第五十二話 水車小屋
――〈カダーンの丘〉にて
ついに水車小屋が完成した。
川から水車小屋へと続く水路の両側に、オークたちが神妙な顔をして並んでいる。
水車小屋とは反対側の端、川へとつながる水門――といっても取っ手付きの板一枚で水路を塞いでいるだけだが――の前に、〈骨太〉が得意げな顔で立っていた。
今日は、完成した水車に初めて水を通す儀式を行うという話だった。
「通水式」とでも呼ぶとしようか。
もっとも、実際には既に〈骨太〉が調整のために何度もこの水路に水を通して水車を回しているが、それは数に入れないらしい。
俺達はトーソンとメグを従えて小屋の前に陣取ってその儀式の様子を見守っていた。
トーソンはもう鎧も兜も身に着けていない。
ここしばらくの間、熱心に働き続けるオーク達を見て考えを改めたようだった。
メグは例によって、どこからか水車小屋のことを聞きつけて押しかけてきていた。
オークたち全員の注目が集まるのを待って、〈骨太〉は両手を高く掲げて何かブヒブヒと鼻を鳴らした。
一拍おいて他のオーク達がそれに続く。
花子がそれを通訳しようと石板を取り出したが、俺は軽く手を振ってそれをやめさせた。
どうせ、何かの定型句だろう。後で概要だけ聞けばいい。
〈骨太〉が何かを言って、他の奴らがそれに続くのを何度か繰り返した後、〈骨太〉はこちらに背を向けて川に向かって跪いた。
それから足元に置いてあった小ぶりな瓶を恭しく頭上に掲げ、その中身を川に注いでいく。
ちなみに中身はリンゴ酒だ。赤い葡萄酒を使うのが本式らしいが、うちの蔵にはなかったのであれで諦めてもらった。
川の神への供物なのだそうだ。
酒を注ぎ終えると、〈骨太〉はまたこちらに向き直って、手にした瓶を頭上で逆さまにした。
瓶の口からポタポタと数滴の酒が垂れて、〈骨太〉の禿頭を濡らした。
その雫が眉を避けるように流れるのを見て、オークたちがブーブーと盛り上がった。
よくわからないが、彼らにとっては吉兆であるらしい。
それが済むと、〈骨太〉に呼び出された二匹の若いオークが、水路と川を隔てる板の把手を掴んでえいと引き抜いた。
水路に水が勢いよく流れ込み、やがてゆっくりと水車が回り始めた。
停まることなく回り続ける水輪を見て、オークたちが大きな歓声を上げた。
〈骨太〉が俺の前に進み出てきて、水車小屋の扉をあけ放った。
小屋の中で大きな石臼がゴロゴロと無人で回り続けているのを見て、トーソンがほうと感嘆の呻きを漏らす。
続いて、〈骨太〉が今度は水車小屋の床に酒をぶちまけた。
こちらは酒の匂いでこの新しい小屋に神を呼び込むための物なのだそうだ。
奴らの神はどれだけ酒好きなんだ。
酒を撒き終えた〈骨太〉は、今度は麦の入った袋を手にとると、中身を大臼の上に設置されたホッパーに流し込んだ。
少し間をおいて、二段に重ねられた重たい臼の間から、さらさらと茶色がかった粉が零れ落ちてきた。
〈骨太〉はそうしてできた粉を袋に詰めると、俺のもとに恭しく差し出した。
俺はそれを受け取ると、中を検めた。
なるほど、確かに小麦粉だ。茶色がかった、いわゆる全粒粉というやつなのだろう。
きっと健康にもいいに違いない。
俺は受け取ったその袋を、オークたちに高々とかざしてみせた。
再び歓声が上がった。
水車小屋が生み出した最初の生産物を、俺が受け取ることによってこの儀式は完了した。
オークたちは大喜びだった。
嬉しさのあまり飛び上がる者、抱き合う者、うつ伏せになって地面をかきむしる者。
全員が、その全身を使って喜びを表現していた。
大げさとは言うまい。
この水車小屋は、彼らにとって解放の象徴なのだろう。
グルグルと石臼を回し続ける、変化のない単調な重労働。永遠に続くその苦役から、彼らを解放してくれる存在なのだ。
もっとも、解放された先に何が待ち構えているかについては考えが及んでいないに違いない。
俺も考えていない。
仕事がなくなった彼らをどうしたものか。
「トーソンさん」
「はい、何でしょう」
「彼らをどうしましょう。
売りはらって、建設費の足しにしますか?」
なにしろ、オークの値段は先の敗戦以降うなぎのぼりだ。
まとまった数を売り払えば結構な額になるはずだった。
「と、とんでもない!
あのような者たちを手放すなど、ありえません!」
ところがトーソンは俺の提案を全力で否定してきた。
なんだよ、前はあいつらのことを金食い虫だってぼやいてたじゃないか。
「じゃあ、建設にかかった費用はどうするんです?」
「……勇者様も意地が悪い。
費用については問題ありません。
近隣領主にこの技術を教えて謝礼を取ればすぐに回収できます。
なにしろ、最近はどこもオークの高騰に頭を悩ませているはずですから。
しかし……」
トーソンはこめかみを抑えながら続けた。
「あのオークたちの取り扱いは慎重にせねばなりません。
なにしろ、オークに知能があり高度な技術を持っているなどというのは、聖典の教えに真っ向から反します。
神殿からの反発は必至でしょう。
他所の領地で同じようにあのオークどもを建設に使うわけにはいきませんな。
技術の出どころについても秘匿する必要があります」
「出所については、賢者様が思いついたってことでどうにかなりませんか」
トーソンの顔がますます難しくなった。
「あのご老人は、果たして表に出していい存在なのでしょうか?」
バレてしまったか。いや、バレるか。
「……だめですね」
「あの方は、一体何者なのですか」
こうなったらきちんと知らせておくべきか。
「あの方は、元は学僧の長だった人物です。
表向きは神像を辱めた罪で神殿を追放されていますが、
オークには知能があり言葉を持つと繰り返し主張したのが、その真の理由です」
「なんと!
……いや、開いた眼で振り返れば、自明のことですな。
つまり勇者様は、オークの言葉を学ぶために賢者様を招いたのですね」
「はい、その通りです」
トーソンが呻いた。
「……水車については、勇者様の異界の知識とするのが良いかと。
オークたちの処遇については後程検討いたしましょう」
「よろしくお願いします」
さて、懸案が一つ片付いたな。
しかし妙だな。不気味なほど静かだ。
いや、物理的な意味ではない。
音についていえば、オークたちは大騒ぎだし、水車小屋はさっきからずっとゴロゴロ鳴っている。
振り返ってみると、メグがつまらなそうな顔で水車小屋を見つめていた。
そう、こいつだ。
絶対にもっと大騒ぎすると思っていたのだ。不気味なこと極まりない。
メグの様子をうかがっていたら、目が合ってしまった。
「勇者様」
「なんだ」
「後で少し、お話をさせてください」
二人だけで話がしたいということか。
いやな予感がするな。
「わかった。食事の後にでも、俺の私室で」
メグは俺に一礼し、館のほうへ歩き去っていった。
*
〈黒犬〉はペンを脇に置くと、丁寧に吸取り紙を当てて、手紙から余計なインクを吸い取った。
そして少し風を送ってインクを完全に乾かしてから、几帳面に三つ折りし、封筒にしまった。
最後に閉じた封筒に蝋を垂らし、封を施す。
厳つい外見に見合わぬ、繊細な仕事ぶりだった。
無理からぬことだった。これは、指揮官たる者がその指揮下にある者に対して果たさねばならぬ、最後の務めとされているものだからだ。
つまりこれは、遺族の下へ戦死を知らせるための手紙であった。
こうした作業は、これまで幾度となく繰り返してきた。
だが、一度にこれだけ多くの損害を出したのは今回が初めてだった。
なにしろ、〈黒犬〉の隊はその兵力の半分近くを今回の襲撃作戦で失った。
損失の大部分は襲撃中ではなく、撤退時に発生していた。
隊の主力は〈黒犬〉らが塔へ突入してしばらくの間は敵を引きつけ続けた。
だが、いつまでたっても〈黒犬〉による作戦終了の合図がないため、彼らは打ち合わせ通り一刻程で襲撃を切り上げ、戦場を離脱した。
敵の追撃はなかった。山を駆ける狼鷲を追えるものなど、いようはずもない。
しかし空が白み始め、あの忌々しい竜どもが姿を現すと状況は一変した。
竜どもは退却中の狼鷲兵に、散々に炎を吐きかけてきたのだ。
〈黒犬〉の隊が装備する狼鷲兵用の短銃では、空を飛びまわる竜共はいかんともしがたく、狼鷲兵は一方的に損害を被った。
中でも他より一回り大きな体躯を持つ白竜が一際目立つ暴れっぷりを見せた。
炎を吐き尽くしてもなお、地上に降りて暴れまわり、その牙で、あるいは強靭な尾によって、噛み千切り、弾き飛ばして多くの命を奪った。
既に恐慌状態に陥っていた兵士たちは、地上に降りてきた竜に反撃することすらままならかったという。
(その場に自分がいれば……)
死んだ者たちの一人一人について、その戦死時の状況を聞き取りながら〈黒犬〉は歯噛みした。
損害をもっと抑えることができたはずだった。
あるいは、白竜を仕留めることすらできたかもしれない。
だが、考えたところでどうにもならないことだった。
部下たちが炎に焼かれている間、彼は牢につながれていたのだから。
〈黒犬〉が最後の手紙を書き終えたのは、帰還から十日が過ぎ、十一日目が始まろうという朝であった。
丁寧に封を閉じ終えた〈黒犬〉は、窓から薄っすらと差し込み始めた朝日を見てため息をついた。
夜が明けたとはいえ、隊の日課が始まるまでにはいましばらくの時間がある。
僅かなりとも寝ておくべきか否か。
〈黒犬〉は僅かな逡巡の後に、このまま起き続けることに決めた。
乱れた衣服を整え、顔を水で清める。冬を過ぎたとはいえ、まだまだ冷たい水が彼の意識を幾分かはっきりさせてくれた。
朝焼けの影が長く伸びる中、〈黒犬〉は厩舎へと足を向けた。
厩舎の前では、間もなく交代の時間を控えた不寝番の兵士が、昇る朝日を見ながら大きなあくびをしていた。
〈黒犬〉を見て慌てて背筋を伸ばして敬礼するその兵士に鷹揚に返礼し、中へと進む。
その時だった。
厩舎の奥で騒ぎが起きた。バキンッと板の裂けるがしたかと思うと、狼鷲たちを区切っていた柵が砕け散った。
同時に飛び出した黒い影が〈黒犬〉に襲い掛かった。
その獰猛な速度と膂力の前に、〈黒犬〉はなすすべもなく押し倒される。
物音を聞きつけた厩番が何事かと顔を出したが、狼鷲に組み敷かれた〈黒犬〉を見てまたかとばかりに肩をすくめた。
『隊長殿、少々お待ちを。ただいま鞍をお持ちいたしますので』
そういって厩番は顔をひっこめた。
『あぁ、なるべく早く頼む』
真っ黒な狼鷲に顔を嘗め回されながら〈黒犬〉は応えた。
黒い狼鷲の背に跨り、〈黒犬〉は野を駆けた。
〈壁〉での戦闘で失った相棒に瓜二つのこの狼鷲は、まだ卵の時分に同じ巣から採取された兄弟鷲だった。
長年行動を共にした兄弟の死を既に感じ取ったのか、その走りはどこかいつもより荒々しく感じられた。
故郷を出た時には、四羽の黒鷲がいた。
一羽はまだ駆け出しの頃、匪賊討伐の最中に撃たれて死んだ。
二羽目はこの北方に来た後に、人間の重装騎兵に槍で突かれた。
三羽目は知っての通り〈壁〉で殺された。
今跨っているこいつが、兄弟鷲の最後の生き残りだった。
今回の〈壁〉に向かうにあたって、若干体調に不安があったコイツを厩舎に残していったのが幸いした。
もし連れていっていたなら、退却時の混乱でこの最後の一羽も失っていた可能性が高かった。
(……しばらくは無理はできんな)
朝の冷たい風を顔に受けながら〈黒犬〉は考えた。
もし手持ちの狼鷲をすべて失えば、部隊の指揮を執ることすらできなくなってしまうのだ。
狼鷲は卵から孵って最初に見た者にしか懐かない上、孵化してから乗れるようになるまで最低でも一年はかかる。
急ぎ故郷に手紙を送り、狼鷲の卵を手配する必要があった。
失った人員も補充しなくてはならない。
〈黒犬〉は残った部下たちの中から、話のうまい者や、故郷で顔の利く者達を幾人か思い浮かべた。
遺族への手紙の配達は、こいつらに任せるとしよう。
同時に新兵の募集を行わせるのだ。
ついでに、帝都にいる大叔父への手紙も届けさせよう。
もしかしたら卵を融通してもらえるかもしれない。
〈黒犬〉は朝日と風とを浴びて冴えわたった頭で、今後の算段を次々と組み上げていった。
いつまでも落ち込んでいる暇はなかった。
再戦に備え、一刻も早く体勢を立て直さねばならない。
先の敗因は、敵の罠にはまり、相手にとって有利な戦場に引きずり込まれたことにある。
そう〈黒犬〉は分析した。
少人数で、機動力も発揮できない。
戦う前に、こちらの利点をすべて潰されていた。
あれでは自ら負けに行ったようなものではないか。
もし奴を倒そうと思うのなら、奴の戦場ではなく、こちらの戦場に引きずり込まねばならない。
狼鷲兵の機動力をもって敵を追い立て、あるいは誘引し、銃兵戦列の火力でもって撃ち倒す。
それが彼が最も得意とする戦い方だ。
次は勝つ。
〈黒犬〉は改めて決意を固めた。
次回は8/14を予定しています。




