第七十五話 捕虜交換
国王陛下に例の似顔絵を見せたのは失敗だった。
俺としては、〈黒犬〉がリアナ姫を連れてくるまでの間に軍議がまとまってしまわぬよう、陛下にご自重いただくだけでよかったのだ。
ところが、陛下の反応が思った以上に激烈だった。
具体的に言えば、ただの駄々っ子になってしまわれた。あのいつも賢く忍耐強かった陛下が、だ。
駄々っ子となった陛下はどうしても引き渡し交渉の場に同行すると主張して譲らず、道理も理屈も通じない強硬な姿勢を前面に押し出してきた。
他の臣下に見られたならば王としての威厳を損ないかねないその姿に俺はたじろいだ。
泣く子と地頭には勝てぬとは俺の世界に古くから伝わる諺であるが、陛下に於かれては泣く子と地頭の両方を兼ねるのだからたちが悪い。
なにしろこちらは、この異世界において衣食住すべての面で陛下のお世話になっている身の上だ。
たいして長くもないやり取りの末に俺は陛下に屈し、同行を認めざるを得なくなった。
まあ、なんだかんだ言ったところで交渉相手はあの〈黒犬〉だ。
戦場にあってならまだしも、交渉の場で銃を抜きはしないだろう。
少なくとも安全面では心配する必要を感じてはいなかった。
それに似顔絵の人物がリアナ姫によく似た別人ということもありうるのだ。
交渉の場に陛下がおられれば、そのような偽物見分けることができるようになる。
そんなことは万が一にもあり得ないとは思うが、陛下があり得るとおっしゃるのだからきっと得りうるのだろう。
だから備えが必要だ。
そんなわけで、今回は陛下を連れていつもの丘に向かう。
なぜか例の鷲鼻の老人も一緒である。
さすがに護衛ぐらいは必要だろうと一人だけ同行を許可したら、陛下は何を思ってかこの老人をお供に選んだのである。
最早俺には陛下の御心がわからない。
だがまあ、これでよかったのかもしれない。
なにしろ、鋭い目つき以外にはなんの危険も感じさせない、枯れ枝のような老人だ。
屈強な騎士がついてきたなら警戒もされるだろうが、か弱い子供や老人が一緒に来たところで〈黒犬〉も目くじらは立てまい。
俺がオークと子供のオークと子供と老人という奇妙な組み合わせの一行を率いて丘のてっぺんにつくと、丘の上にはこれまた奇妙な取り合わせの一行が待っていた。
オークが二匹と、人間の成人女性が一人。
まずは〈黒犬〉。これは分かる。当然だ。
それからリアナ姫。血色はよく、目に見える限りでは大きな怪我もなさそうだ。
馬を連れて、堂々と〈黒犬〉の隣に立っている。この様子を見る限り、オーク達は彼女をまっとうに扱っていてくれていたらしい。
そして見知らぬオークが一匹。おそらく老齢の、厳つい顔をしたオークだ。
立ち居振る舞いからも、オーク達の重鎮らしいことが窺える。
おそらく、こちらが差し出す幼児の確認役であろう。
まさか地方領主本人ではあるまいが、こちらには国王陛下がいるのだからそれも否定はしきれない。
丘の頂上で、互いに距離をとって横一列に向かい合う。
いよいよ取引の開始だ。向こう側で俺と正対している〈黒犬〉の顔にも、さすがに緊張が浮かんでいる。
しかし、さて。どう切り出したものか。あらかじめ手順を決めておくべきだったな。
俺が口を開こうとしたその瞬間、厳つい顔のオークが突如こちらに向かってすごい形相で駆けだしてきた。
制止するため手を伸ばそうとしたら、今度は陛下が叫び声を上げながらあちらに向かって突進していく。
取引は始まる前から滅茶苦茶になってしまった。
こちらでは老オークが幼児にしがみついて大声をあげて泣いている。
あちらでは陛下がリアナ姫にしがみついて大声をあげて泣いている。
背後では老人が静かに涙を流していて、足元では花子が崩れ落ちたまますすり泣いていた。
無事なのは俺と〈黒犬〉だけだ。
他はともかく花子がこれでは仕事にならない。
〈黒犬〉と目が合った。あちらも困惑している様子。
しかしまあ、この様子なら取引は終わったとみなしていいだろう。
「おい、花子。石板をくれ」
ひとまず筆談でも試みようと思い花子に声をかける。
すると花子は涙でグズグズになった顔を袖で拭うと、健気にも石板に「大丈夫です」と書いて立ち上がって見せた。
その字はひどく震えていたが、ここは本人の意思を尊重することにしよう。
俺は花子と共に〈黒犬〉に歩み寄った。
「感謝する」
俺の言葉を花子が伝えると、〈黒犬〉が意外そうな顔でこちらを見返してきた。
しかし、これは偽らざる本音だった。
リアナ姫が戻ってきたおかげで、今回の無謀な戦はおそらく回避できるだろう。
戦は大好きだが、負け戦をしたいわけじゃないのだ。
「もし俺の力を必要とするのであれば、いつでも声をかけてくれ。
可能な限り力を貸そう。人類を相手にするのでなければ、だが」
メグの予想が正しければ、このオークの幼児は危険な立場にあるはずだ。
荒事であれば、俺の力が役に立つこともあるだろう。
ぜひ呼んで欲しい。
ところが、花子を通じて俺の言葉を聞いた〈黒犬〉はますます意外そうな顔をした。
まあまあ、そんな顔するなよ。
俺は親愛の情を示すべく手を差し出した。
オークたちに通じるかはわからないが、少なくとも失礼には当たるまい。
当たらないはずだ。多分。
急に不安になって花子の方をちらりと見たが、特に変わった様子も見せないので大丈夫だろう。
〈黒犬〉は案の定怪訝そうな表情を浮かべはしたが、それでも俺の手を握り返してくれた。
*
〈黒犬〉一行が去っていくのを丘の頂上から見送る。
こちらはまだ当分動けそうになかった。
国王陛下が一向に泣き止まないからだ。
これまでは年不相応に大人びて見えた陛下が、今に限ってはまったくの幼児に戻ってしまわれた。
この揺れ幅の大きさにはさすがの俺も不安を感じてしまう。
今の陛下のこの姿を他の人間には見せるわけにはいかないだろう。
人類の結束に動揺を与えかねない。
泣きじゃくる陛下をぼんやりと眺めていると、リアナ姫と目が合った。
彼女は照れと困惑が入り混じったような笑みを浮かべた。
「此度は本当に助かりました。全て勇者様の手引きだったのですね」
「ええ、ご無事で戻られて何よりです」
彼女の救出はほとんど偶然の産物に過ぎないのだが、まあ一々細かな訂正をする必要もあるまい。
「あちらでの暮らしはどうでしたか」
俺の何気ない問いかけに、リアナ姫の胸元に顔をうずめて泣きじゃくっていた陛下が顔を上げた。
「そ、そうだ姉上! 酷い目にあわされてはおりませんでしたか?」
しまった。陛下のおられないところで聞くべきだった。
見た所、拷問を受けたような形跡もなし。血色もよい。
こちら側でのオークの扱いに比べればはるかにマシな待遇であったことは間違いない。
しかし、相対的にマシだったからと言って、彼女にとって良好と言えたかどうかはまた別問題である。
万が一、彼女が「ひどい目にあっていた」とでも答えようものなら、この場で開戦が確定しかねない。
「大丈夫です。オークたちは私に危害を加えようとはしませんでしたよ」
リアナ姫は陛下の頭を撫でながらあやすように答えた。
陛下はほっとしたように再び彼女の胸に顔をうずめる。
俺も胸をなでおろした。
リアナ姫はこちらに顔を向けなおして続けた。
「この度のことは、私にとってよい経験になりました。
今後は、オークたちに対する見方を変えなくてはならないでしょう。
対抗戦略もです。
少なくとも、これまで通りに無暗に敵対関係を続けていては立ち行かなくなることは明白です」
「おっしゃる通りです」
俺は大きく頷いて見せた。頼もしい限りだ。
この認識を共有できる有力者を得られたことは大きい。
今後は戦略も立てやすくなるはずだ。
リアナ姫がどことなく不安そうな様子で南に目をやった。
視線の先には、既に豆粒のように小さくなった〈黒犬〉一行の背中があった。
「何か気がかりなことでもありますか?」
「彼らに帰る先があればよいのですが」
一体どういうことだ?
詳しく話を聞いてみると、意外な事実が判明した。
なんと、〈黒犬〉らはリアナ姫を、武力で強奪した上でここに連れてきたのだという。
彼女は彼らの行く末を案じていた。
「彼らは、おそらく犯罪者として追われる身となっていることでしょう。
無事に逃れられるといいのですが……」
どうやら事態は予想以上に早く、そして都合よく進展しているらしい。
〈黒犬〉達はもはや引き返せない地点まで踏み込んだのだ。
「なぜそんなに嬉しそうな顔をしているのですか?」
リアナ姫が怪訝そうにこちらを見た。
「心配には及びません、殿下。
私どもの推測通りならば、殿下と引き換えに彼らに引き渡したあの幼児は、オークの権力者の継承権の持ち主です。
〈黒犬〉たちが危険を冒してまで殿下を救い出したことから見ても、おそらくこの推測は当りでしょう。
彼らはその威光を以って自力で居場所を手に入れようとするはずです。
あるいは、その過程で我々の助力を求めてくることもあるかもしれません」
「……貴方は恐ろしい人だ」
リアナ姫の声が少し険しくなったような気がする。
ひどい誤解である。この絵を描いたのは俺ではなくメグだ。
だがそんな言い訳をしてみたところで印象はよくならないし、小物じみて見えるだけ損というものだ。
堂々と笑って見せるに限る。
「山脈の内側に引きこもったところで未来はありません。
いずれより力をつけたオークたちに滅ぼされること必定です。
我々に必要なのはただの和平ではない。
オークの同盟者が――我々に価値を見出す存在が必要なのです」
「理解はできます。しかし……」
「なにより、彼ら自身があの幼児を必要としていたのですよ。
双方同意の上での、公正な取引です」
リアナ姫が弟の頭を抱く腕に力を籠めた。
「争いは避けられないのですね」
「はい。まことに残念ながら」
彼女は何も言わず、ただため息をついた。
「さあ、王都に戻りましょう」
俺が促すと、陛下は渋々といった様子でリアナ姫から離れてこちらに顔を向けた。
「話は全て聞かせてもらった。
勇者殿の言うとおりだ。余は其方を支持する」
目は真っ赤に泣きはらしているものの、それは確かに王の顔をしていた。
リアナ姫は何か言いかけたが、しかし弟のその表情をみて口をつぐんだ。
俺たちは馬に乗ると、丘を下り始めた。
下りきったところで、白い鎧に身を包んだ騎馬の集団がこちらに向かってきていることに気付いた。
その数、七騎。恰好から見て恐らく神殿騎士だ。
しかし、一体何の用だろうか。王都で問題でも起きたか?
取引の現場を見られていなければいいんだが。
馬の足を止め、大きく手を振ってみる。
すると彼らは横一列に並んで同じように足を止めた。
彼らの手元が次々を閃光を放ち、次の瞬間には輝く槍と盾が出現していた。
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