第五十六話 追跡
〈黒犬〉は〈腰巾着〉の背を見送りながら不快気に鼻を鳴らした。
あの男は〈ドラ息子〉の腹心である。
それが親切にも、『敵が来ている』と知らせるためにわざわざ市壁の外まで出向いてきたのだった。
曰く、『敵は騎兵約二百。シャーマン及び歩兵を伴っている。また三頭ほどの竜が目撃されており、うち一頭は純白である』と。
無論、その程度の情報は〈黒犬〉の耳にもとうの昔に入っている。
あちらとて、〈黒犬〉が何も知らぬ等とは思っていないだろう。
要するに、『さっさと出ていけ』と言いたいのだ。
〈黒犬〉は彼の来訪をそのように受け止めた。
〈腰巾着〉と入れ違いに、部下の一人が入室してくる。
『隊長、出陣準備が整いました』
〈黒犬〉は『応』と短く応えて席を立つ。
わざわざ言われなくても、もとより出かけるつもりで準備を進めていたのだった。
(黙っていればこちらも気持ちよく出立できたものを、
相手を不快にさせることにかけては一流だな)
苛立ちを兵に悟られぬように、内心で毒づきながら営庭へと向かう。
そこには五名の狼鷲兵がすっかり旅支度を済ませて整列していた。
彼らの脇には狼鷲が眠そうな眼をして伏せている。
腹いっぱいに肉を詰め込んでいるためだった。
これで五日程であればなにも食わずとも行動可能なはずだ。
いずれも、隊内でもっとも優れた嗅覚と、鋭い眼を持つ鷲たちであった。
乗り手は言わずもがな。長年、隊の前衛を務めてきた歴戦の狼鷲兵である。
今回の目的は戦いではない。
そのことを踏まえて〈黒犬〉が下したのは、捜索に特化した少数精鋭という選択だった。
捜索に当たっては大人数の方が有利だが、人間側からもこちらを見つけやすくなる。
確かに〈魔王〉は〈黒犬〉を釈放したが、あれはどうも奴の独断だった節がある。
〈魔王〉の意志が人間どもの間でどれだけ共有されているかがわからない以上、こちらが先に発見し、接触の可否を窺わねばならない。
何より今回の接触は、辺境伯の指示によるものとはいえ裏切りともみなされかねない、ある種の難しい問題をはらんでいる。
隊員の選別にあたっては能力だけでなく、口の堅さもその基準とした。
最大の問題は、本当に〈魔王〉と接触できるかという点だった。
これについても、〈黒犬〉は勝算が高いと踏んでいた。
最大の根拠はあの白い竜だ。
村落襲撃において最も高い頻度で目撃され、今や開拓地の悪夢として恐怖の象徴にすらなっている。
〈壁〉での戦いにもその姿を現し、退却中の狼鷲兵を散々に食い殺してくれている。
〈魔王〉の出現と共に急激に目撃頻度を増やし、その傍らで暴れる怪物。
〈魔王〉と関係が深いのは明白だ。
そしてもう一つ。
この季節に人間の軍勢が侵入してくることは、これまではあまりなかった。
例外は白装束の軍勢だったが、今回の敵はそれとは違う。
人間がこれまでと違う行動をとる場合、そこに〈魔王〉が係わっている可能性は高い。
その目的は知れないが、村落襲撃時の行動を見る限りただの略奪や殺戮が目的ではないだろう。
ということは〈黒犬〉が――あるいは〈黒犬〉ならば――平和裏に接触する余地はあるはずだ。
すぐに〈黒犬〉の狼鷲が曳かれてきた。
〈黒犬〉は愛鷲に跨ると、何も言わずに出発の合図を出した。
兵士たちも黙ってそれに従った。
選抜された狼鷲兵達は、目的についてまだ何も知らされていない。
ここでは誰に聞かれるかわからないためだ。
部下たちには道中で知らせれば十分であった。
危険を知らせたうえで志願者を募るのは〈黒犬〉の流儀ではない。
兵たちが〈黒犬〉を信頼するのと同じように、〈黒犬〉も兵士たちを信頼していた。
*
〈黒犬〉は森の中で休息をとりながら地図を広げた。
地図には出発前に得られたた人間どもの目撃情報が書き込まれていた。
この情報を信じる限り、奴らの軍勢は開拓地を貫く古代街道に沿って、蛇行しながらゆっくりと進んでいるように見える。
街道沿いに進むのは、おそらく強力な迎撃に遭遇した場合に迅速に退却するためだろう。
だが、このまま進んだところで奴らにとって得る物は殆どないはずだった。
当然のことながら、この古代街道沿いは元々略奪にあいやすい。
ましてや、あの襲撃事件の後だ。
今では少数の勇敢な開拓民――あるいは頑固者――や軍の哨戒ポストが残されているに過ぎない。
奇妙だ。
襲撃にあった生存者曰く、奴らは食料を奪い家屋に火をつけはしたが、住民は逃げるに任せていたという。
竜による襲撃時と似ているが、目的は異なるはずだ。
おそらく奴らはこちらの迎撃を誘っているのだ。威力偵察だろうか。
だが何のために?
〈黒犬〉は首をひねる。〈魔王〉の考えは理解しがたい。
しかし、何か意味があるはずだ。
その時、警笛がピピピと短く鳴った。
鳥の声にも似たそれは竜の接近を知らせる合図だった。
〈黒犬〉は急いで地図をたたむと、愛鷲と共に手近な藪の中に身を潜めた。
竜は狼鷲兵にとって非常に厄介な相手だった。
普段の任務――歩兵部隊と行動を共にし、その前衛として警戒線を張るのが狼鷲兵の主要な任務だった――であれば、竜に見つかっても後方の歩兵部隊のところへ逃げ込めばよかった。
歩兵がいれば竜はこちらに手出しできない。
だが今回のように狼鷲兵のみで行動する場合は、竜に見つからぬよう森から森へ、隠れるように進まなければならなかった。
梢の隙間から、竜が飛びすぎていくのが見えた。
白ではない。真っ赤な竜だった。だが、いよいよ敵は近いらしい。
もし奴らと接触するならば、と〈黒犬〉は考えを進める。
夜間に行う必要がある。
夜であれば、万が一平和裏な接触がかなわなかったとしても、闇の中に逃げ込むことができるはずだ。
そのためにも、一刻も早く人間どもの本隊を見つけなければならない。
〈黒犬〉達の出立とほぼ時を同じくして、討伐部隊も送り出されたと聞いている。
彼らよりも早く人間と接触する必要があった。
彼らはこちらと違い竜に見つかるのを恐れる必要がない。
狼鷲兵による警戒線も張れる。
人間どもも、討伐部隊を発見次第そちらへと向かうだろう。
こちらは身軽な分彼らより一日行程分は先行しているはずだが、これらを考え合わせればさほど有利とはいえない。
呼子が再び鳴った。
どうやらあの赤い竜はこちらを見つけることなく無事に飛び去って行ったようだ。
〈黒犬〉は藪の中から這い出ると、部下たちを集めた。
休憩は終わりだ。
森から森へ、コソコソとした行軍が再開された。
*
人間たちの軍勢の痕跡を見つけたのは、翌朝のことだった。
昨年の襲撃で廃墟と化した村、その一角で小さな家屋が燻ぶっていた。
どうやら何者かがこの廃村に戻り、家を建て直し、新たな生活を始めようとしていたらしい。
そしてその矢先に再び襲撃を受けたのだ。
幸いというべきか、焼け跡に死体を見つけることはなかった。
無事に逃げ延びるか、はたまた人間どもに捕まったのか。
ともかく、まだどこかで生きてはいるようだ。
畑であったらしい柔らかな地面が、巨大な蹄に踏み荒らされていた。
一匹二匹のそれではない。
数百匹の獣がここを通過したのは間違いなかった。
蹄の後は南西へと向かっていた。
〈黒犬〉はうめくように鼻を鳴らした。
とうとう人間どもの軍勢の尻尾を掴んだ。それはいい。
問題は、どうやら奴らとすれ違ってしまったらしいことだ。
ここを通過したのがどれほど前なのかはまだわからないが、場合によっては討伐隊が先に奴らと遭遇してしまう。
あるいは、今この時に遭遇していてもおかしくないのだ。
果たして彼の懸念は的中した。
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