だが、貴方と私は共に戦った、と我が主は申しております』
『もちろんだ。俺自身は貴殿に含むところはない。
貴殿となら共に戦える。
だが、オークと人間は無理だ。
どれだけの者が人間に恨みを抱いていると思う!
奪った者はそのことを忘れていても、奪われた者は決して忘れはしないのだ!』
『人間とオークの間に、多くの不幸な歴史が横たわっていることは承知している。
最初から信用しろなどとは言わない。
だからこその雇用関係である。
黄金は、人間とオークに共通する信用基盤となり得るはずだ。
どうか私たちに信用を積み重ねる最初の機会を与えてほしい、
と我が主は申しております』
『なぜだ。
なぜそこまでする必要があるのだ。
お前たち人間に何のメリットがある!』
〈黒犬〉の問いに、〈魔王〉の言葉が止まった。
それからしばらく迷うような――多分そうだ――表情を見せた。
『正直に話そうと思う、と我が主は申しております』
言葉が再び途切れた。
〈魔王〉は視線を落として何か考え事をしているように見えた。
ややあって再び視線を戻した〈魔王〉は、意を決したように口を開く。
『もはや我々はオークに対抗できなくなりつつある。
我々は滅びに瀕している、と我が主は申しております』
その一言に〈黒犬〉は衝撃を受けた。
彼にとって、人間はいまだ強大な敵であった。
人間どもの軍勢を打ち破るにはその何倍もの兵を用意せねばならない。
空を行く竜の眼が届く範囲は広大で、少なくとも主力同士の決戦では奇策はほとんど通じない。
竜の不在時に行われた先の大会戦はある種の奇跡であったのだ。
片や、彼らの敵である我らはどうか。
偉大な指導者であった先代辺境伯は既に亡く、その後釜を巡って結束は乱れている。
竜の空襲によって広大な開拓地と、そこを基盤にした開拓民兵を失い、その上南からは帝国軍が攻め寄せつつある。
今、滅びに瀕しているのはむしろこちらではないか。
『お前たちが我々に?
逆ではないのか?』
だが、〈魔王〉は首を振りながらその問いに答えた。
『仮にこの混乱に乗じてあなた方を破ったところで、我々の置かれた状況は好転しない。
新たな敵、それもより強力な集団と相対することになるだけである。
あなた方は今後も文明を発展させ、より強力な武器を作っていくはずである。
対して私たちはどうか。
あなた方が持つ武器を模倣することすらできていない。
いずれ、人間はオークに抵抗することすらままならなくなる。
そうなる前に、私たちはあなた方との関係を改めなければならない、と我が主は申しております』
〈黒犬〉はじっと〈魔王〉の顔色を窺った。
詐術の気配はない。言っていることにも筋は通っている。
そんな彼に、〈魔王〉は追い打ちをかけるように言葉を続ける。
『だが、それはまだ未来の話である。
今の時点であれば、私たちは強力な援軍を提供することができる。
銃弾を弾く魔法の盾。
それに防護された、圧倒的衝力を持つ騎兵。
空から戦場を俯瞰し、炎でもって敵を焼き払う竜。
いずれをとっても、あなた方の役に立つことができるはずである、と我が主は申しております』
〈黒犬〉の脳裏に、人間の軍勢が彼に向けてではなく、彼の敵に向かっていく光景が浮かんだ。
それは抗いがたい誘惑であった。
『……一人では判断しかねる。
この提案を持ち帰って検討する時間をいただきたい』
そう言うのが精一杯であった。
だが〈黒犬〉には分かっていた。
常備連隊長はもちろん反対するだろう。
しかし大叔父は間違いなくこの提案を勝機とみるはずだ。
そしてあの手この手で誘いをかけて、最後には常備連隊長を説得してのけるに違いない。
つまりこの提案を持ち帰ること自体が、それを受け入れると同義なのだった。
『承知した。
だが、受け入れるにせよ拒否するにせよ、早めに返答が欲しい、と我が主は申しております』
そんな事情を露ほども知らぬ〈魔王〉が言う。
『私たちは、今の不幸な関係の改善を望んでいる。
どうかそのことを忘れずにお伝えいただきたい、と我が主は申しています』
物語に登場する魔王は、その邪悪な力を振るうだけではなく、様々な甘言を弄して英雄たちを誘惑することがある。
英雄たちは皆その誘惑を退けるが、さて自分はどうだろうか?
大叔父を受け入れた時と同様に、自分は今、ろくでもないものをまた一つこの世界に解き放とうとしているのではないか?
そんな不安がじわりと彼の心にまとわりつき始めた。
『そのような殊勝なことを言ったところで、結局はお前が戦いたいだけだろう』
不意にそんな言葉がこぼれ出てしまった。
元侍女が不安そうな目で彼を見つめていた。
本当に今の言葉を訳していいのかと、そう言いたげな様子であった。
〈黒犬〉が我に返ってその言葉を取り消すよりも先に、〈魔王〉が元侍女に何か言った。
どうやら今の言葉を訳すように促したらしかった。
彼女が不安げな表情のまま〈黒犬〉の言葉を石板に書き起こすと、〈魔王〉はすぐに覗き込んだ。
そして、その口元を微かに歪ませる。
〈黒犬〉の眼には、それがまるで自嘲しているように映った。
『如何にもその通りだ、と我が主は申しております』
そして、彼は自身の腰に吊った剣をポンポンと叩いた。
『人間には、金槌を持つ者には全ての問題が釘に見える、という諺がある。
そして私の金槌はこれである、と我が主は申しております』
それから、彼は口元の歪みを正して真っ直ぐに引き結び、さらに言葉を続けた。
『私は戦いを通じてしか人々と関わることができない。
それでもせめて、人々の役に立つ形でその関わりを結びたいと考えている、と我が主は申しております』
それは酷く歪な言葉であった。
だが、真実を語っているのだと〈黒犬〉は理由もなく確信した。
『承知した。貴殿の言葉、必ず伝える』
その言葉を元侍女が伝え終わるのを待って、〈黒犬〉は続けた。
『確約はできないが、前向きな回答を用意できるものと考えている。
だがその場合にも、一つ条件を付けることになるだろう。
よろしいか』
『条件とは何か、と我が主は申しております』
〈黒犬〉がその条件を告げると、〈魔王〉は楽し気にその口を歪ませた。
次回は3/24を予定しています




