第七十一話 交換交渉
(随分と大ごとになってしまったな……)
〈黒犬〉は真っ赤な狼煙が青い空に吸い込まれていく様を見上げながらぼんやりとあの日のことを思い返していた。
あの日、常備連隊長から事情を聴きだした大叔父は、大きく頷いて見せながら言ったものだった。
『なるほど、事情は分かった。
貴殿の忠義心、真に感じ入った。
できる限りの協力をしてやろうではないか』
その言葉に〈黒犬〉がほっとしたのもつかの間、大叔父は眉間にしわを寄せながら声を落とした。
『と言いたいところではあるが、なかなかそうもいかんのだ』
『なぜですか』
思わず〈黒犬〉が問うと、大叔父は困り顔で答えた。
『又甥よ、お前はもう少し政治というやつに気を回した方がいいぞ。
なぜもどうしても、わしは皇帝陛下の御下命でこの地に下向してきておるのだ。
そのわしが北方辺境伯の親族探しなんぞに協力してみろ。
どう取られるか。なあ、常備連隊長殿。貴殿ならわかるだろう』
常備連隊長が渋面を作りながら答える。
『……陛下のご意向とみなされるでしょうな』
『そうとも。
現辺境伯めがまともならまだしもな。
皇帝陛下が辺境伯の首を挿げ替えようとしている、などと評判が立てばことだ。
もはや北方辺境伯領だけの問題ではなくなってしまう。
他の領邦が陛下に疑念を抱けば帝国の団結にひびが入りかねん』
なるほど、道理であった。
〈黒犬〉は肩を落とす。
無意識のうちに大叔父にべったりと甘えようとしていた自分が情けなくなったからだ。
『申し訳ありません。
我らの問題であるにもかかわらず頼り過ぎました。
自省します』
『気に病むでない。
身内なのだから頼りに思うのは当然だ。
だからまあ、手を貸すことはできぬが、知恵ぐらいは貸してやろうではないか』
そう言いながら大叔父は表情を緩め、天井を見上げた。
『そうさなあ……』
大叔父は姿勢を正し、今度は常備連隊長に向き直った。
『常備連隊長殿、身代金を用意できたとして、その後はどうするつもりだ?』
眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった常備連隊長をみて、大叔父は鼻を鳴らした。
『やはり何も考えていなかったか。
救出したところでどうせ表には出せぬのだろう。
かわいい又甥が襲撃された件はワシの耳にも入っているぞ』
常備連隊長はけげんな顔をして〈黒犬〉を見た。
それもそのはず。彼はあの〈赤鷲〉隊との一件を誰にも報告していなかった。
生き残った二名の部下にも、人間と接触を持ったことも含めて一切口外しないよう厳命していた。
相手にとっても決して大声で触れ回るような話ではない。
つまり、この件はごく限られた関係者にしか知られていないはずだった。
『どうしてそれを?』
『わしを誰だと思っている。
戦働きだけでこのような地位につけるはずがなかろう。
そうでなくとも、情報集めは戦の基本だ。
まあ、今回は時間がなかった。今はまだ噂話を集めた程度にすぎん』
そう言いながら大叔父は得意げに口を歪ませた。
どことなく影が差すその笑みに、〈黒犬〉は生まれて初めて大叔父に不気味な感情を抱いた。
大叔父はその笑みをすぐに引っ込めると、常備連隊長に向けて話を続けた。
『ともかくだ。
先代辺境伯亡き今、あの小僧が姉の遺児を真っ当に扱うとは思えん。
無事に大判金貨を集めたところで、貴殿の財布が空っぽでは遺児を匿うことすらできまい。
淑女に相応しい生活となればなおのことだ。当てはあるのか』
大叔父の指摘に常備連隊長が唸った。
『……やはり人間どもと再度交渉し、身代金の減額を求めます』
『ただで応じてくれるものか。
金以外の何かを要求されることになるだろう。
ことによればそれは、守るべき者たちへの背信行為にもなりかねんぞ』
大叔父の指摘に、常備連隊長は再び黙り込んでしまった。
『おい、若様。
どうだ、何か考えはあるか?』
『隊内に匿い、身分を伏せた上で私の養女として育てればよいと考えておりました。
最悪ことが露見したとしても、部隊ごと帝国領域外に逃れることができます』
それを聞いて、大叔父が先と同じ不気味な笑いを浮かべた。
『なるほど、亡命か。
そこまで覚悟を決めているなら話は早い』
大叔父はそう言いながら再び身を乗り出すと、指をクイクイと動かして残り二つの鼻先を集めた。
『人間どもの捕虜が居たろう。あれを使え。
命の対価には命をもってするのが一番だ』
その言葉に、常備連隊長がまた低く唸る。
『確かにあの捕虜は我々の管轄下にある。
だが、個人の所有物というわけでは――』
『金を盗むよりはましだろうに。あの捕虜が他に何の役に立つ。
さあ覚悟を決めろ。いまさら何を気にしている。
貴様らはもう、とっくの昔に反逆者となっているのだぞ。
どうせなら徹底的にやってしまえばよいではないか』
かくして、〈黒犬〉は件の捕虜の似顔絵を懐に忍ばせ、再び〈壁〉へと向かったのだった。
*
〈魔王〉が姿を現したのは〈黒犬〉が狼煙を挙げてから三日後のことだった。
前回同様、馬に乗っての登場だった。
『わざわざ馬で来ずとも、竜の方が早いだろう』
と、〈黒犬〉が問うと
『竜にオークを乗せようとすると暴れるためやむなくこうしている、と我が主は申しております』
との答えが返ってきた。
どうやら、竜というものはなかなか厄介な生き物であるらしい。
続けて〈魔王〉が口を開く。
『この度はいかなる要件か、と我が主は問うておられます』
前回同様、ろくな挨拶もなしに交渉が始まった。
これが人間の流儀なのか、あるいは〈魔王〉の個性によるものかはわからないが、ともかく話が早く進むのはありがたい。
〈黒犬〉も早速用件を告げることにする。
『身代金の減額を願いに来た。
無論、ただでとは言わない』
そう言って〈黒犬〉は懐から似顔絵を取り出し、元侍女に渡す。
〈魔王〉がそれを受け取り畳まれていたそれを開く。
次の瞬間、〈黒犬〉は〈魔王〉の表情が微かに変わったのを〈黒犬〉は見た。
だが、それがどのような意味を持つかまでは判別がつかなかい。
『そこに描かれている者は先の大会戦で我が軍が得た捕虜だ。
捕獲時の装備品からみて決して低い身分の者ではないと推察している。
その者と引き換えることで身代金を相殺できないか』
『報酬の支払いは必要ない。その者との交換に同意する、と我が主は申しております』
〈黒犬〉の提案に〈魔王〉は考えるそぶり一つ見せず即答してきた。
元侍女が通訳するのを待ってさらに〈魔王〉が続ける。
『なるべく早くその者の顔が見たい。最短でいつ頃その者を連れてこられるか、と我が主は問うておられます』
『二十日ほどで戻れるはずだ』
『では、こちらもそれまでに引き渡しの準備を整えて待つ、と我が主は申しております』
〈黒犬〉が同意する旨を伝えると、〈魔王〉は寸暇も惜しいとばかりに去っていった。
こうまで順調に話が進むとは、〈黒犬〉にとって全く予想外のことであった。
どうやらあの金額そのものに大した意味はなかったらしい。
こちら側に対してどの程度までの交渉が可能か探るために吹っ掛けてきただけだったのだろう
あるいは。
あの捕虜は予想外に重要な人物だったのだろうか。
そうであれば大きな魚を逃がしたことになる。
逆にこちら側が身代金を要求することもできたのではなかろうか?
〈黒犬〉はかぶりを振ってその考えを打ち消した。
なにしろあの捕虜らは先の会戦において、既に勝敗が決した後に突撃を仕掛けてきたのだ。
恐らくは味方を逃すための行動であろう。
もしあの戦場に重要人物がいたとすれば、彼らが逃がそうとしたその中にいたと考えるのが自然である。
ましてあれは雌の個体である。政治的な価値にも限度があるはずだった。
欲をかきすぎてはいけない。ひとまずは引き渡し交渉が無事にまとまったことを喜ぶべきだ。
〈黒犬〉はそのように自身に言い聞かせると、一刻も早く交渉成立を報告するべく愛鷲を走らせた。
次回は12/23を予定しています




