第五十三話 父と子
あれ以降、辺境伯は順調に回復し、今では見舞いに来た客と言葉を交わすことができるまでになっているという。
〈黒犬〉の報告で辺境伯が目を覚ましたという一件は、瞬く間に辺境伯領中に知れ渡っていた。
このところ暗い話題ばかりが続いていた辺境伯領の住民たちは、久々に降って湧いたこの明るい知らせにたちどころに飛びつき噂話に花を咲かせていた。
〈黒犬〉のこれまでの評価は、あくまで軍事的な英雄、つまり優秀な指揮官としてのものだった。
だがここに来て、敵城砦への侵入と脱出、そして辺境伯の奇跡の回復という、個人的な冒険譚が加わった。
これによって、その名声はお伽噺めいた、まるで物語に登場する英雄のような色彩を帯び始めていた。
それはまさに〈黒犬〉がその幼少期に望んでいたものであった。
だが、当の本人は今のこの状況に辟易していた。
なにしろ、無責任に広がった噂は大小さまざまな尾ひれがつき、今では荒唐無稽といっていいほどに華々しく飾り立てられてしまっていた。
庶民の間では、『事実を忠実に再現した』と称する再現劇が大いに好評を博していたが、そのあらすじはといえば、「〈黒犬〉は第二令嬢を救出すべく敵城砦に単身忍び込む。そこで捕らわれの姫を見つけだし、脱出まであと一歩というところで〈魔王〉が立ちふさがった。そして死闘の末に捕らえられてしまった〈黒犬〉の下に、かつて姫に仕えていた侍女が現れ脱出を手助けし……」と言った具合だった。
無論、その物語に登場する二人の女性とのロマンスが付け加えられているのは言うまでもない。
こうした英雄像は、〈黒犬〉にとり煩わしい虚像でしかなかった。
立ててもいない手柄について称えられる度に、彼は苦い気分を味わった。
辺境伯から呼び出されたのは、そんなある日のことだった。
『よく来てくれた……』
〈黒犬〉が入室すると、辺境伯は寝台の上から顔だけを向けて、弱々しく彼を迎えた。
室内には既に二人の先客がいた。
常備連隊長と〈ドラ息子〉だ。二人とも、何の表情も浮かべることなく部屋の隅に並んで立っていた。
奇妙な取り合わせだった。この二人の仲の悪いことは、近頃特に有名だった。
いつもこの部屋に詰めているはずの使用人や医師たちが、どういうわけか今はいなくなっていた。
『久しぶりだな』
そういって、辺境伯は〈黒犬〉に手招きをした。
その手は、記憶にあったよりずっと細く、節くれだっていた。
前回お会いしたのはいつのことだったろうか? と〈黒犬〉は己の記憶を探った。
すぐに思い出す。
あれは確か、凱旋式の直後だったはずだ。
あの時の辺境伯は、ほとんど意識もない中、妄執に捕らわれてうわ言を繰り返すばかりだった。
もっとも、本人にあの時の記憶があるとは思えなかった。
辺境伯の記憶に添うならば、先の遠征の出陣式が最後の面会となっているはずだ。
『ご無沙汰いたしております。
順調にご快復なされているとのこと。
大変喜ばしく思います』
〈黒犬〉は枕元に跪き、挨拶の言葉を述べた。
『申し訳ないが、堅苦しいやり取りはなしで頼もうか。
あまり長くは起きていられないのでな』
辺境伯はか細い声でそういうと、顔を天井に向け、目をつぶった。
そしてそのまま続けた。
『早速だが、君の報告をもう一度、詳しく聞かせてくれないかね』
『はい』
〈黒犬〉は敵に捕らわれて以降に見聞きしたことを改めて報告した。
それ以前のこと―― なぜそのような無謀を行ったか等――については口をつぐんだ。
この老オークに、無用の心労をかける必要はないと考えたからだ。
思い出せる限り詳しく語ったが、報告すべき話はすぐに終わってしまった。
元より、大した情報を持ち帰ったわけではなかった。
それでも、娘を思う親の心情として、僅かな希望でもすがらざるを得ないのだろう。
脱出の経緯についてはただ、見張りの隙を突いたと述べるにとどめた。
何故そうしたか、〈黒犬〉自身にも分らなかった。
〈ドラ息子〉にこちらを攻撃する余計な口実を与えたくなかったというのも一つの理由だ。
あるいは、あの〈魔王〉について、彼の心の内でまだ整理がついていなからかもしれなかった。
〈黒犬〉が報告を終えると、部屋は重苦しい沈黙で満たされた。
ややあって、辺境伯がつぶやいた。
『奴隷か……』
『はい、まだ生きておられれば』
『さぞ、辛いことであろうなぁ……』
辺境伯の目じりに涙が珠のごとく浮かび、流れた。
その姿は、〈黒犬〉の目にあまりに痛々しく映った。
これが、本当にあの北方辺境伯なのか?
常に民のために心を砕き、その発展に尽くしてきた偉大な為政者なのだろうか?
今彼の前にいるのは、娘の身を案じる、一人の年老いた父親でしかなかった。
〈黒犬〉は己の胸が締め付けられるのを感じた。
善意のつもりで持ち帰ったこの情報によって、この老人の苦悩はかえって深まってしまったのではないか。
そんな思いが、〈黒犬〉の胸中をよぎった。
辺境伯が、再び目を開いた。
そして開いたその眼を、〈黒犬〉に真っ直ぐ向けて辺境伯は言った。
『もう一度、〈壁〉に向かってはくれないか』
『か、閣下!』
常備連隊長がうろたえるように割り込んできた。
『おやめください!
その者は民を守るためにこそ必要なのです。
お気持ちはお察ししますが……』
老将の抗議は、辺境伯の悲しげな視線に遮られ、徐々に先細りになり、やがて消えてしまった。
『わかっておるのだよ。
だが、これだけはどうしても諦められぬのだ。
友よ、この私の、生涯でたった一度だけの我が儘だ。
どうか今だけは目を瞑っていてはくれないか』
常備連隊長は深いため息を漏らした後、寝台を離れ元通り部屋の隅に戻った。
その際に、〈ドラ息子〉の顔が奇妙に歪んだのを〈黒犬〉は見た。
場が静まると、辺境伯は再び〈黒犬〉へと視線を向けた。
『可能であれば、もう一度その侍女、あるいは〈魔王〉とやらに接触し、娘についての情報を集めてほしい。
あるいは奴隷であれば、買い戻すこともできるかもしれぬ。
頼めるだろうか?』
その時だった。
『お待ちください、父上』
ドラ息子が苛立たし気に声を上げた。
『蛮族傭兵風情の戯言を真に受けてはなりませぬ。
あの獣どもと交渉などできるわけがありません。
大方、任務失敗の言い訳として、適当な嘘を吹いておるのでしょう』
『息子よ、そのようなことをいうものではない。
この男が、どれだけ我らの民に貢献してきたかは知っているだろう』
辺境伯は窘めるようにそう言った後、少しだけ声色を険しくして続けた。
『その任務について、私も少しだが報告を聞いている。
一体、誰が何のためにこれを命じたのかね?』
それは、か細くも、長い年月を北の統治者として過ごしてきた男の凄味を感じさせる声だった。
〈ドラ息子〉がすごすごと引き下がるのを見届けた後、辺境伯は再び〈黒犬〉を見据えて言った。
『無理にとは言わない。
だが、成功の暁には十分な褒賞を約束しよう。
娘が戻ってきたのなら、改めて婚約の話を進めたいと考えている。
無論、君が我が娘よりも自由を欲するというなら断ってくれても構わない。
断られたとしても、褒賞はそれとは別に必ず差し上げよう。
地位でも、財産でも、なんであれ君が望むものを、我が力の及ぶ限り与えると約束する』
破格の条件であった。
偉大な北の支配者が、生涯でたった一度だけ、その全てを捧げて我を通そうとしているのだ。
だが、婚約も、地位も、財産も、〈黒犬〉にとっては些事でしかなかった。
〈黒犬〉の答えは既に決まっていた。
『必ずや、閣下のご意思を彼の者にお伝えいたしましょう』
*
彼の父――辺境伯が〈黒犬〉に懇願する様を見て、〈ドラ息子〉は憤りを覚えた。
貴族が、それも辺境伯ともあろうものが、傭兵風情にあのように頭を下げるべきではない。
少なくとも、彼の信じる常識ではそうなっていた。
そして、父にあれほどまでに信頼されるあの男が妬ましかった。
辺境伯の寝室を辞去して執務室に戻った後も、彼の胸中では様々な感情が整理されることなく、ただ混沌としたまま渦巻き続けていた。
(果たして父は、人間に攫われたのがこの俺であったとしても、ここまでしてくれるであろうか?)
〈ドラ息子〉は心の内でそう問いかけた。
彼の内にある父親像は、この問いに『否』と答えた。
二の姉を膝に乗せ何やら本を読み聞かせている、それが彼の記憶する、最も古い父の姿だった。
その記憶の中で彼は独り、そんな二人の背を遠くから見つめていた。
一の姉が夭逝していたことも恐らく影響していたのだろう。
彼の父は、何かにつけて利発な二の姉をかわいがっていた。
彼が帝国学習院で孤独な日々を送っている間にも、父は決して姉を手放そうとはしなかった。
姉だけが父に愛されているのだと、彼はそう信じていた。
だから、かつて父が姉と〈黒犬〉との婚約を議題に上げた時、彼は意外に思うと同時に、仄暗い喜びを感じたものだった。
やはり、あの男には己の領地以上に大事なものなどないのだ。
それが証拠に、大切な愛娘まで蛮族傭兵風情に差し出そうとしているではないか、と。
だが、そんな喜びもすぐにしぼんでしまった。
この縁談は、最初から姉の希望を強く汲んでのことらしいと、漏れ伝わってきたからだ。
そうであれば婚約の意味合いがまるで違ってくる。
たかが娘の望みにために、これほどの貴賎結婚を許そうとは!
どうやら父は領地以上に姉を愛しているらしかった。
そして、その姉が生きて帰ってくるかもしれないという。
〈ドラ息子〉は自身の評判をよく自覚していた。
それは決して良好なものではない。
彼にすり寄ってくる帝国系の貴族たち――己の無能によって、父にその地位を追われた奴ら――ですら内心彼を侮っていることを彼は知っていた。
もし万が一あの姉が戻ってきたらどうなるであろうか?
もちろん、そんなことがあるはずはなかった。
あれは、あの蛮族傭兵が己を失敗をごまかすためについた苦し紛れの嘘に違いないのだ。
だが、それでも彼は不安をぬぐい切れなかった。
もしも本当に奴が姉を連れ戻したらどうなる?
自分よりはるかに賢く、民に支持され、なにより父に愛された彼女が戻ってきたら?
もしそんなことがあれば、あるいは父も自身の後継者について考えを改めるかもしれなかった。
父がそう考えずとも、老臣どもがそうすることは大いに考えられた。
女の家督継承は確かに珍しくはあったが、過去に例がないわけではないのだ。
そうなれば、自分は一体どこに身を置けばいいのか?
将来に立ち込めてきた暗雲を前に、彼の思考は千々に乱れた。
整理してみれば、彼の精神をかき乱しているものは、自信の無さと嫉妬に他ならない。
だが、彼はそうした自身の内面と向き合うことができなかった。
それは、己の最も弱い部分を直視することと同じだったからだ。
己の心と向き合えぬまま、彼はやり場のない感情に無理やり形を与えた。
それは憎悪となった。
彼は憎悪を募らせながら、この状況をいかにして脱するべきか思考を巡らせた。
結論はすぐに出た。
―― もはや、殺すしかない。
だが、どうやって?
彼の思考はそこで中断された。
『ご報告申し上げます!』
目の前に将校が一人、敬礼したままの姿勢で立っていた。
『なんだ』
〈ドラ息子〉は不機嫌に鼻を鳴らした。
『人間どもの小規模な軍勢が侵入したとの報告が入りました。
既にいくつかの村が焼き払われているとのことです。
常備連隊が出陣の許可を求めています』
何もこんな時に、と〈ドラ息子〉は内心で毒づいた。
基本的に奴らは秋の収穫を狙ってくる。
こんな時期に侵入してくるのは珍しいことだった。
好きにしろと答えかけて、不意に彼の言葉は止まった。
姉が攫われたのも、こんな季節外れの襲撃にあってのことだった。
これは吉兆かもしれない。
『数は』
『シャーマンを伴った重装騎兵が二百程と推定されます。
また、複数の竜がその上空で目撃されています』
しばしの沈黙の後、〈ドラ息子〉は指示を出す。
『常備連隊を動かすわけにはいかん。
難民共を使え。訓練中の奴らがいただろう。
新式装備を試すいい機会だ』
しかし将校はこの指示に難色を示した。
『閣下、彼らの訓練はまだ十分とは言えません。
なにより、竜のうち一頭は純白であったと報告されています。
噂が本当であれば――』
『噂は噂だ。何が〈魔王〉だ。そんな戯言を信じおって!
大体、奴らの半分以上は開拓民兵として従軍経験があったはずだろう。
訓練不足とは言わせんぞ。
大体、伯都から追い出すいい口実になるではないか。
ダメだったら、改めて常備連隊を送ればいい』
〈ドラ息子〉あけすけな物言いに、将校は眉をひそめた。
『ならばせめて狼鷲兵を支援につけるべきかと』
『〈赤鷲〉を使え』
将校の眉間がまた少し険しくなった。
〈赤鷲〉は辺境伯軍が雇っている、狼鷲兵を擁する南方蛮族の傭兵隊の一つだ。
勇猛ではあったが、兵士どもの素行からその評判はすこぶる悪い。
『英雄様の隊はだめだ。あれは大きな損害を出したばかりだからな』
将校はまだ何か言いたげな様子だったが、ともかくこの指示を伝えるべく、足早に退室していった。
執務室の扉が閉まると、〈ドラ息子〉は傍らに控えていた〈腰巾着〉を呼び寄せた。
『敵の接近を英雄様に知らせてやれ。
まぁ、とっくに知っているだろうがな』
『はい、閣下。承りました』
『それから〈赤鷲〉どもに特別な依頼をしたい』
〈赤鷲〉は十分な金を払い続ける限りにおいて、決して裏切らないことで知られていた。
同時に、報酬次第でどんな仕事でも引き受けるとも。
『いかなるご用件で?』
〈ドラ息子〉は〈腰巾着〉の耳元で何事かを囁いた。
指示を聞き終えた〈腰巾着〉は〈ドラ息子〉に向けて優雅に一礼すると、静かに部屋を出ていった。
書溜めが尽きたたため、次回の投稿時期は未定です。
3-4ヶ月ほどで復帰できたらと考えています。
楽しみにして下さっている皆様には申し訳ありませんが、気長にお待ちいただければ幸いです。




