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第七十四話 行動開始

 その男が〈黒犬〉たちの前に姿を現したのは、伯都まであと一日行程という廃村で野営の準備を整えていた時だった。

 狼鷲に跨り、傭兵風の格好をしてはいるものの、それだけとは到底思えぬ鋭い気配を放っていた。

 この地で辺境伯の軍勢に加わってからそれなりの年月が経っている。

 他の隊の者であっても、これほどの者をまるで知らぬなどということがあるはずがない。

 そうであれば、大叔父の隊の者であろうとあたりをつけつつ、慎重に近づく。

 はたしてその通りであった。

 その男は〈黒犬〉に身分を明かすと、大叔父からの伝言を伝えた。


『緊急の事態につき一刻も早く戻られたし、とのことです』


『何が起きた?』


 しかし、男は〈黒犬〉の問いに首を振って答えた。


『小官はこれ以上の情報を預かっておりません』


 彼が何も知らされていないということが、かえって〈黒犬〉に事態の深刻さを感じさせた。


『野営は中止だ。夜を徹して伯都へ向かう』


 〈黒犬〉がそう伝えると、部下たちは文句ひとつ言わずに野営の準備を手早く片付け、再び狼鷲に跨った。


 *


 〈黒犬〉らが伯都へたどり着いたのは、夜の明けるほんの少し前だった。

 自身の屯所へ寄る時間も惜しく、直接大叔父の元へ向かう。

 ところが近衛狼鷲兵連隊の駐屯地に大叔父はおらず、今は傭兵駐屯地にいるはずだと告げられた。

 〈黒犬〉は無駄足を踏んだことに苛立ち鼻を鳴らすも、大急ぎで自身の住処でもある傭兵駐屯地へ向かった。


 ようやくたどり着いてみれば、大叔父は駐屯地の真ん中で酔いつぶれていた。

 周囲には各傭兵隊の主だった者たちが同じように酔いつぶれるか、あるいは酒樽の底を舐めながら宴の余韻に浸っている。

 どうやら、大叔父を交えての大規模な酒宴が開かれていたらしい。

 他隊の狼鷲兵たちが上から下まで入り混じってそこかしこに転がっている。

 如何にも大叔父らしい事ではあった。

 だがどうにもおかしかった。

 酔いつぶれた傭兵たちの中に〈黒犬〉の隊の者が一人も見当たらないのだ。

 彼の部下たちは規律正しいことで知られてはいたが、あくまで傭兵の基準に照らしてのことである。

 これほどの酒宴に一人も混ざっていないなどありえない。


 不気味なものを感じつつも、傭兵たちをまたぎながら大叔父のもとへ向かう。

 〈黒犬〉が寝ている大叔父を抱き起こして声をかけると、老将は酔眼を開きながら言った。


『おお、おぉ、戻りおったか。

 遅かったな。酒はもうなくなってしまったぞ』


 まさか宴会に誘うために帰りをせかしたわけでもなかろう。

 彼は大叔父の冗談に取り合わずに問う。


『何がありました』


 だが、大叔父はそれに答えず、声を落として問い返してきた。


『首尾は』


『成りました』


 〈黒犬〉も声を落として答える。


『ならば急げ』


 そう言って、大叔父は南を指した。


『何があったのですか!』


 〈黒犬〉の呼びかけもむなしく、大叔父の瞼がゆっくりと閉じられていく。


『……お前の部隊は……既に送り出した。

 常備連隊長が同道している……仔細は奴に聞け……』


 大叔父の瞼が完全に閉じられた。


『大叔父上!』


 〈黒犬〉は老将の方を激しく揺さぶったが、その瞼が開くことはなかった。

 近衛兵の一人が〈黒犬〉の肩に手を乗せて、ゆっくりと首を振る。


『もう無理です。おそらく昼過ぎまではお目覚めにはならないでしょう』



 *


 いかに緊急事態とはいえ、さすがにこれ以上狼鷲に無理をさせるわけにもいかず、愛鷲と共に仮眠をとった。

 昼近くになってもまだ大叔父は目覚めていなかったが、近衛兵から〈黒犬〉の隊は街道沿いに南へ向かったと言う話を聞く。

 大叔父は、この件について配下にも一切話をしていないらしく、それ以上の情報は得られなかった。

 何はともあれ、急がねばならない。


 〈黒犬〉が部隊と合流したのは、その日の晩のことだった。

 大叔父の言った通り、常備連隊長も部隊と同道しており、ここでようやく〈黒犬〉は状況を知ることができた。


『どうだ、交渉はうまくいったか』


 常備連隊長がげっそりとした様子で首尾を問うてきた。

 狼鷲での移動に慣れていない彼は、相乗りにもかかわらず体力をすっかり使い果たしてしまったらしい。


『はい。

 捕虜との交換であれば金は要らぬと、そのように言われました。

 その代わり、なるべく早くつれてくるようにと』


『よくやった。

 やはり、価値のある捕虜ではあったか』


 そう言いながら、常備連隊長はなぜか顔をしかめた。


『何があったのですか』


『まさにその捕虜のことだ。

 あのドラ息子めがあの者を帝都に送るなどと言い出してな』


『まさか、気づかれたのですか?』


『いいや、その様子はない。

 近衛部隊派遣への返礼品として選ばれただけのことだ。

 留守をしている間に捕虜を連れ去られてしまった。

 兵営に戻って報告を受けた時には、既に捕虜は伯都を出た後だったのだ』


 〈黒犬〉は呻いた。

 捕虜が兵営内にいるうちであれば、密かに連れ出すことも訳はなかった。

 だが、皇帝への献上品として持ち出された以上、取り戻すには手荒い処置が必要になる。


『すまぬ……』


 そういって常備連隊長は俯いた。

 しかし、彼がその場にいたところで表立って抵抗することはできなかったろう。

 あの捕虜は常備連隊長個人の所有物ではない。辺境伯府に属するものなのだ。


『ならば奪い返さねばなりませんな。

 捕虜は今どのあたりに?』


『この先の宿場町にいる。

 さすがに町の中では襲えん。夜が明けて、奴らが宿場を出るまで待たなくてはなるまいが……。

 〈魔王〉とやらは本当に信用できるのか?』


 常備連隊長がいつになく不安げに言う。

 当初の予定通りであれば、人間どもの主張に相違があった場合には取引を中止し、再交渉することもできただろう。

 だが既に状況は変わってしまった。

 ここで献上品の輸送隊を襲ってしまえばもう後には戻れなくなる。


『例の元侍女も、幼少期のお嬢様と生き写しであるとは言っておりましたが……』


 この点についてはさすがの〈黒犬〉も断言はできなかった。

 彼自身、第二令嬢の娘とやらをこの目で見たことは一度もない。

 人間たちがそう主張しているに過ぎない。

 だが。


『なによりも、私はあの者を信じます』


 あの人間の思惑がどうであれ、あいつは確かに〈黒犬〉のために命を懸け、共に戦ったのだ。

 この点について〈黒犬〉は既に覚悟を決めていた。


『〈魔王〉に――人間なんぞに全てを賭けるのか』


『はい』


 常備連隊長が、ゴクリとつばを飲み込んだ。

 続いて天を仰ぐ。


『……どの道、とっくの昔に後には引けなくなっていたのだ』


 彼はそうつぶやくと、視線を〈黒犬〉に戻した。


『ならばわしはお前に賭けるとしようか』



 リアナは、オークたちが動き回る気配に目を覚ました。

 体の節々が痛んだが、狭い檻の中では満足に身体を伸ばすことすらままならない。


 荷車の周囲では、オークたちが忙しく出発の準備を進めていた。

 また荷車が動き出すと思うと、さすがの彼女もうんざりしてしまう。

 とはいえ、先に進まなければいつまでたってもこの檻から出られないのも確かなことではあった。

 そこで何が待ち受けているかは知らないが、今は一刻も早くこの檻から出たかった。


 しかし、この見慣れぬ制服のオークたちは何をするにもひどく手際が悪い。

 かつて戦場でリアナを捕らえたオーク軍の兵士たちとは雲泥の差だ。

 彼らはいつだって機敏にかつ無駄なく動いていた。


 おそらく、と彼女は考える。第一には指揮官の差だ。

 見慣れぬ制服のオークたちは、指揮官と思しきオークが視界から消えるととたんに動きが鈍くなる。

 兵士たちに対してまともに統制が取れていない証拠だ。

 そうでありながら、ろくに監督もせずに放任しているものだから状況が改善されない。

 配下の者が怠けていることにすら気付いていないのではないか?


 おかげで、ようやく荷車が町を出た頃にはすでに日は随分高くなっていた。


 町の外には大きな麦畑が広がっている。

 リアナがオーク討伐隊を率いて駆け回っていた北の荒野とは比べ物にならない規模だ。

 この光景にオークの本当の力を見せつけられたような気がして、リアナは恐ろしくなった。

 もし、万が一にでも生きて帰ることができたなら、これまでの対オーク戦略を考え直さなければならないだろう。

 いままでのように、山脈近辺へと進出してくるオークたちを追い払うだけではどうにもならないことは明白だ。


 同時に、リアナはたった一人残された弟に思いを馳せた。

 賢くはあっても、それ以上に気弱でさみしがり屋だったあの子は、今頃どうしているだろうか?

 たった一人で国を背負う重圧に押しつぶされてはいないだろうか?

 あの勇者様も良き武人といった風ではあったが、政治の場において頼りになる人物には見えなかった。

 竜の爺や〈顎門〉の爺も同様。

 あの子を守ってくれる大人は今や誰もいない。


 ガタンと荷車が大きく揺れた。

 鉄格子に頭をしたたかにぶつけ、リアナは思考を中断された。


 あれほど広大に見えた麦畑は既に途切れ、一行は大きな森に差し掛かりつつあった。

 ふと、リアナは森の淵が微かに、しかし不自然に動くのを見たような気がした。

 動きのあった個所をじっと凝視するも、なにもみつからない。

 それでも危険な予感は消えなかった。


「もし、もし」


 不安を感じた彼女は檻のすぐそばを歩いていたオークに呼びかけた。

 しかし、当然のことながら全く相手にされない。

 森に入ってしばらくしたところで荷車の列が停止した。

 前方で声が上がり、荷車のすぐ側にいた兵が何やらぶつぶつ言いながら声のした方へ向かう。

 車列の先頭に目を凝らしてみれば、どうやら倒木で道が塞がれているらしい。

 その時。

 ふいに道の両脇で轟音がさく裂した。

 前方に集まっていた兵士たちがバタバタと倒れ、同時に森の中から次々と黒い影が飛び出し、非戦闘員に襲い掛かる。


(やはり襲撃か……)


 リアナは覚悟を決めた。

 他の荷車に積まれた品々はともかくとして、盗賊どもが彼女を必要としているとは考え難い。

 かといって、この場に放置される可能性も薄い。

 人間とオーク、数々の違いはあれど悪党どもの思考にそう大きな差があるとは思えないからだ。

 せいぜい楽に死ねることを祈るばかりだ。


 輸送隊のオーク達は瞬く間に皆殺しにされ、クチバシ犬にまたがった賊どもがリアナの檻を取り囲んだ。

 それをかき分けるようにして、首領と思しき一匹のオークがリアナの前に姿を現した。

 黒いクチバシ犬にまたがった片目のオーク。

 リアナはそいつに見覚えがあった。

 あの敗戦の直後、一度だけ顔を合わせたことがある。


(〈黒犬〉……なぜこいつがここに?)


 〈黒犬〉の配下の一人が檻を封じていた錠前を破壊すると、リアナに外に出るよう促した。

 彼女はよろよろと檻から這い出ると、どうにか立ち上がった。

 二日ぶりの檻の外である。立ち眩みに襲われ、鉄格子を掴んでかろうじて踏みとどまる。

 視界が回復するのを待って顔を上げると、目の前に馬がいた。

 〈黒犬〉がそれを指してフガフガと何か言っている。

 乗れということだろうか?

 轡と手綱は付いているものの、鞍も鐙もない裸馬だ。

 乗って乗れないこともなかろうが、さて、今の自分にできるだろうか?

 ふとみれば、周囲を警戒するオークたちもどこか落ち着かない様子でいる。

 どうやら一刻も早くここを離れる必要があるらしい。

 リアナはグッと手足を伸ばし、それから大きく息を吸い込んで気合を入れた。

 手綱を受け取って一歩下がると、えいやと弾みをつけて馬に飛び乗る。

 一気に視線が高くなり、視界が開けた。


(素晴らしい!)


 この久しぶりの感覚に彼女の感情は昂った。すぐにでも走り出したい。


「いったいどちらへ向かうのですか」


 〈黒犬〉に向けてそう訊ねると、彼は分からないなりにもその意味をくみ取ったらしく北――元来た方向――を指さした。


「承知!」


 叫ぶが早いか彼女は道なりに馬を駆けさせた。

 よく訓練された、従順な馬だった。

 元の乗り手は分からないが、良き騎士であったに違いない。

 風が全身をすり抜けていく。最高の気分だ。

 こんな心持になったのは、あの最後の突撃の時以来である。

 背後で〈黒犬〉らが叫ぶ声が聞こえたが、もはや彼女の耳には入らなかった。

 リアナの笑い声が風に溶けて消えていく。


 彼女が正気を取り戻すまでには、今しばらくの時間を必要とした。


 *


『か、閣下! 大変です!』


 〈腰巾着〉が執務室に駆けこんで来るなり叫んだ。

 元より気の小さな男ではあったが、それにしても尋常のうろたえ方ではない。


『何があったのだ』


『こ、皇帝陛下への献上品を積んだ荷車が襲撃されました!』


 どんな恐ろしい報告が来るのかと身構えていたドラ息子は脱力した。


『なんだ、物盗りか』


 確かに重大事態とはいえる。

 帝都へと続く南街道沿いは北方辺境伯内でも特に治安が良く保たれている地域だ。

 少なくともここ十年以内に大規模な盗賊騒ぎが起きたことは一度もない。

 そんな場所でわざわざ護衛付きの一行を選んで襲ったというのだから、よほどの気合が入った連中なのだろう。


 だが、皇帝陛下への献上品を積んだ荷車ともなれば、欲に目がくらむ者がいてもおかしくはない。

 なにしろ、ここ伯都には飢えた元兵士、訓練されたゴロツキどもが掃いて捨てたくなるほどにひしめいているのだ。

 面倒な案件ではあるが、ここまで取り乱すほどのこととは思えない。


『どうせ難民共の仕業だろう。

 まだそう遠くへは逃げていないはずだ。

 蛮族傭兵どもに追わせればすぐに片が付こう。

 英雄様にでもやらせておけ』


『そ、それがかの者の部隊が、襲撃の少し前から姿を消してしまっているのです。

 それだけではありません。報告によれば襲撃現場には狼鷲の爪跡が残っていたとの由』


『何だと……!』


 さすがの〈ドラ息子〉もここにきて事態の重大さを悟った。


『に、人間はどうなった! ただの物盗りならば――』


『連れ去られていたとのことです。

 少なくとも、現場に死体は残されておりませんでした』



『確かなのか?』


『はい。報告ではそのように』


『信じられん……帝室への献上品だぞ!

 そんなものに手を出してただで済むと思うのか!

 もはや帝国内に居場所はないぞ!』


『蛮族どもの考えですから、常人には理解いたしかねます。

 あるいは、裏で糸を引くものがおらぬとも限りません』


 それを聞いて〈ドラ息子〉はギリリと奥歯を食いしばった。


『……姉上を連れ戻し、俺と挿げ替えようと目論む者たちがいるかもしれぬと、

 そういうことだな?』


『いかにも』


『すぐに逮捕状を出せ。

 常備連隊長以下、父上のお気に入りども全員にだ。

 常備連隊は当てにならん。護衛隊を全員召集して事に当たれ。

 並行してここの守りを固める。

 それから蛮族どもを……そうだな、まずは〈赤鷲〉の隊長を呼んでこい』


『はっ!』


 〈腰巾着〉が慌ただしく部屋を出ていく。

 一人残された〈ドラ息子〉は読みかけの書類に目を落とした。

 しかし、字を追うことはできても内容は一切頭に入ってこない。

 程なくして〈赤鷲〉の隊長が到着した。


『遅い!』


 その顔を見るなり〈ドラ息子〉は怒鳴りつけた。

 〈ドラ息子〉にしてみれば、永遠の時が過ぎたような心持であった。


『遅れまして申し訳ありません』


 彼らの駐屯地までの距離を考えればこれでも最大限急いできたに違いない〈赤鷲〉の隊長は、しかし顔色一つ変えることなく謝罪した。

 先の〈黒犬〉暗殺任務中に戦死したいかにも傭兵らしい粗野な前任者と違い、利に敏そうな怜悧な顔つきの男であった。


『まあいい。貴様らに特別な任務を与える。

 英雄様とその一党が、皇帝陛下への派遣使一行を襲撃し、全員を殺害の上積み荷を強奪して逃走中だ』


『反乱でありますか』


『反乱などではない!』


 〈ドラ息子〉は傭兵隊長を怒鳴りつけた。


『これは反乱などと呼べるものではない!

 ただの犯罪だ! 分かったか!』


『なるほど、物盗りということですな。

 承知いたしました』


『だが、あの規模の武装した盗賊を放置するわけにはいかん。

 貴様に盗賊団の討伐を命ずる』


『了解いたしました。

 しかしながら、我が隊だけではさすがに……』


『残る二隊の蛮……狼鷲傭兵の指揮権を与える。

 これで戦力に不足はあるまい。

 なんとしてでも奴らの首を持ち帰るのだ』


『はっ!』


 一礼して立ち去ろうとする傭兵隊長の背に向けて、〈ドラ息子〉が付け加えた。


『今度は仕損じるなよ。

 前任者は野蛮な大馬鹿者だったが、お前は大分マシなように見える。

 期待しているぞ』


 傭兵隊長は立ち止まり、それから振り返って再び一礼しながら答えた。


『お任せください。

 必ずご期待に沿うて見せます』


 そうして、静かに部屋を去っていった。

 〈ドラ息子〉はその答えに満足し、机上の書類を手に取って目を通し始めた。


 だが、彼は見落としていた。

 あの傭兵隊長が振り返る直前に浮かべた、その一瞬の表情を。


次回は1/13を予定しています

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― 新着の感想 ―
[一言] 黒犬も引き返せないとこまで来ましたね、続きを楽しみに待ってます
[良い点] 面白い! ワクワクします。
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