第六十二話 父として
――北方辺境伯領・辺境伯私邸にて
『なあ、友よ』
唐突にそう呼び掛けられて、常備連隊長は書類からゆっくりと顔を上げた。
このところ彼は、辺境伯邸で日常の大半を過ごしていた。
余命僅かとなった主との、最期のひと時を過ごすためであった。
『なんだ』
主からの呼びかけに、常備連隊長はぶっきらぼうに答えた。
『友よ』という呼びかけは、立場を忘れ一人の友人として振舞って良いという合図だった。
辺境伯に『友』と呼ばれた者は他にも幾人かいたが、常備連隊長はその最後の一人だった。
『頼みがあるのだ』
それに続くであろう言葉を予想して、常備連隊長は苦笑した。
彼の友人は、この親しい間柄を示す符牒を泣き落としの手段として使うことがままあった。
この間もそうだった。
悪い癖だ、と常備連隊長は思う。
だが、まあいい。誰にだって悪癖の一つや二つあるものだ。
『息子のことだ。
私がいなくなった後も、あいつを支えてやってもらえないだろうか』
予想通りの言葉に、常備連隊長はフンと鼻を鳴らして答えた。
『息子殿は、俺の手助けなんぞ望んじゃいないようだぞ』
『だめか』
『ああ、ダメだ』
辺境伯が小さくため息をつくのを尻目に、常備連隊長は席を立った。
それから戸棚の内の酒瓶とグラスを取り出し、勝手に注ぐ。
どちらも辺境伯の秘蔵の品だった。
『それで、どうするつもりだ』
戻ってきた常備連隊長に、辺境伯が訊ねる。
『北へ行く』
『北へ?』
『そう、開拓地だ』
常備連隊長の答えに、辺境伯は怪訝な顔をした。
『昔から決めていたんだ。
あそこは俺たちが守り、切り拓いてきた土地だ。
退職金で小さな農場でも買い取って、そこでのんびりと暮らすつもりだ』
『なるほど。
だが……いまとなっては危険過ぎやしないかね』
『どこぞのドラ息子のおかげでな。
おい、奴は開拓地を見捨てるつもりだぞ。
開拓民兵まで解散しおった』
辺境伯は眉間に皺をよせ、少しだけ考えてから答えた。
『知っている。
息子は昔からずっと私のやり方に反対していたよ。
僻地なんぞに構わず、もっと中央の政治に力を入れるべきだというのがあれの主張だった。
さもなければ、帝国内での地位と発言力が低下していき、いずれ自治や独立性の維持もできなくなるとな。
なるほど、それも一つの理ではある』
彼はそこで言葉を区切り、ため息をついた。
『もう昔とは時代が違うのだろう。
息子がそうしたいというのであれば、口を挟むつもりはない。
次の時代のあり方は、次の世代の者が決めるべきだ。
先の遠征も元はと言えば、その方針転換を助けるためのものだ。
私の代の内に、可能な限り大きな打撃を人間どもに与えておきたかった。
そうすればあれが方針を変えた後も北の安全は高まる。
あれも、背後を気にせずにすむようになる。
帝都は巨大な伏魔殿だ。大きな武勲があれば、箔もつき動きやすくもなろう。
……だが、全部裏目に出てしまったな』
『そうやって甘やかすからつけあがるのだ。
おい、今だから言うが、貴様は子育てに失敗したぞ』
辺境伯は寂し気に微笑んだ。
おそらくそれは、多分に自嘲を含んでいた。
『それについては自覚があるよ。
良き統治者になれるよう、できうる限りの教育を与えてやったつもりだった。
帝都へ送ったのも、それが最善と思えばこそだ』
常備連隊長が鼻を鳴らす。
『あれは殆ど人質のようなものだろう』
『そうだ。だが、帝国学習院が最高の教育環境であったのも事実だ。
まあ、結果を見ればやはりあれも失敗だったのだな。
せめてもっと息子に時間を割いてやるべきだった。
息子は私を憎んでいるよ』
二人の老オークはしばしの間沈黙した。
『なあ、友よ』
『なんだ』
『息子と仲直りする、何かいい方法を知らんかね』
老将がまた鼻を鳴らした。
『それを俺に聞くのか』
『もう君以外に、頼れる者はいないのだ』
老将の鼻からため息が漏れた。
それから彼は友人を睨みながら答えた。
『知らん……と言いたいところだが、友の頼みだ。
少しだけ、コツを教えてやろう』
辺境伯の目が輝いた。
『一度しか言わん、よく聞け』
『無論だとも』
身を乗り出した辺境伯の耳元で、常備連隊長が厳かに告げる。
『よく話し合うことだ。
例えば今の話だ。貴様の腹の内を洗いざらい話してしまえ。
あいつの言い分をじっくり聞くのも忘れるなよ』
辺境伯は身を引いて、つまらなそうに鼻を鳴らした。
『何を言うかと思えば』
『貴様が昔、俺に言ったんだ。
おかげで俺は妻とよりを戻すことができた。
感謝している』
『しかし、話し合おうにも機会がない。
ここにはもう滅多に顔をださん。
あれも今や忙しい身だからな』
『機会なんぞいくらでも作れるだろう。
食事にでも誘えばいい』
『食事か……しかし口実が……』
『父が息子を飯に誘うのに、何の口実がいるんだ。
すぐに誘え。貴様に残された時間はもう残り少ないぞ』
辺境伯はしばらく項垂れていたが、じきに友人に向き直っていった。
『ありがとう。早速そうしてみることにしよう』
答えを聞いて、常備連隊長は満足げにグラスの中身を飲み干した。
『あとは……娘が戻ってきさえすれば……』
辺境伯がそう独り言ちるのを、常備連隊長が聞きとがめた。
『本当に、戻ってくると思うのか』
『分らんよ』
辺境伯は力なく応えた。
『分らんが……』
その声に、少しだけ力がこもる。
『もし本当に娘を交渉で取り戻すことができたなら。
なあ、私たちはずっと人間たちと争ってきた。
奴らと話し合いができるだなんて、思ってもみなかった。
だが、もし彼らと語り合い、和解することができたのなら。
それは新しい時代の幕開けになるよ。
そう思わんかね』
そう言った辺境伯の顔は、とても晴れやかだった。
*
―― 〈竜の顎門〉北方、〈牧場〉にて
俺たちの目の前に現れたのは、精悍な顔つきのいかにも武人然とした男だった。
目つきは鋭く、額から頬にかけて大きな傷跡が横切っている。
立ち居振る舞いからも長く戦場に身を置いていたことが窺われる。
牧場主という長閑な肩書に比して、あまりに厳つい容貌だった。
聞けば、元はどこぞの小領主の四男として生まれた騎士身分であるらしい。
もっとも四男ともなれば、家督を継げる可能性は殆どない。
そこで彼は戦場で身を立てるべく家を出た。
前相続分として得た金で馬と装備を買い揃え、自由騎士として戦場に向かった。
そうして日々の糧と仕官先を――あわよくば婿入り先も――求めてあちこちの討伐隊を渡り歩いていたそうだ。
なるほど、道理で。
足に傷を負い、傭兵稼業から身を引くことになった彼だったが、幸いにもそれなりの貯えを持っていた。
その貯えに実家からの若干の融資を加えて、このオークの養殖事業を始めたという。
「当初は随分と笑われたものでした。
オークが働けるまでに育つには八年はかかりますからな。
それとてまだまだ非力でか弱い。
十分に働けるまでにはその倍はかかる。
そんなものに手間と餌代をかけるぐらいなら、攫ってきたのを買った方がよほど安い」
牧場主の男は、施設を案内しながら上機嫌で説明してくれた。
なるほど、育成コストか。勉強になるな。
そんな話を理解しているのかいないのか、花子は何の表情も浮かべずジョージとともに俺の後についてくる。
「しかし、私は確信しておりました。
いずれオークどもを狩るのが困難になる時代が来ると。
私の目に狂いはなかった。予想より早かったのは確かですがね。
今では後発の同業者が目の色を変えてメスのオークを買いあさっています。
元々メスは希少なのですよ。
私がオークの繁殖を思いついた時分には、それでもメスの値段はオスの半分以下でした。
今では価値が逆転し、オスの三倍以上の値がついているそうです。
値上がりしたその上に、です。
彼らが投資分を取り戻すのはずいぶん先のことになるでしょう。
オークを番わせるにはコツがいりますからな。
豚のようにただ同じ柵の中に囲っておけばいいというものではないのですよ。
これは勇者様と言えどお教えするわけにはいきません、商売上の秘密というやつです」
彼は笑いが止まらない様子だった。
まぁ、確かに笑いたくもなるだろう。
笑われて、馬鹿にされて、それでも貫いた信念がようやく実を結びつつあるのだ。
しかし、水車の話を聞いても彼は上機嫌のままでいられるだろうか?
試してみたくなったが思いとどまった。
彼の機嫌を損ねるのは得策ではない。
なにしろメスオークの相場は随分と値上がりしている。
こういうときは機嫌と値段が直結しやすい。彼には上機嫌でいてもらわないといけない。
怒らせて「どんな大金を積まれても売らぬ!」などと言われては困るのだ。
そうなったが最後、説得には強引な方法をとらないといけなくなる。
例えばそう、ヴェラルゴンに協力してもらったりだ。
アイツは〈顎門〉に置いてきたから、呼び寄せるには少し時間がかかるな。
花子を連れ歩くには馬の方が便利なのだ。
しかし、ヴェラルゴンはオークの買取なんかを手伝ってくれるだろうか?
オークのことが大嫌いだからな。
説得どころか牧場ごと焼き払いかねない。
なるべくなら穏便に済ませたいところだ。
いつの間にか牧場主が足を止め、顔色を窺うようにこちらを見ていた。
おっと、いけない。
不穏な考えが気配となって、少々外に漏れてしまったらしい。
彼の方も元傭兵だけあってこういう気配には敏感なようだ。
まだ戦場気分が抜けていないせいか、すぐに思考が物騒な方向に流れてしまう。
気を付けないとな。
俺が「なんでもない」と微笑んで見せると、牧場主は若干顔を引きつらせつつ話題を切り替えた。
「ゆ、勇者様は牙が逆さに反ったメスのオークをお探しとのことでしたな」
「はい。こちらの牧場に該当する個体がいると伺ったのですが」
「いかにもそのようなオークがおります。
お目にかけましょうか?」
俺が頷くと、彼は近くにいた使用人に件のオークを連れてくるよう命じた。
使用人が戻ってくるのを待つ間、彼はそのオークについて話してくれた。
「不思議なオークでしてな。まず、妙に気品がある。
何をおかしなことをとおっしゃられるかもしれませんが、本当なのです」
「笑いはしません。オークにもいろいろなのがいますからね」
そいつはオークのお姫様なのだから当然だろう。
「そのせいかどうなのか、最初はなかなか番おうとしませんので苦労しました。
普段ならオスの方が無理やり番って片がつくのですが、
あいつに対してはオスどもも妙に遠慮するようでして――」
使用人はすぐに戻ってきた。
「殿、連れてまいりました」
その手にした鎖の先に、一匹のオークがつながれている。
なるほど、牧場主の言うとおりだ。
そいつは明らかに他のオークと一線を画していた。
何一つ装飾品を纏わずとも、その佇まいだけで高貴な生まれと分かる。
念のためと振り返るよりも早く花子が駆けだした。
あまりに唐突だったためジョージの反応が間に合わなかった。
ジョージが手にしていた鎖がピンと伸び、花子は仰向けにすっころんだ。
慌てて駆け寄ったジョージが花子の首輪を外してやる。
その間に少しだけ冷静さを取り戻した花子は、ゆっくりとかつての主人の元へ向かっていった。
その足元に跪き、泣きながら何か言っている。
もう聞くまでもないな。アイツで正解だ。
俺は牧場主に向き直り、あのオークを買い取りたいと告げた。
牧場主はわざとらしい笑みを浮かべながら言った。
「もちろんお譲りいたしますとも、勇者様。
しかしながら、我が牧場のオークにどれだけの価値があるのか
先ほどの話から既にご存知のことと思います。
公正な対価をいただかねばなりません」
そう言いながら売値を示す。
ずいぶんな値段だった。水車小屋が三つは作れそうな額だ。
何か事情があると見抜かれているのだろう。
まぁ、それはいい。
〈黒犬〉の奴に請求してやれば済む話だ。
確かに大金ではあるが、オークの大地方領主の財布なら何とでもなるだろう。
なんなら手間賃を吹っかけてやってもいい。
問題は、ツケがきくかどうかだ。
支払いは後でもいいかと聞くと、案の定牧場主は渋い顔をした。
「せめて半値は引渡し前に払っていただきたいところです」
これは困った。俺には現金の持ち合わせが殆どない。
トーソンと相談しなくちゃならない。きっと嫌な顔をされるだろう。
最悪、メグに借金を申し込む覚悟も決めておくか。
「あるいは、そちらの雌オークを半金の代わりにしていただくことも可能ですが……」
おっと、花子の性別を一目で見抜いたか。
俺とは大違いだ。いや、今は女物の服を着せてるんだから見分けて当然か。
だが話にならん。花子は替えがきかないのだ。
俺は彼の提案を丁重に辞退し、金策をしてから出直すことを告げた。
ついでに、くれぐれもこのオークを生かしておいてくれるよう念押しする。
「では、しばらくの間コイツへの種付けは控えるようにしましょう。
牛や馬に比べますと、やはり出産は危険を伴いますからな。
ただし、いつまでもというわけにはまいりません。
そうですな……ふた月までは待ちましょう。
できるだけ早くご用意いただければと思います」
牧場主のありがたい心遣いに礼を言うと、牧場主はニッコリと笑った。
「時に勇者様、今夜の宿は既に手配しておられますか?」
「いいえ、これから探そうと思っていたところです」
この国には大きな街や街道沿いを除けば宿屋なんて上等なものはない。
俺のような領主階級は、途中で見つけた領主の館に泊めてもらうのが普通のやり方だ。
宿を求められて断るのは恥であり基本的に断られることはないが、まずは館を見つける必要がある。
ちなみに俺の〈カダーンの丘〉にはそういった客人はあまり来ない。
多分、先々代の元帥閣下のせいだろう。
「であれば、この近くに我が縁戚の館があります。
人をやって話を通しておきましょう」
聞けばこの牧場の土地も、その縁戚の領主から借りているのだという。
なるほど、商売一つ始めるにもコネがなくては話にならんというわけだ。
厚意に甘えてお邪魔した先は、〈カダーンの丘〉のそれより一回り大きな館だった。
館の主は突然の訪問にも嫌な顔一つせず部屋を貸してくれた。
彼には三人の幼い息子がいて、花子に芸をさせると大いに喜んでくれた。
美味しい食事とお酒を振舞われ、楽しい気分で宛がわれた部屋に戻る。
いい気持ちですやすや寝ていたが、明け方になって不穏な気配を感じて目が覚めた。
何やら館の外が騒がしくなっている。
庭に出てみると、館の主が武装して馬にまたがっていた。
夜明け前の微かな明かりに鎖帷子が鱗のように輝いている。
使用人たちも剣を佩き、槍やら斧やらを手にして物々しい雰囲気だ。
頭には兜を被り、背には揃いの紋章盾まで負っている。
「何かありましたか」
領主に声をかけると、彼は兜の面を上げてこちらを振り返った。
「おぉ、これは勇者様!
実は、領内でちと問題がおきましてな」
なるほど、揉め事か。まあ、どうみても揉め事だな。
人間同士の争いには首を突っ込まないのが俺の基本方針だが、何しろ一宿一飯の恩がある。
俺は〈光の槍〉と〈光の盾〉を両手に出現させながら言った。
「何かお手伝いできることはありますか?
腕には少々自信があります」
「それはありがたい!
実は、あのオーク牧場から救援要請がきておるのです。
どうもオークどもが暴れだしたのだとか。
オーク殺しの勇者様にご一緒いただけるのであれば、これほど心強いことはござらん!」
なんてこった。
次回は7/1を予定しています




