第六十五話 巨星墜つ
深夜、辺境伯邸の鐘楼の鐘が打ち鳴らされた。
それに応えて街の至る所で大小の鐘の音が連鎖していく。弔鐘だった。
その音を聞いて、常備連隊長はとうとう辺境伯が息を引き取ったのだと知った。
驚きはしなかった。
こうなる日が近いことはとうに分っていた。
心の整理もあらかじめ済ませてある。
それでも長年仕えてきた友との別れに、寂しさを感じずにはいられなかった。
すぐに辺境伯邸からの使者が来て、辺境伯の死を改めて告げられた。
常備連隊長は、使者に翌朝訪ねる旨を告げて寝室に戻った。
寝床には入らずどっかりと椅子に座り込むと、さほど高くもない天井を見上げながら数日前の会話を思い出す。
彼が部屋を訪ねるなり、辺境伯は嬉しげに問うてきたものだった。
『友よ、聞いてくれ。
息子を食事に誘ったのだがね。
そうしたら、息子はどう答えた思う?』
答えなど聞くまでもない。全て顔に出ていた。
そして彼自身、それを隠す気がないようだった。
『知るわけがなかろう』
常備連隊長はわざとぶっきらぼうに答えて見せた。
こう答えるのが、一番喜ぶだろうと考えてのことだった。
『それで、どうなったんだ』
常備連隊長が続きを促すと、辺境伯はニコニコと笑いながら続けた。
『私が使いを送ると、あー何といったかな、いつも息子のすぐそばにいる男だ。
彼がすっ飛んできてね。
それで、こいつをお返事の代わりにと言って届けてくれたのだよ』
そう言いながら、すっかり細くなってしまった指でサイドテーブルを指した。
そこには古びた酒瓶が一本置かれていた。
『ほう、これは……』
『そうとも、私の大好きな銘柄だよ。
こいつの産地は先の内戦で大打撃を受けたからね。
それ以前の古酒となると、そう簡単には手に入らない。
あれも随分と骨を折ったはずだ。
なんのことはない、あちらの方もきっかけを求めていたというわけさ』
『うまくやったな』
常備連隊長は心から祝福した。
〈ドラ息子〉本人には思う所もある。
だが、それでも友が幸せであるのなら、共に喜ぶのも吝かではなかった。
『それで、肝心の会食はどうなった。
ちゃんと約束は取り付けたんだろうな』
『それはもちろんだ。
明日の晩だよ。
一緒にこの酒を酌み交わすつもりでいる。
一日千秋とはこのことだな。
なにしろ明日をも知れぬ身だからね』
まるで子供のようなその様子に常備連隊長は苦笑した。
『なに、神々も一日ぐらいなら待ってくれるさ』
『さてどうだろう。天上の偉大なる方々はいつだって気まぐれだ。
どうだね、君。ともに喜びを分かち合おうじゃないか。
ちょっとだけこいつの味見をしよう』
そういいながら、辺境伯は愛おしそうに酒瓶を撫でた。
『遠慮する。
貴様も今はやめておけ。
それで体調を崩せば後悔してもしきれんぞ』
『それもそうだ……君、酒瓶をしまっておいてくれ。
定位置はもう決まっているんだ。
酒棚の一番目立つところだ。
空になってもそこに飾るつもりだからね。
くれぐれも割らないでくれ給えよ』
翌日は所用で顔を出せなかったため、これが友との最後の会話になった。
翌々日の朝から辺境伯の容体は悪化し、以後、最期まで意識を取り戻すことはなかった。
『いいタイミングではあったかもしれないな』
常備連隊は独り言ちた。
おそらく、会食はうまくいったはずだ。
長年のわだかまりが一度に解けたとはまでは思わないが、その第一歩を踏み出せたであろうことは間違いない。
そして会食の当日、〈黒犬〉が駐屯地を出て北へ向かっていた。
例の〈魔王〉と再び接触するためだ。あちらからの呼び出しがあったのだという。
その知らせは辺境伯の耳にも届いていたはずだ。
それは彼に希望をもたらしたことだろう。
もっとも、常備連隊長はその結果について期待していなかった。
人間どもがまともに捜索するとは思えない。
仮に奴らが誠実に捜索を行ったとしても、辺境伯の娘はおそらく見つからないかあるいは既に死んでいるにちがいなかった。
いずれにせよ、辺境伯がその答えを知ることはない。
彼は希望を抱えたまま逝くことができたのだ。
翌朝、常備連隊長は辺境伯軍の礼装を一分の隙も無く着込むと、喪章――黒い襟飾りをつけるのが北での習わしだった――をつけ辺境伯邸へと向かった。
懐には一封の封筒を忍ばせている。
中身は辞表だ。
辺境伯への最後の挨拶を済ませた後、そのまま〈ドラ息子〉にそれを差し出すつもりだった。
辺境伯はいつもの寝室の、黒布で飾られた寝台に横わっていた。
その傍らに跪き、祈りをささげる。
別れを済ませると常備連隊長は静かに立ち上がった。
喪主として遺体の側に控えていた〈ドラ息子〉に向き直り、ゆっくりと一礼する。
あとは、懐の辞表を手渡すだけだ。
そこでふと思いつくことがあった。
これが最後の機会だろう。
野暮とは知りつつも、聞かずにはいられなかった。
『御父上との最後の会食はいかがでしたか?
御父上は閣下が贈られたお酒をいたく喜んでおられました。
ともに楽しまれましたでしょうか?』
ところが〈ドラ息子〉が見せた反応は予想とまるで違うものだった。
『さ、酒など知らぬ!』
酷く狼狽えた様子でそう叫んだあと、取り繕うように続けた。
『ま、まあ悪くない会食だった。
父とゆっくりと話をしたのは久しぶりだ。
もう少し話がしたかった。それだけが心残りだ』
常備連隊長は、怪訝な思いを抱きながら〈ドラ息子〉を観察した。
その顔には一目でわかるほどに冷や汗が浮かんでいた。
いったい今の話のどこにあれほど慌てる要素があったのか。
常備連隊長の懐へ伸ばしかけていた手が止まった。
彼は己の思い付きに戦慄した。
まさか。いや、まさかそんなことが。
いくらこの小僧が性悪だとはいえ、そこまで邪悪ではなかったはずだ。
こいつはせいぜい小悪党にすぎない。そんな度胸があるとは思えない。
大体、辺境伯はいつ死んでもおかしくなかったのだ。
今更リスクを冒す理由もない。
にもかかわらず、〈ドラ息子〉は過剰なまでの反応を見せた。
常備連隊長は、縋るような思いで寝室の酒棚に目をやった。
酒棚のもっとも目立つ位置に置かれているはずモノが見当たらなかった。
空になっても飾り続けるといっていたあの酒瓶だ。
なぜあの酒が消えているのか。
そこに、決定的な証拠が残されていたのではないか?
彼は確信した。
辺境伯は死んだのではない。殺されたのだ。
常備連隊長は、努めて平静を装いながら答えた。
『私が最後にお会いした折にも、御父上は閣下のことを案じておられました。
今のお言葉とお気持ち、きっと御心に届いたことでしょう』
こちらが勘づいたことを、決して悟られてはならない。
『そうであれば嬉しいのだが。
お前も忙しい身だろう。
別れが済んだのならさっさといけ』
今、手元に剣がありさえすれば。
だが、葬儀の場での帯剣は禁じられていた。
いつもなら腰に吊っている武器が今ここにはない。
荒れ狂う感情を押し殺しながら、何食わぬ顔で退出する。
落ち着けと何度も自分に言い聞かせた。
今はその時ではない。
自宅に戻るなり彼は懐に忍ばせていた辞表を引き裂いた。
友の仇を討たねばならない。
だが、告発するには証拠が足りない。
ならばまだこの地位を手放すわけにはいかない。
常備連隊長の地位にあれば、剣の届く距離まで再び近づく機会もあるだろう。
待つのだ。その時がくるのを。
*
〈黒犬〉は少数の部下と共に北へ急行していた。
第十三哨戒所から『北方より不審な狼煙があげられている』との通報を受けたためだ。
第十三哨戒所は、〈壁〉に最も近い哨戒所の一つだ。
当然、そこより北に棲む者などいない。救援を求める狼煙も上がるはずがなかった。
無論、〈黒犬〉には心当たりがあった。〈魔王〉だ。
〈黒犬〉は第二令嬢の捜索を依頼するにあたり、あの奇妙な人間に辺境伯軍が使用している発煙剤を渡していた。
それを藁にまぶして火にくべると、発煙剤の種類に応じた色の煙が上がるのだ。
哨戒所で狼煙の上がった方角について確認を取り、一泊したのち再び狼鷲を駆けさせた。
目的のものはすぐに見つかった。
小高い丘の上に残された小さな焚火の跡だ。
周囲は草も生えない不毛の荒れ地で非常に見晴らしがよく、兵を潜ませるのはどちらにとっても困難だろう。
それでいて、哨戒所からも〈壁〉からも直接視認できない位置にある。
敵との密会にはうってつけの場所と言えた。
〈黒犬〉は部下たちを遠く、少なくとも丘の麓よりも離れるように指示を出す。
自身はその場に残り、持参した発煙剤で狼煙を上げた。
ここは〈壁〉からもそう遠くない。
奴は煙を見つけ次第すぐにでも――文字通り――飛んでくることだろう。
ところが、実際に〈魔王〉が姿を現したのは翌日になってからだった。
どういうわけかは知らないが、〈魔王〉は例の白竜ではなく馬に乗ってやってきたのだった。
竜を連れていては対等な交渉にならぬと考えたのかもしれなかったが、〈黒犬〉にとっては余計な気遣いでしかなかった。
元より、一対一の対面ではあちらが圧倒的に有利なのだ。
そんなことよりもさっさと飛んできてもらった方がありがたい。
〈魔王〉は例の元侍女と共に馬から降りると、ぎこちなくオーク式の敬礼をして見せた。
こちらが答礼して見せると、なにやら短い言葉で元侍女に命令した。
元侍女は『残念なお知らせをしなければなりません』と言った。
『お嬢様はお亡くなりになられました』
〈黒犬〉は驚かなかった。
この回答は十分に予想されていたものだったからだ。
だが、それをそのまま受け取るわけにもいかない。
だから〈黒犬〉は元侍女に問うた。
『なるほど。それで貴女は確かにその死を確認なされたのか』
それに対する答えは少しだけ意外なものだった。
『はい。お嬢様は私の目の前でご自害なされたのです』
元侍女は沈痛な面持ちで事の次第を話した。
それによれば、第二令嬢はオークの繁殖場で生きながらえていたという。
ところが、〈魔王〉と共にこの元侍女が捜索に訪れた際に、己の境遇とそれを受け入れてしまっていたことを恥じた第二令嬢は、帰還を拒否し人間どもに牙を剥いた。
そうして戦いの果てに自害したのだという。
〈黒犬〉は生前の第二令嬢を思い浮かべた。
あの優しくも勝気な令嬢なれば、確かにそういうこともあるかもしれない。
元侍女は話し終わると、片腕で抱えられるほどの大きさの壷を差し出してきた。
いたって質素な壷であったが、彼女の丁寧な手つきから〈黒犬〉はその中身を察した。
確認してもよいか、と彼女に視線を送る。
彼女が小さく頷くのを確認してから、蓋を取り中を検めた。
果たして、それは遺骨であった。
〈黒犬〉は壷をそっと地面に置き、一番上に乗せられていた頭蓋骨を取り上げた。
じっと見つめてみたが、第二令嬢の面影を見つけることはできなかった。
続いて、頭蓋骨の下に置かれていた下あごを確認する。
女性らしい小ぶりな、しかし外側に大きく反り返った牙を見て取ることができた。
生前、護衛として第二令嬢の開拓地視察に付き合った折に、彼女がその反った牙をひどく気にしていたことを思い出して、〈黒犬〉は少しだけ切なくなった。
『確かに、第二令嬢のものと見受けられる』
〈黒犬〉は慎重に頭蓋骨を壷に戻すと、元侍女に告げた。
告げながらふと思い立ったことを訊ねた。
『お嬢様は繁殖場にいたと、そういったか?』
そうであるならば。
『はい、そのことについて我が主からお話がございます』
そう言って元侍女は背後の主人を振り返った。
それまで背後でじっと二人の会話を見守っていた〈魔王〉が口を開いた。
少しだけ間をおいて、元侍女がそれを通訳する。
『誠に遺憾ながら、ご依頼のあった女性はご自害なされ、お助けすることは叶わなかった。
しかしながらその子供を保護することができた、と我が主は申しております』
子供、ときか。〈黒犬〉は内心で呻いた。
だがその血筋を証明するのは難しいだろう。
疑念が顔に出てしまったのだろうか、元侍女が重ねて続けた。
『お子様の血筋に関しては私が保証いたします。
あれは間違いなくお嬢様の御子です。
幼い頃のお嬢様に生き写しです』
さて、この女はどこまで信用できる? まさか、完全に人間側についたのではなかろうな?
〈黒犬〉はじっと元侍女の目を睨み付けたが、真偽のほどは分からなかった。
二人のやり取りが途切れるのを待って、再び〈魔王〉が口を開いた。
それをまた元侍女が通訳する。
『ついては報酬を要求したい、と我が主は申しております』
〈黒犬〉が『いかほどか』と問い返すと、〈魔王〉はバケツのような古風な兜と金貨一枚を差し出してきた。
『この兜をこれと同じ金貨で満たして返すように、と我が主は申しております』
それは帝国大判金貨だった。
高額決済時にのみ用いられるもので、開拓地では中々お目にかかれるものではない。
この兜を満たすとなれば、どれ程の枚数が必要になるだろうか?。
辺境伯府の財政からすれば法外という程でもなかろうが、この場で気安く請け負える額では決してない。
たとえあの辺境伯がためらいなく払うだろうとわかっていてもだ。
大体、その子供とやらの真偽すら怪しいのだ。
『即答は致しかねる。
一度、持ち帰って相談したい』
『構わない。額については交渉の余地がある。
よく話し合うように、と我が主は申しております』
『せめて、その子供の顔だけでも確認したい。
事前に見せてもらうことは可能か』
『引き換えに金貨を見せてもらえるのなら、と主は仰せです』
続いて条件を飲むのなら青い狼煙、飲まずに再交渉ならば赤い狼煙をこの丘で上げることを約束して、この日の交渉は終わった。
青い狼煙を上げた場合、〈魔王〉は第二令嬢の遺児を連れてこの場に姿を現すことになる。
最後に〈黒犬〉は例の兜を受け取り、代わって発煙剤の補充を渡す。
去っていく元侍女と〈魔王〉を見送りながら、〈黒犬〉は受け取った兜を弄んだ。
何の変哲もないその兜が、奇妙に重く感じられた。
次回は7/22を予定しています




