第八十二話 〈鉄の王冠〉
『鉄の、王冠……』
『王冠? これが?』
常備連隊長からこぼれ出たその言葉を聞いて、〈黒犬〉は思わずそう聞いてしまった。
王冠と呼ぶには、それはあまりにも貧相な代物だった。
『そうだ。
ワシも言い伝えに聞いたことがあるだけ……だが、間違いない。
まさに伝え聞いていた通りだ。
これは〈北の王〉、かつてこの地を支配していた王達が、その権威の象徴としていた〈鉄の王冠〉だ』
そう答えた常備連隊長の声は震えていた。
彼は震えを抑えるような手つきで箱の中の王冠に手を伸ばし、しかし触れる直前に引っ込めた。
それから努力して視線を王冠から引き離すと、大叔父に向き直った。
『〈鉄の王冠〉は〈北の王〉が帝国に膝を屈した折に、帝都に持ち去られたはず。
これをどこで……』
大叔父はごく軽い調子で答えた。
『帝都の宝物殿で見つけましてな。
何かの役に立つだろうと退職金代わりに頂いてきたわけです。
ワシのこれまでの功績を鑑みれば、この位は貰っても罰は当たらんでしょう』
常備連隊長が恐る恐る問いを重ねる。
『こ、皇帝陛下はこのことをご存じで……?』
『知らんでしょうな。
しかしまあ、それも時間の問題です。
いくらかの小細工はしてきましたが、さすがにもう気付く頃かと』
それを聞いて常備連隊長の血相が変わった。
『何ということを!
まさか、初めからこうするつもりで……!』
『いやいや、さすがにそれは。
戦の気配を感じていたのは確かですがな。
まあ、足跡を残すようなへまはしておりません。
何事もなければ、何食わぬ顔で倉庫に戻して終わらせるつもりだったのですよ。
だが――』
大叔父はそこで言葉を切り、口角を上げて牙をむき出しにした。
『本国と事を構えるというのであれば、これが役に立つ。
戦には大義がいりましょう。
〈北の王〉が再び立つのです。
〈北の民〉にとってこれ以上の大義は無かろうと存じます』
『〈北の王〉……』
常備連隊長が呆けたように呟き、再び王冠に視線を落とした。
『そう、〈北の王〉です。
なるほど、先代の辺境伯は偉大でしたとも。
だがその前はどうですか?
貴殿は覚えているはずです。
この地の富を吸い上げ、帝都で浪費する寄生虫どもが大勢いたことを。
土地も民もやせ衰え、北の怪物どもは放置され好き放題に暴れまわっていたことを。
最後の〈北の王〉が、戦わずして膝を屈した結果がこれだ。
帝国の支配下にある限り、いつあのような時代に戻るか分らんのです。
北の大地は、この地に住む者によって治められなければなりません。
この地で、民と共に生きる王が必要なのです!
〈北の王〉は死んだ。
だが、幸いにして王冠は残された。そしてこの地に戻った!』
常備連隊長が反駁しようと鼻を膨らませ、しかしそれは言葉にならずただうなり声となるにとどまった。
その目は、じっと王冠を凝視し続けていた。
『起つべき時が来たのです!
今一度、戦おうではないですか! 〈北の王国〉を蘇らせましょう!
それこそが貴殿の一族の悲願でもあったはず!
今度こそ、この王冠を守り切り、一族の雪辱を果たすのです!』
常備連隊長の喉がゴクリと音を立てた。
『だ、だが……勝てるわけがない。
帝国軍は強大だ。
戦いを挑んだところで……』
『そうとも言い切れませんぞ。
いかに本国軍とて、全ての兵力をこちらに向けられるわけではありませんからな。
こちらに送り込める兵力には限度があります。
本国では、北方辺境伯軍の動員能力を最大六万程度と見積もっておりました。
だからそうですな、派遣軍が八万を下回る事はないでしょう。
だが、兵站を考慮すれば、十二万を超えるとも考えにくい。
いずれにせよ、それだけの大軍を人口密度の低いこの地で養うは至難の技。
奥地へと引き寄せ、弱らせたのちに決戦を挑めば十分に勝機はあります』
『焦土作戦か』
常備連隊長が眉間に皺をよせ、唸るように言った。
『いかにも。
しかし本国軍もその程度は当然予想しているはず。
この北部で冬営などという愚は犯しますまい。
であれば、本格的な侵攻開始は来春となるでしょう』
『準備を整える時間はあるか……。
しかし、焦土作戦を遂行するには安全な後背地が必要だ。
我々の背後は常に人間に脅かされている。
ここはやはり――』
『お気持ちはよく分かります。
ならば、背後の不安を取り除けばよい』
大叔父はここで言葉を区切り、〈黒犬〉に視線を向けた。
『再び人間どもと交渉してみましょう。
あの怪物どもも、一度は黄金での取引に同意したのです。
ならば、黄金で平和を買うことも出来るはずです』
その言葉を聞いて、どういうわけか常備連隊長が息を呑み、表情をこわばらせた。
思わぬ反応に大叔父が怪訝な顔をする。
『どうされました。
そこまで奇異な考えでしたか?』
『いえ……先代辺境伯が生前同じようなことを言っておりました。
いずれにせよ、背後の危険が減るのであれば試す価値はありますな』
常備連隊長が〈黒犬〉に向き直る。
『頼めるか?』
『はい、交渉すること自体は可能です。
しかし結果については保証いたしかねます』
あの人間は、〈魔王〉は、戦いの最中に嗤っていた。
あれほど楽しそうに戦う者を〈黒犬〉は見たことがない。
『それでいい。
よろしく頼む』
*
打ち合わせを終え、大叔父と共に常備連隊長の執務室を出る。
『大叔父上』
〈黒犬〉は立ち去ろうとする老将の背中に声をかけた。
『なんだ、又甥よ』
足を止め振り返った大叔父に、彼は一つの疑問をぶつけた。
『まさか死に場所を求めてこの地にお出でになられたのではないでしょうな』
『まさかまさか。
最初から負けるつもりで何が楽しいものか。
敵は強大な方が楽しめるのは確かだがな、やるからには勝つ』
大叔父は薄い笑いを浮かべて答えた。
『今度の戦もまだまだ捨てた物ではないぞ。
なにせ前はもっと酷かった。先の内戦に参加した時だ。
敵は西方辺境伯の支援の下、帝国の大半を手中に収めた第二皇子とその軍勢十万。
対するワシの手元にはたった五十人のゴロツキと、気弱なボンボンが一人いたきりだ。
それでも勝った。
そして今度はどうか。
鍛え抜かれた精鋭狼鷲兵が八百騎、お前ら傭兵でさらに六百騎、おまけに北の辺境伯軍まで味方に付いている。
負ける方が難しいわい』
楽しげに語る大叔父に、〈黒犬〉は反論した。
『あの頃とは状況が違います。
もはや群雄割拠の時代は終わり、我らに味方する者はいません。
一度や二度は勝てたとしても、いずれ帝国全土から兵が押し寄せ我らはすり潰される事になるでしょう』
『そうとも言い切れんぞ』
ニタリと笑った大叔父の口元に、またあの不気味な影が差した。
『まさに、その一度か二度の勝利があれば良いのだ。
何なら引き分けでもいい。
帝国本軍に大きな打撃を与えることさえできればな。
そうなれば西の辺境伯が動く。必ずだ。
先の内戦に敗北して以来、奴らはずっと復讐の機会を窺ってきたのだ。
降って湧いた好機に動かないはずがない』
大叔父が〈黒犬〉の肩に手を置いて続ける。
『そうなれば帝国は再び割れる。
平和な時代は終わりだ。我々の時代が戻ってくる。
共に楽しもうじゃないか』
そう言って、大叔父は〈黒犬〉に背を向けて去っていった。
残された〈黒犬〉はその場に呆然と立ち尽くす。
自分は何かとんでもないものをこの世界に解き放ってしまったのではなかろうか?
確かに生まれた時代が遅かったと、そう嘆いたことはある。
だが、自ら戦乱の引き金を引くことになろうとは思ってもみなかった。
元はと言えば、辺境伯の孫娘を助け出そうという、ただそれだけのことだったはずなのだ。
それなのに、いったいどこで間違えたというのか。
そして大叔父に恐れを感じると同時に、自身の心の片隅が沸き立っているというその矛盾に彼は戸惑いを隠せなかった。
次回は3/10を予定しています。




