第八十話 脱獄
「それで、貴殿が後のことを任されたと。
そうおっしゃられるわけですな?」
そういう羆男の声にはひどく棘があった。
さもあろう。
これまで散々苦労して積み上げてきた準備がすべて無駄になろうとしているのだ。
機嫌が悪くなるのも当然である。
「はい、そうなります」
軍議の間の、国王陛下の席の脇に立って俺は答えた。
陛下の席は空っぽである。陛下は今、大変にお忙しい。
リアナ姫のそばから片時も離れるわけにはいかないのだ。
少なくとも陛下はそうおっしゃっておられる。
ならばリアナ姫も軍議の間に連れてくればいいではないかと思うだろうがそれはまずい。
あのようなお姿を諸侯に見せてしまえば、陛下の威厳が損なわれること必定である。
そうなれば人類の結束にひびが入りかねない。
人間とは仕える相手に何かしらの強さを見出そうとするものだからだ。
甘えんぼの坊やのために命を張ってくれるのは親ぐらいなものである。
まあ、もうしばらくすれば陛下も満足していくらかは落ち着いてくれるはずだ。
それまでの辛抱である。多分。
「陛下は、私に遠征の中止を指示なされました」
軍議の間に詰める諸侯らから怨嗟とも安堵ともとれる呻きが漏れた。
何とも言えない弛緩した空気の中、羆男が敢然と立ちあがった。
「馬鹿な! 我らがどれだけの苦労を重ねて準備をしてきたのか、貴殿もよくご存じのはずだ!
兵糧一つとっても、集めるのにどれ程の努力と金銭が必要であったことか!
民に飢えまで強いて、ようやく、ようやく――!」
なにしろ、去年は王国全体で不作気味だった上、オーク領からの収穫まで途絶えていたのだから兵糧集めはさぞ大変だったことだろう。
気持ちはよくわかる。
「では、余った兵糧を民に開放して飢えをしのがせるというのは――」
「ふざけるな!」
ですよね。
奪ったものを「もういらなくなりました」と返したところで、感謝されるわけがない。
彼らの手元には領民の恨みと、軽くなった財布だけが残るのだ。
わざわざ金を出して恨みを買ったような塩梅である。
「しかし、これは陛下のご意志でありますから……」
「しらじらしいことを! 貴殿が陛下の背後でコソコソと動き回っていたのはここにいる全員が知っている!」
まるで俺が陛下を陰から操っているかのような言い草だ。
そんなことができると思うのならやってみるがいい。
俺には無理だ。むしろ陛下に操られている。
「すべては貴殿の差し金であろう! 貴殿が――」
そこまで言って彼はぐっと言葉を飲み込んだ。
そうだろうとも。
まさか「姫殿下を救出しなければ」などとは口が裂けても言えまい。
「ガリル殿も、皆様方も、どうかここは抑えていただきたい。
ご活躍の機会は必ず用意いたします。
ただ、いまはその時ではありません。
勝利には準備が必要なのです」
「何が準備だ! 戦支度はまさに整っている!
今更何を用意するというのか!」
「なにも兵の支度だけが戦の準備ではありません。
敵を弱らせる工夫も必要です」
「そんなことできるわけがない!」
「ではお聞きしますが、この中にリアナ殿下をお救いできると考えた方は一人でもいましたか?
いないでしょう。
しかし私はやり遂げました。
今度もやり遂げて見せます」
無理筋にも程がある強引な理屈である。
しかし、俺の無駄に堂々とした態度に羆男が怯んだ。
得体のしれない何かを見るような目をこちらに向けてくる。
やはり実績があると言葉に説得力が出るな。
でもそんなに怖がらないでほしい。
俺だってできるなら君と仲良くしたいと思っているのだ。
ともかく議論を打ち切るなら今がチャンスだった。
「では、陛下が新たに定めた方針は確かに伝達いたしました。
今季は討伐隊を送り出さぬよう、くれぐれもお願いいたします」
言うだけ言って、反論される前に退出する。
疲れた。
果敢派の諸侯の相手をしてささくれだった心を癒すべく、俺は〈大竜舎〉へ向かった。
空を飛べば少しは気分がすっきりすると思ったのだ。
〈大竜舎〉に近づくにつれ、数騎の竜が何やら飛び回っているのが見えてきた。
あの赤いのはカイルだな。竜の腹に何やら樽のようなものを括り付けている。
いったい何をしているんだろうか。
カイルが樽を縛り付けていたロープを切った。
樽が竜の腹を離れて落下していく。
お、発火した。
樽が地面に激突し、小さな火柱が上がる。
なるほど、樽爆弾か。面白いことを考えたものだ。
落下現場に行ってみると、そこではリーゲル殿をはじめとした数人の竜騎士が樽爆弾の残骸を囲んで何やら議論していた。
「こんにちは」
俺が声をかけると、リーゲル殿が振り返った。
「おお、これは勇者様。
中々にお疲れのご様子。
軍議の方はまとまりましたかな?」
「ええ、どうにか。
ところでこれは何をなさっているんですか?」
俺が燃え尽きた樽の残骸を指して訊ねる。
「若い連中が少しでも戦の役に立ちたいと言い出しましてな。
炎の間合いまで近づけぬのなら、銃の射程より高いところから物を落そうと、そういう実験をしておるのです。
まあこういった意見は定期的に出てくるのですよ。
そのたびに色々と試みさせはしますが、成果が出たためしはございません」
リーゲル殿は眉間にしわを寄せながらそう言うが、その口調はまんざらでもなさそうだ。
若手が自主的に創意工夫を試みること自体は歓迎しているのだろう。
「以前はせいぜいが石や小型の矢を上空からばらまく程度の意見しか出ませんでした。
その程度では嫌がらせ程度にしかなりません。
それに比べれば今回の案は期待が持てると思ったのですが……」
聞けば、樽に鍛冶屋草を詰めて投下する実験をしていたのだという。
道理でよく燃えていたわけだ。
学僧や職人たちの協力を得て、紐を引くだけで着火させられる装置も作ったらしい。
こちらは戦利品の銃から発火装置を取り外して作ったそうだ。
前装式銃を持った兵士は雨に弱いのと同じぐらい火にも弱い。
悪いアイディアではなさそうだが、さて。
「落下の衝撃で鍛冶屋草が飛び散り、あたり一帯に炎をまき散らす予定だったのですがな。
思ったほど鍛冶屋草が飛び散らんのですよ」
リーゲル殿はかなり不満そうだ。
焦げ跡の範囲を見る限りオーク兵を十匹も巻き込めれば上等と言ったところか。
悪くない威力ではあるが、命中率の問題もある。
訓練次第ではあるが、五十騎の竜が一斉に投弾したとしてはたして何発が狙った場所に落ちるだろうか?
半分が命中したとしても殺傷できる数は三百に満たない。
かつて竜騎士が担っていたような決戦的役割を果たせるかと言えばかなり厳しそうだ。
それでもまあ、兵器の価値は殺傷力だけで量るものでもない。
「なかなかいい兵器だと思いますよ。
見た目は随分と派手でしたし、あれなら敵を怯ませる効果も大いに期待できます。
特に初見のインパクトは絶大でしょう。
改良していく価値はあると思います」
俺がそういうと、リーゲル殿はフムと唸った。
*
『簒奪者どもめ……薄汚い泥棒どもめ……!
北方辺境伯領は俺のものだ……俺が受け継いだのだ……俺のために用意されたものだった!
父上は確かにそうおっしゃったのだ!
渡さん……絶対に渡さん……』
〈ドラ息子〉は独房の壁に向かってこのようなことを延々と呟き続けていた。
その声には狂気の色が漂い始めていた。
ふいにその呟きが止まった。
何者かがこの独房に近づいてくる気配を感じたからだ。
配膳係ではありえない。食事は先ほど済ませたばかりである。
看守の定期巡回もまだ先だ。
〈ドラ息子〉は独房の隅で身を縮ませ、息をひそめてできるだけ気配を消そうと努めた。
無駄とは知りつつも、そうせずにはいられなかった。
裁判など形ばかりのことに過ぎない。
次にここから出されるときは死ぬ時なのだ。
だが、無情にも彼の独房の前でその足音は止まった。
鍵の回る音に、〈ドラ息子〉は思わず小さな悲鳴を漏らして目をつむる。
『閣下! お気を確かに』
耳元で聞き覚えのある声がする。
恐る恐る目を開くと、そこにいたのはあの〈腰巾着〉だった。
『お、お前……生きていたのか!』
『はい、閣下。
助けに参りました』
〈ドラ息子〉の全身から力が抜けた。
まさかこの期に及んで助けが来ようとは!
安堵のあまり、乾いた笑いが洩れた。
『静かにしろ。さっさと出るぞ』
押し殺した、しかし鋭い声が入口から聞こえた。
〈ドラ息子〉はそこで初めてもう一人の男の存在に気付いた。
看守の制服を着てはいるが、それとは明らかに一線を画す剣呑な雰囲気の男だ。
〈腰巾着〉が顔を寄せ、声を落として言う。
『ここに来られたのも、あの男の手引きのおかげなのです。
さあ参りましょう。時間がありません』
〈ドラ息子〉と〈腰巾着〉は、男の先導で独房区を抜け地下の奥へと進む。
『どこへ行くのだ』
そう訊ねても男は答えない。
一行がたどり着いたのは便所であった。
その一角が崩れ、下水道への入口が開いている。
〈ドラ息子〉は漂う悪臭に顔をしかめた。
『ここを通るのか?』
思わずそう聞いてしまった。
水路は狭く、通り抜けようと思えば這って進むほかはない。
濁り切った水の中を、得体のしれない何かが流れていくのが見えた。
『死にたくないならな』
男はそれだけ言うと、手にしていたランタンの持ち手を咥えて水路に潜り込んでいった。
ビチャビチャという湿った音が、水路の中を遠ざかっていく。
『ま、待ってくれ!』
〈ドラ息子〉は慌てて穴の前に屈みこみ一瞬だけ躊躇った後、男を追って水路に潜り込んだ。
〈腰巾着〉がそのすぐ後に続いた。
あまりの臭いに息が詰まった。息を吸おうと口を開けば跳ねた汚水が容赦なく入り込んでくる。
四つん這いで進めば掌に何か柔らかい泥のようなものが触れた。
〈ドラ息子〉はその正体を思い浮かべ、すぐに頭から振り払った。
今はそのようなことを考えている場合ではない。
男の持つランタンの明かりを頼りに汚水の中を這いまわることしばし。
一行は狭い枝管を抜け下水路の本管に出た。
ありがたいことに、そこから先は立って歩くことができた。
悪臭は相変わらずのはずだが、既に鼻が利かなくなっている。
複雑に入り組む下水路の中を男は迷うことなく進んでいく。
『ここだ』
不意に男が立ち止まった。
下水路の壁に、頑丈そうな鉄の扉がはまっている。
『持っていろ』
そう言って手にしていたランタンを〈ドラ息子〉に押し付けると、男は腰の物入れから一本の鍵を取り出し扉を開けた。
扉の奥には梯子があり、上へと続いていた。
男が先に上り安全を確認した後、合図を待って〈ドラ息子〉らも梯子に手をかける。
汚泥に塗れた手足がヌルヌルと滑る。
どうにか登り切ると、そこは倉庫のような小部屋だった。
壁際に積まれた道具を見るに、下水夫たちが掃除道具を片付けておくための場所なのだろう。
『着替えろ』
男が指さす先には、三着のくたびれた作業着が畳まれていた。
黙々と着替え、倉庫から出る。
外にでると暖かな日差しが〈ドラ息子〉の眼を灼いた。
思わず眇めたその目尻に涙が溜まる。
『このまま街を出る。
憲兵どもが市門を見張っているが堂々としていろ。
大丈夫、ばれっこない。
何か言われたら、川へ水浴びに行くのだと答えればいい』
男の言う通りであった。
街の外に通じる門では物々しい雰囲気の憲兵たちが出入りする人々に鋭い視線を投げかけていたが、悪臭漂う下水夫の一行に対しては迷惑そうに一瞥をくれただけだった。
男に従い、川べりに向かう。さほど大きな川ではない。
『もうじき迎えの小舟がくる。
今のうちに汚れを落としておけ』
男はそう言いながらも、自身はそうせずに油断なく辺りに視線を配っている。
〈ドラ息子〉もさすがに水浴びまでする気にはならず、少し迷った後、男に声をかけた。
『礼を言う。
だが、お前は何者だ? 護衛隊の者でもなかろう。
何故助けてくれた』
しかし男は何も答えなかった。
『閣下、あれを!』
〈腰巾着〉が嬉しげな声を上げて川上を指さす。
男の言った通りであった。荷運び用の小さな川船がこちらに向かってゆっくりと下ってくる。
それを見た男が、大きく手を振って合図すると、棹を握った船頭がそれに応えて船を寄せてきた。
これに乗ればひとまず自由の身である。
そのとき不意に、小舟の底から一人の男がむくりと起き上がった。
〈ドラ息子〉はその顔を見て絶句した。
現れたのは、あの近衛狼鷲兵連隊長であった。
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