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第六十三話 辺境伯の娘

 北方辺境伯の娘は、絶望の果てに、どうにも死に切れぬまま生きながらえていた。

 人間どもに捕まったオークの行く末については様々な噂を聞いていた。

 生きたまま食われてしまうだとか、邪神の生贄にされてしまうだとか、あるいは奴隷として過酷な労働を強いられるだとか。

 だがこの貴族令嬢にとって、現実はそれらの噂以上に過酷なものだった。


 彼女は、ここについてすぐに、レンガ造りの分厚い壁をもつ小屋の一つに押し込まれた。

 頑丈な出入り口以外には小さな覗き窓が一つあるきりの、狭苦しい部屋だった。

 人間どもの手口はいたって単純だ。

 男女一組のオークをこの小屋に放り込み、扉を厳重に封鎖する。

 後は事が済むまでただ放置するだけだ。


 彼女の最初の相手に選ばれたのは、元は農夫だったといういたって善良で純朴な青年だった。

 彼は、一目で彼女が何者であるか――あるいはあった(・・・)か――に気づいた。

 藁の敷き詰められた狭い床の上に平伏しながら、彼はここで何が行われているかを教えてくれた。

 この小屋の扉は事が済むまで決して開かれることはない。

 ここにいる間は食事も提供されない。何もしなければ飢えて死ぬだけである。

 貴きお方にとっては、自分のような下賤の者に触れられるだけでも嫌だろうが、お命を繋ぐため、どうか自分を受け入れてはくれないだろうか。

 そう言ったことを、彼は震える声でつっかえつっかえしながら訴えた。


 何というおぞましき施設であることか。辺境伯の娘は戦慄した。

 ここはオークの繁殖場なのだ。奴隷どころの騒ぎではない。

 オーク――知性と感情を有する『魂のある生物』――の尊厳など、ここには欠片も存在しない。

 自分たちはまさに家畜として扱われているのだ。


 小屋の外から、悲しげな叫び声が響いてきた。

 恐らく、自分と一緒に買われてきた侍女たちのものだろう。

 他の小屋でも同じようなことが行われているのだ。

 相手がこの優し気な青年だったことを考えれば、自分は幸運ですらあったのだ。


 辺境伯の娘は覚悟を決めた。

 誉れ高き北方辺境伯家の娘が、家畜として生きるなどあってはならない。

 それは家名を辱めることになるだろう。

 彼女はありったけの勇気を奮い起こして、平伏する心優しい青年に命じた。


『私を絞め殺しなさい』


 青年は驚いて顔を上げたが、すぐに辺境伯令嬢が一糸まとわぬ姿であることを思い出してまた顔を伏せた。

 そしてそのままの姿勢で肩をブルブルと震わせながら答えた。


『こ、殺すだなんてとんでもねえ!

 辺境伯様には大変なご恩がございます。

 姫様にもです。わしらの村を見舞ってくれたことがありましたでしょう。

 あれにどれだけ勇気づけられたことか。

 姫様のような良いお方を殺すだなんて、わしにはとても出来ねえ』


『ならばなおのことです。

 その恩を今返しなさい。

 私の名誉を、貴方が守るのです』


 嫌がる農夫の青年を、精一杯の威厳を込めて宥め、賺して、どうにか殺害に同意させた。

 彼はボロボロと涙を流しながら馬乗りになって辺境伯の娘の首に手をかけた。


『申し訳ありません……申し訳ありません……』


 その手に力が入り、首が締まる。

 視界が狭まりチカチカと明滅しだす。心臓がバクバクと音をたてながら空回りした。

 意思に反して、空気を求めて口が開く。

 だが、肺が満たされることはなく、呻きすら声にならない。

 苦痛のあまり身を捩った瞬間、喉を締め付けていた力がパッと緩んだ。

 突然流れ込んできた新鮮な空気に、辺境伯の娘は咽た。


『やっぱり無理だ……! わしにはできねえ!』


 青年はそう叫んで、オイオイと泣きながら蹲ってしまった。


『堪忍して下せえ……わしには無理です……どうかお許しを……』


『何をしているのです! あと少しだったのに! 殺しなさい!』


 辺境伯の娘は青年を打擲したが、無論何の効果もなかった。

 オークは人間のように舌を噛み切って死ぬことはできない。

 他に何か自害の役に立ちそうなものがないかと見まわしたが、何も見つからなかった。


 残された手段はただ一つ。

 このまま何もせず、飢えて死ぬのを待つほかはない。

 辺境伯の娘は、蹲って泣き続ける青年にそのことを告げた。


『申し訳ありませんが、貴方にも協力してもらわねばなりません。

 よろしいですね?』


『へえ、姫様。わしでよければ、どこまでもお供させていただきます』


 青年は打ちひしがれたまま誓ってくれた。


 二人は、ただ横になって死が訪れるのを待った。

 時折人間がやってきて、二人の様子を覗き窓から確認していった。

 空腹には三日ほどで慣れた。

 耐え難いのは乾きの方だった。

 乾ききった身体が水を求め、苦痛を訴える。

 眠ってやり過ごそうにも、定期的に頭痛と吐き気が押し寄せ、睡眠を妨げた。

 飢餓によって感覚は鋭敏になり、あらゆる刺激が引き金となってさらなる飢餓感を呼び起こす。

 死への恐怖と苦痛とが理性を蝕んでいく。


 食べ物が与えられることはなかったが、水だけはきちんと用意されていた。

 覗き窓の下に木桶が置かれており、一日に一度、監視のついでに窓からそこに水が注がれるのだ。

 何も食べずとも、水さえあれば生存期間は格段に延びる。

 だが、それは自殺を試みる者にとっては苦痛を引き延ばすことに他ならない。

 恐らく、人間どもはそのことを熟知しているのだろう。


 柄杓で水が注がれる度に心地よい音が小屋の中に響き渡る。

 普段の何倍も鋭くなった耳がそれを拾い、全力で心を揺さぶってくる。

 チラリと目を向ければ、水面が宝石のようにキラキラと輝いている。

 それらに抗うには、ありったけの意思の力が必要だった。

 そして、その意志の力は体力の低下と共にどんどんと失われていく。


 善良な農夫の青年が屈したのは四日目の昼のことだった。

 木桶から響く甘い音を耳にして、彼の目に狂気が宿った。

 飛び起きて木桶に飛びつき、頭を突っ込んで無我夢中で飲んでいた。

 ひとしきり飲み終わった彼は、そこでようやく辺境伯の娘のことを思い出し、振り返った。

 目から狂気は抜け落ちて、悲しげにうるんでいた。

 辺境伯の娘は、静かに首を振って彼を許した。

 仕方のないことだった。彼には死ぬ動機はない。


 その翌日、とうとう彼女も屈した。

 人間はいつものように木桶に水を注いだ後、ついでとばかりに彼女の顔に水をひっかけていった。

 ただそれだけのことだった。

 顔を伝った水が、ほんの数滴、彼女の口の中に流れ込んだ。

 それはただの水だったが、まるで天上の甘露のようだった。

 その味を知った途端、彼女の理性は吹き飛んでしまった。

 訳の分からない叫びを上げながら農夫を押しのけ、木桶に首を突っ込んだ。

 そして気が付くと、彼女は農夫とともに大声を上げて泣いていた、


 農夫は泣きながら訴えた。


『もうだめだ! わしはもう耐えられねえ!

 こんな姫様を見るのはもう嫌じゃ!

 すきっ腹を抱え続けるのもごめんだ!

 わしは死にたくねえ……苦しいのも嫌じゃ……姫様、どうかわしを助けて下せえ。

 ここから出して下せえ……』


 同じように彼女も限界を迎えていた。

 それでももし、青年が強引なやり方をしたならば、彼女は抵抗しただろう。

 だが、そうはならなかった。

 青年の救いを求める声が大義名分となり、彼女の心の最後の抵抗を霧散させた。


 彼女たちが小屋から出されたのは、そのすぐ後のことだった。


 一度屈してしまえば、この境遇受け入れるのにさしたる間はかからなかった。

 彼女は、あの善良な農夫の子――恐らくそうだ――を身ごもった。

 それに伴う心身の変化は彼女に生への執着を生じさせ、死への希求を遠ざけた。

 翌年になって彼女は出産した。

 可愛らしい女の子であった。


 辺境伯の娘であることをやめ、ただの家畜となった彼女は、その後さらに二人の子をなした。

 いずれも男の子であった。

 子供たちが育っていくのを見守るのが、唯一の慰めになった。


 だが四度目の冬が過ぎた頃、息子二人が人間どもに連れ去られた。

 他のオークの子供たちも同様だった。

 女児ばかりが手元に残された。


 この出来事によって、彼女は改めて自らのおかれた立場を突きつけられた。

 自分たちは家畜であり、ここはその繁殖場にすぎない。

 ここで生まれた子供たちは生まれながらに家畜として生きるしかない。

 この子たちに、幸福な未来は決してこない。


 誇りを捨て、諦めと共にようやく受け入れた境遇で得た微かな慰めですら、今や絶望的なな営みの一部となってしまった。

 それでも、残された娘のためにと死に切れずに続く日々。

 だが、春も半ばに差し掛かったある日、変化が訪れた。


 かつて、自分の侍女だった女が姿を現したのだった。

 四年ぶりに元の筆頭侍女に傅かれ、彼女は自分が何者であったかを否応なく思い出した。


 思い出してしまった以上、もはや今のままでいることはできなかった。

 北方辺境伯の血筋に連なる者として、相応しく振るわねばならない。


 かくして辺境伯の娘は、己が名誉を守るための戦いを開始したのだった。



 俺たちが牧場に到着すると、農具やら棒やらを手にした男たちが厩舎を遠巻きに取り囲んでいた。

 数にして二十ほど。恰好から見て近隣の農民たちと思われる。

 いかにも戦慣れしていない様子で、不安げに身を寄せ合っていた。

 今にもあそこから恐ろしいオークどもが飛び出してくるんじゃないかと気が気でないのだろう。


 彼らの一人が、こちらに気づいて声を上げた。


「見ろ! 領主様がいらしたぞ!」


 農夫の群れからワーっと歓声が上がり、年嵩の男がこちらに向かって駆けてきた。


「大変でございます! 牧場のオークどもが暴れだしました!  既に死人も出とります!」


「聞いておる。

 牧場の者はどうした。詳しい話が聞きたい」


 領主に問われて、年嵩の男は「おーい」と元の群れに向かって手を振った。

 一人の男が足を引きずりながらこちらにやってくる。


 年嵩の男が領主に言う。


「牧場の生き残り(・・・・)です。

 あれが真夜中にウチの村に逃げ込んできたんでさあ」


 領主の眉間に皺が寄る。

 足を引きずった男がゼイゼイと息を切らしながら、領主の下に跪いた。


「一体どうなっておるのだ!」


 男は領主の怒気をはらんだ声に気圧されながらも、どうにか話し始める。


「ああ、領主様!

 昨晩遅くのことでした。オークどもがやけにビービー騒ぎやがるもんでダムジとドムジの野郎が見に行ったんですが、慌てて戻ってきたと思ったら、オークの一匹が血ぃ流して倒れてるってんで、何しろ今どきのオークは高価なもんで、それで大急ぎで水と布を用意しろっていうから――」


「ええい! そんなことはどうでもいい!

 お前らの主人はどうなった!

 無事なのか!?」


「へ、へえ。殿はあの中に……」


 男が指さした先は厩舎の扉だった。

 まだ薄暗い中を、領主が目を細めて凝視する。

 俺は呻いた。


 半開きの扉の隙間から、血塗れの死体が二つばかり転がっているのがチラリと見えた。

 どちらもひどく損壊している。

 いや、まあ、気持ちは分かるが、何てことしてくれるんだ。

 これはもうどうやったって穏便には収まりっこない。


 領主も扉の内側に転がっているものを認めたらしい。彼は怒声を上げた。


「貴様ァッ!

 主人を見捨てて逃げたのか!

 この場で切り捨ててくれる!」


 そっちか。

 見れば確かにこの男は一滴も血を流していない。


「お、お待ち下せえ!

 確かにあっしは殿に多大な恩がありますが

 何しろこの足ですので、戦いに加わるより周りに知らせた方がよかろうと思って――」


 そう言って男はズボンの裾をまくって見せた。

 そこには木を雑に削っただけの、粗末な義足がついていた。

 そう言えば牧場主も元は傭兵だったといっていたな。

 従業員はその伝手で集めたか。


 しかし厄介だな。

 あのオークたちは、元とはいえ傭兵どもを皆殺しにしてのけたのだ。

 小出しにおびき出して不意打ちしていったようだが、それだけ頭が回るということだ。

 決して油断のできる相手ではない。

 まずは奴らの戦力を確認しなくては。


「それで、中にいるオークはどれほどですか?」


「へぇ、オスが六匹、メスが十三匹、それから小せえのが十二匹、今のところ逃げた奴はいません……」


「こちら側の損害は?」


「あっし以外は全員……ああ、数で言えば六人、それから村の若い衆が二人やられとります」


 村人二人は、駆け付けた際に不用意に厩舎を覗きに行ってやられたということだった。

 今扉の隙間から見えているのがそれだ。

 やはり手練れがいるな。

 オークの奴隷には元兵士が少なからず混ざっている。戦い慣れた奴がいてもおかしくはない。

 殺された牧場の従業員は全員帯剣していたという。

 間違いなくその武器はオークどもの手に渡っている。

 村人たちが到着するまでに従業員らが住んでいた宿舎も荒らされたらしく、刃物の類が持ち出されていたそうだ。

 実に厄介だ。


 どういうわけかオーク達はその後逃げもせず厩舎に立て籠もっていた。

 逃げる当てもなかろうが、それにしたってここにいれば待っているのは確実な死だ。

 奴らとてそれがわからないほどの馬鹿でもなかろう。

 何がしたいのかがさっぱりわからん。

 いや、自殺志願か。なるほど貴族ならそうかもしれない。


 足りない頭で必死に考える俺をよそに、領主が大声で叫んだ。


「どれほどいようが関係ない!

 皆殺しだ! あのぼろ小屋に火をかけてやれ!」


 厩舎は木造だ。実に合理的な解決法ではあるが、それでは困る。

 あそこには囚われのお姫様がいるのだ。

 俺は慌てて領主を引き留めた。


「お待ちください。まだ全員の死亡を確認していません。

 まだ息のある者が中にいるかもしれません」


 扉の隙間からチラ見えしている死体はどう見ても不必要なレベルでめった刺しにされている。

 奴らはよほど人間が憎いと見える。当然だろう。

 だが、牧場主が生きている可能性は、まあ、確認するまではまったくのゼロではないのだ。


 領主が唸り声をあげた。


「ならば、直ちに突入し手ずから切り刻んでくれる……!」


 まあまあと俺は領主を宥めた。


「奴らは生存者を人質に取っている可能性があります。

 迂闊に近寄れば、人質が殺されるかもしれません。

 まずは中の様子を確認しましょう」


「なんの! あの男も騎士の端くれ!

 戦場に死ぬ覚悟はできておりましょう!

 さあ皆の者! 剣を抜け! 盾を並べろ!

 いざ征かん!」


 俺はいきり立つ領主を必死で止める。


「早まらないでください!

 どうせ奴らに逃げ場はありません。落ち着いて対処すればいい。

 さあ大きく息を吸って、よろしい、今度はゆっくりと深く吐いてください。

 どうです? 落ち着きましたか?」


 領主は律儀にも、言われた通りに深呼吸をする。

 はい、もう一度。ふう。


「かたじけない。少々取り乱しておったようです」


 領主の目に理性が戻ってきた。ちょろいな。


「しかし勇者殿。

 いやにオークどもをお庇いになられますな。

 何か事情がおありですか」


 理性と一緒に余計な知恵まで取り戻しやがった。


「実は牧場主とあそこのオークの一匹を買い取る約束をしているのです。

 既に安くない金も支払っておりますので、むざむざ殺させるのは少々惜く……」


 金はまだ払っていないが、まあ死に人に口なしだ。

 仮に生きていたならその時は記憶違いだったと訂正すればいいのだ。


「ご安心召されよ。

 金の損失については私めが必ずや補償いたします。

 かのオークどもは我らの係累が仇でございますので、

 どうかこの場はお譲りいただきたく」


 安くはありませんよと金額を提示しても、領主殿は一向に動じない。

 これは一族の名誉の問題であると言われれば、こちらとしても反論し辛い。


 仕方がないので俺は正直に事情を打ち明けることにした。

 領主に人払いを頼み、彼の耳元に囁く。


「どうか、これから話すことは内密に願います。

 あの厩舎の中に、あるいわくつきのオークがおります。

 詳細をお知らせするわけにはいきませんが……。

 私は、さる高貴なお方の密命によって、そのオークを探していたのです。

 その身柄を、可能な限り確実に抑えたい」


「高貴なお方……?

 まさか、陛下が!?」


 俺は可能な限り誠実な、精一杯の答えを口にする。


「依頼主の名を明かすことは決して出来ません。

 ご理解ください」


 領主の目が大きく見開かれた。

 どうやらこちらの事情を理解してくれたらしい。

 やはり誠意をもってきちんと話せば、気持ちというものはちゃんと通じるのだ。


「分かり申した……。

 この場は勇者殿にお任せいたします。

 しかしながら一体どうするおつもりで?」


「無論、考えがあります」


 そう言いながら俺は来た道をちらりと振り返った。

 視線の先に小柄な人影が二つ。

 実にいいタイミングだ。


「アレを使います」


 ジョージと花子がようやく追いついてきた。

 俺は剣ごと剣帯を外すと、それを領主に押し付けた。

 反対側の腰に吊った短剣も鞘から引き抜き、これもついでに押し付ける。


「アレを連れて、中の様子を見に行きます。

 やつらも同じオークが一緒なら少しは油断するでしょう」


「勇者殿自らですか!

 しかし、丸腰というのはあまりに……」


「武器を持っていれば警戒されてしまいます」


 そう言いながら、短い〈光の槍〉を出し入れして見せる。

 領主はそれで納得してくれた。


「では勇者殿、よろしくお願いします」


 俺は騎士の礼をとる領主に背を向けて、ジョージと花子たちの所に向かう。


 ジョージに首輪を外すよう指示する。

 その間に、花子に今の状況を簡潔に伝えた。


「牧場のオーク達が反乱を起こした。

 これから厩舎に入り、お姫様を連れ出す。

 お前の出番だ。働いてもらうぞ」


 花子が力強く頷いた。


次回は7/8を予定しています

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