第七十二話 貢物
『息子よ、いなくなった者が見つかった、死んでいた者が蘇ったのだ。
喜ぶのは当然のことだろう。
だが、どうか安心して欲しい。誓ってそれだけだ。
私の物は全てお前の物だ。お前が焦る理由なぞ何一つない。
全ては、お前のために用意したものなのだよ』
そう言って、辺境伯は――彼の父は、ゆっくりとグラスに手を伸した。
そうして、赤みがかった茶色の液体で満たされたそれを蝋燭の明かりにかざして、満足げに微笑む。
――ダメだ!
叫ぼうにも声が出なかった。
グラスを払い落としたくとも、体はピクリとも動かない。
父に知られるのが恐ろしかった。
殺意を、ではない。
そんなものはとっくに霧散している。
彼が隠したかったのは己の醜さだった。
弱さから嫉妬に狂い、この優しい父を手にかけようとした、その醜悪な内面を父に知られたくなかった。
いや、おそらく父は彼のそのような弱くて醜い心を既に知っているのだろう。
知った上で、それでもこうして彼のことを信じてくれているのだ。
だから、動けなかった。
グラスがゆっくりと父の皺だらけの口へと近づいていく。
止めるなら、これが最後の機会だ。
今すぐ父のグラスを取り上げて事の次第を告白するのだ。
きっと父は微笑みと共に許してくれるだろう。
『辛い思いをさせてすまなかった』とすら言ってくれるかもしれない。
だが、彼の弱さはそれを許さなかった。
己の罪と向き合うには、彼の心は脆弱に過ぎた。
グラスが傾き、たるんだ喉が小さく――
*
〈ドラ息子〉は叫び声を上げて跳ね起きた。
全身汗まみれ。呼吸も激しく乱れている。
息を整えながら周囲を見回せば、そこはいつもの寝室だった。
『閣下! ご無事ですか!?』
すぐに護衛隊士たちが飛び込んできた。
正式に辺境伯となって以降、〈ドラ息子〉は常に自身のすぐ傍に警護の者を置かねば気が休まらなくなっていた。
寝室においてすら扉の前に不寝番を立てずには眠れない有様である。
『何でもない。少し悪い夢を見ただけだ』
〈ドラ息子〉は隊士たちにそう答えた。
答えると同時に、隊士たちに弱みを握られたような心持になり、ますます不快な気分になった。
『了解いたしました。ご無事で何よりです。
念のため、室内を確認いたします』
そう言って、隊士たちが部屋の奥へと進んでくる。
その腰に剣が吊られているのが目にとまり、〈ドラ息子〉は言い知れぬ恐怖に駆られた。
『く、来るな!
それ以上近寄るんじゃない!』
思わず口からこぼれ出たその叫びに、隊士たちが顔を見合わせた。
『いいから早く出ていけ! 今すぐにだ!』
隊士たちは主人の異常な権幕に押されて、戸惑いながらもさっさと退散していった。
寝室の扉が閉まる直前、隊士の誰かが不快気に小さく鼻を鳴らしたのが〈ドラ息子〉の耳に入った。
その音にカッとなり、ナイトテーブルの花瓶を掴んで扉に投げつけた。
花瓶は扉に当たって派手な音と共に砕け散ったが、護衛隊士たちも今度は姿を見せなかった。
少し間を開けて、扉を叩く音が聞こえた。
『私です』
声の主は〈腰巾着〉だった。
『入れ』
音もなく扉が開き、水差しとコップを手にした〈腰巾着〉が一人で入ってきた。
寝巻ではなく、楽ではあるが見苦しくない程度に身支度を整えていた
恐らく夜間にいつ呼び出されても応じられるよう、備えていたのだろう。
〈ドラ息子〉はここのところ毎日の様に悪夢に悩まされていた。
『水をお持ちしました』
しかし、〈ドラ息子〉はそれを無視して唸るように言った。
『あいつらを首にしろ』
〈腰巾着〉がけげんな表情を浮かべて問い返す。
『あいつら、と言いますのは――』
『不寝番の連中だ!』
〈ドラ息子〉が、扉を指しながら怒鳴る。
『な、なにか不手際でもございましたか?』
『忠誠心に疑問がある。
あのような輩を側には置いておけん』
〈腰巾着〉は何かを言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。
代わりに優雅な手つきでコップに水を注ぐと、〈ドラ息子〉にそっと差し出す。
〈ドラ息子〉はそれを受け取ると、しばらく見つめた。
夢で見た光景が脳裏に蘇る。
あの酒を用意したのは一体どこの誰であったか?
『貴様が飲め』
〈ドラ息子〉はそういってコップをつき返した。
〈腰巾着〉は何も言わずそれを受け取ると、静かに飲み干して見せた。
それから飲み口を丁寧に拭い、再び水を注いで差し出す。
〈ドラ息子〉は気まずい思いと共にそれを受け取った。
余計なことを考えぬように努めながら、コップをゆっくりと口に近づけ、一口だけ飲んだ。
冷たい水が喉をくぐり、胃へと落ちていく。
続けて残りの水を一気に流し込んだ。美味かった。
同時に頭も冷える。
『もういい。下がれ』
空になったコップを握りしめて俯いたまま、ボソリという。
顔を上げることができなかった。
〈腰巾着〉がひどく傷ついた目をしていることに気づいてしまったからだ。
『では、失礼いたします』
去っていく〈腰巾着〉の小さく丸まった背中が、俯いた視界の端にチラリと映った。
元より背の高い男ではない。
だが、肩を落とし足取りも重く、しかし静かに遠ざかっていくその姿は、いつも以上に小さく見えた。
待て、と〈ドラ息子〉は思わず呼び止めた。
〈腰巾着〉が、ぎこちない笑みを浮かべながら振り返る。
『何でございましょう?』
用などない。衝動的に呼び止めたに過ぎなかった。
だが幸いにも、しばしの沈黙の後に彼は言うべき言葉を見つけることができた。
『すまなかった』
それから一呼吸置き、絞り出すように言う。
『どうか、俺を見捨てないでくれ。
この苦悩を共有できるのはお前だけなのだ』
〈腰巾着〉のこわばった笑みが、少しだけ和らいだ。
『もちろんです、閣下』
彼は寝台の脇に戻ると、椅子に腰を下ろしながら言った。
『どうか、安心してお休みください。
私は常に閣下と共に在ります』
*
翌朝。〈ドラ息子〉が目を覚ました頃には、既に〈腰巾着〉の姿はなかった。
そのままベッドの上で朝食を済ませると、従者の手を借りて身支度を整え、執務室に向かう。
『おはようございます、閣下』
執務室に入ると、そこには既に〈腰巾着〉が控えており、重厚な執務机の上には今日の内に確認するべき書類がすっかり整えられていた。
〈腰巾着〉は昨夜の出来事などみじんも感じさせぬ、いつも通りの優雅な礼をもって主人を迎えた。
『うむ』
〈ドラ息子〉はこれもいつも通り、何事も無かったかのように応じて腰を下ろす。
『で、今日は何からだ?』
『こちらです』
そう言って〈腰巾着〉は一枚の紙を机の上に差し出した。
そこには祐筆による流麗な文字で、近衛兵の派遣に感謝する言葉がつづられていた。
それを見て〈ドラ息子〉は小さく顔をしかめた。
『陛下への礼状か』
『はい。文面はこちらで用意いたしました。
内容を確認し、問題がなければ署名をお願いします』
〈ドラ息子〉は〈腰巾着〉に向けてわざとらしくため息をついて見せた。
『まったく、陛下も面倒な御仁を送り込んでくれたものだ。
大方、宮廷に置いておくのが煩わしくなって、これ幸いとこちらに押し付けてきたのだろう。
感謝されるのは我々の方ではないのか?』
『全くです。しかしながら、かの者の行状を陛下にお知らせするのは、また別な機会にするのがよろしいかと』
『分っている』
苦々しい顔つきのまま文面を確認し、署名を済ませる。
『次は』
『御礼状と共に陛下に献上いたします貢物の目録でございます。
こちらもご確認を』
差し出された目録に目を通す。
献上品の内容はおおむね慣例通り。
雪狐の毛皮に熊皮のコート、北部の地酒、白い大鷹、猟犬、人間どもの剣、それから〈北の民〉に伝わる工芸品がいくつか。
どれもパッとしない品ばかりである。
この内で少しでも喜ばれるのは、雪狐の毛皮ぐらいなものだろう。
あの真っ白な狐はここ北方辺境伯領以外には生息しておらず、その毛皮は帝都においてもそれなりに高値で取引されている。
大鷹や猟犬も良い品ではあるが、あいにくと現皇帝はあまり狩猟に興味がない。
それ以外の、コートや工芸品といった加工品の類はどうせ田舎臭く野暮ったい代物に違いなかった。
見なくてもわかる。
これらの品は皇帝陛下の御前に並べられた後、廷臣どもの忍び笑いと共に倉庫へ放り込まれるのだろう。
ここ北方辺境伯領にはロクな職人がいなかった。
なるほど、使いやすく頑丈な品を作る者なら大勢いる。
百年たっても壊れないという彼らの言葉は文字通りに受け取っても間違いない。
ところが宮廷に相応しい優美な品を作れる者となるとまるでいないのだ。
本来であれば裕福な領主が腕の立つ職人の後援者となり、高級品の作り手と文化を育成するのが常である。
だが先代の北方辺境伯であった彼の父は、『虚飾は無用。頑丈であればよい』とうそぶいてこれらの育成を怠ってきた。
そのツケがこういったところで回ってくる。
おかげで北方辺境伯領そのものが文化もろくに無い後進地域として侮られることになるのだ。
こうした現状を忌々しく思いながら、〈ドラ息子〉は目録をめくった。
続く頁の内容も似たようなものだ。
ふと、その最後の行に目を止める。
『なんだこの、珍獣というのは』
『昨年の会戦での戦利品です。
近衛兵の一人に聞いたところによると、皇帝陛下はここのところ東西の珍しき動物を集めるのにご執心とのこと。
さぞお喜びになるのではないかと』
『なるほど』
〈ドラ息子〉は鼻を鳴らした。
先の凱旋パレードでは、あの獣を見た民衆どもが大いにわき返ったものだった。
おかげで幾分か奴らの不満を和らげることができたが、今となっては何の利用価値もない。
いい加減あの汚らしい生き物を処分しようにも機を逸してしまっていた。
凱旋式の直後に殺してしまえばよかったのだが、一度飼うと決めてしまった以上は名目無しに殺すわけにもいかず、持て余していたところだったのだ。
『ではちょうどよい。さっさとあの気持ちの悪い獣を贈ってしまうとしよう』
これでよし。領内のゴミがまた一つ片付いた。
そんなことを考えながら、〈ドラ息子〉は次の書類を受け取り目を通し始めた。
次回は12/30を予定しています。




