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第四十九話 儀式完了


――〈竜の顎門〉にて


 〈黒犬〉の脱走事件からさらに一週間が過ぎ、とうとう〈竜の咢〉の魔法障壁再稼働の儀式が完了した。

 儀式の完成とともに巨大な魔法障壁が空中に再展開される様は、とても壮大で、神秘的で、それはそれは美しい光景だったという。


 俺はその光景を見ることができなかった。

 なぜなら、俺は地下にある大魔法陣の間にいたからだ。


 学僧の長が遣わした神官見習いの少年から「まもなく儀式が完了する」と告げられた俺は、いそいそと大魔法陣の間へ向かったのだった。

 何か月もかけて神官たちが魔力を注ぎ続けた大魔法陣は、いまやかつての輝きを取り戻していた。

 青白く光るその大魔法陣の一角に人だかりができているのが見えた。

 どうやらそこで最後の仕上げが行われているらしかった。


 その人垣の中心で何が行われているのかを外側から窺い知ることはできなかった。

 神官たちをかき分けて中に入ることもできたろうが、それはさすがに思いとどまった。

 なにしろ、数か月にわたって延々と魔力を注ぎ続けるという苦行を成し遂げたのは他ならぬ彼らなのだ。

 それを押しのける権利など俺にあるはずがない。


 儀式の終わりはひどくあっさりしたものだった。

 人垣の中ほどから、「魔力注入ここまで。皆、よくやってくれた」という学僧の長の声が聞こえてきて、それで儀式は完了したことが分かった。

 辺りを見回してみたが、それまでと変わったことは何一つ起きていなかった。

 俺の周囲の神官達も同様で、儀式の成功を実感しかねている様子だ。

 彼らは小声で何事かを囁き合いながら、足元と天井を交互に見比べるなどしていた。


 あまりのあっけなさに拍子抜けしながら地上に向かおうとしたその時、階段からあわただしい足音が聞こえ、一人の兵士が大魔法陣の間に駆け込んできた。

 彼は興奮した様子で、こちらに向かって叫んだ。


「魔法障壁の再展開が確認されました!」



 大急ぎ城壁の上がってみると、外は大変な騒ぎになっていた。

 大勢の兵士たちが城壁のへりに張り付いて、何もない空中を指さしながら口々に何か叫んでいた。

 中には、涙を流しながら祈りを捧げている奴までいた。

 何が起きたのかと訝しんでいると、目ざとく俺を見つけたらしいメグがこちらに駆けてきた。


「勇者様!さっきのは見ましたか!?」


「いや、俺は大魔法陣の間にいたんだ。こっちに上がってきたところだ」


「大魔法陣の間ですか! あちらはどうでしたか? やっぱりすごかったですか!?」


 いつになく興奮した様子で、メグが目を輝かせながら身を乗り出してくる。

 だが残念、下では何も起こっていない。

 俺がそう告げると、メグはニヤニヤしながら得意げな顔をして見せた。


「それは残念でしたねぇ。こっちはすごかったんですよ!」


 メグによれば、城壁の前方に突如として青白く光る巨大な球体が出現したらしい。

 それはまるで圧縮されるかのように、少しづつ光を強めながら縮んでいき、やがてほんの小さな点になった。

 次の瞬間、やはり青白く光る薄い膜が爆発的に広がり、城壁の前面を完全に覆った。

 その薄い膜は波打つように輝きながら、少しずつその光を弱めていき、溶けるように消えていったという。


 その波打つ光は神々しく繊細で、とても言葉では表すことができない光景だったそうだ。

 あのメグですら思わず涙をこぼしたというのだから、想像を絶する美しさだったに違いない。


「お前が泣くなんてよっぽどだな。

 くそ、見てみたかったなぁ……」


 俺が悔しがっていると、 


「私が泣いてるところがそんなに見たかったんですか?」


 違う、そうじゃない。

 いや確かに一度ぐらいは見てみたいけど。


「俺が見たかったのは魔法障壁の方だ」


「勇者様も素直じゃないですね~」


 この余裕の表情である。

 この女、退屈な儀式の大部分をスキップしたくせに一番面白いところだけ堪能していきやがった。

 俺はメグをシッシと追い払うと、今後のことを相談するため守備隊長のエベルトの下へ向かった。


 *


――〈カダーンの丘〉にて


 無事に大魔法障壁再展開の儀式が終わり、俺は監督の任を解かれた。

 折しも〈竜の咢〉は雪解けの時期を迎え、城壁が作る巨大なダムにも大量の雪解け水が流れ込み始めた。

 これで谷の防衛については問題ないはずだ。

 たとえオークどもがもう一度あの巨大大砲を持ち込んだとしても、一度か二度までなら押し流してしまえる。

 大砲なしで攻めてくるなら、あの大魔法障壁と守備兵たちとで十分に壁を守れるだろう。

 少なくとも、各地から援軍が駆けつけるまでは持ちこたえられるはずだ。

 用済みになった俺は、ひとまず自分の領地に戻ることにした。

 王都に戻ってもよかったが、王様の前で暇そうにしていては、また何か仕事を押し付けられてしまうかもしれなかった。

 


 〈カダーンの丘〉の館に戻ると、賢者様が炉の前で寛いでいた。

 どこから引っ張り出してきたのか、柔らかそうな毛布を敷いた安楽椅子にゆったりと背を預けている。

 先ほどトーソンから聞いた所によれば、この老人は昨晩ようやくここについたばかりであるらしい。

 にもかかわらず、既に自分が館の主人であるかのようなこの立ち振る舞い。やはりただモノではない。


 このふてぶてしい老人こそが、この世界でただ一人のオーク語の専門家なのだった。

 神殿の学僧としてオークの言葉を研究していたが、そのことで大神官長と対立し、神殿を追われたのだという。

 最果ての寒村で世捨て人として暮らしていたところを、俺にオーク語を教えることを条件にこの館で保護することにしたのだ。


 賢者様の傍らでは。一足先に戻しておいたジョージと花子が石板を前に何やら文字を書いている。

 彼らはさっそく賢者様から指導を受けているらしい。


「おぉ、戻ったか」


 俺の入室に気づいた賢者様が俺に声をかけてきた。


「で、首尾はどうだった。うまくやれたか?」


 最果ての村でこの老人と別れた際に、俺は一つお使いを頼まれていた。

 賢者様が追放される直前に〈竜の顎門〉に隠したという、オーク語辞典の回収だ。

 

「はい、無事に回収しました。

 ……ジョージに預けておいたはずですが、まだお受け取りになっていませんか?」


「阿呆め!

 そんなものはとうの昔に受け取っておる!

 ワシが知りたいのは儀式の成否だ!」


 理不尽である。とはいえ、この老人と口論したところで時間の無駄だ。

 どうせ俺がボコボコにされて終わるのだ。


「で、どうなのだ?

 ウォリオンの奴はちゃんとやり遂げたか?」


 賢者様が身を乗り出しながら、重ねて訊いてきた。

 よくよく見れば、その視線はいつになく真剣で熱を帯びている。


 そういえば、あの儀式の方法の再現はこの老人の長年の研究の成果だったはずだ。

 儀式を事実上取り仕切っていた学僧の長とも浅からぬ関係があったという。

 おそらく、俺に儀式のことを聞かされて以来ずっと気を揉んでいたのだろう。


「はい、無事に大魔法陣は再起動しました。

 〈竜の顎門〉は元の通り、魔法障壁で守られています」


「そうか。やりおったか!

 そうか、そうか……」


 背もたれに体重を預けなおしながら、満足そうに天井を見上げた。

 一瞬、その目に光るものが浮かんでいるように見えたが、たぶん気のせいだろう。


 老人しばらくの間そうして天井を見上げていたが、やがて気がすんだのかこちらに向き直って言った。


「さて、勇者殿。

 オークの言葉を学びたいと言っておったな」


「はい、ぜひともご教授賜りたく」


「では早速始めよう。

 何か字を書くものを持ってきなさい」


 こうして、賢者様による楽しいオーク語教室が始まった。


 *


 意外なことに、賢者様は人に教えることに関してはひどく真摯な態度の持ち主だった。

 生徒に対しては常に礼儀正しく振舞い、丁寧な教え方をしてくれるのだ。

 普段の暴言は鳴りを潜め、こちらがどれほど馬鹿な間違いをしても決して声を荒げることはなかった。

 どれほど俺の物覚えが悪くても、辛抱強く言葉を尽くして、手段を尽くして理解させようとしてくれる。

 なるほど、村の子供たちが懐いていたわけだ。

 教師としての賢者様は、まさに聖人といってよかった。


 学僧の長が、この口汚い老人をあれほど慕っていたのも今なら頷ける。


 もっとも、賢者様が聖人でいるのはこちらが良い生徒でいる間だけだった。

 こちらの気が緩み始めると瞬く間に普段の悪態が顔を出す。

 そういう時には、相手がジョージだろうが花子だろうがまるで容赦がなかった。


 一度この件について、賢者様に訊ねたことがある。

 賢者様の答えは次のようなものだった。


「人は生まれつき阿呆だ。

 もし何かを学ばんとするものをバカにすれば、いずれ誰も何も学ばんようになる。

 そうなってみろ、世の中はますます阿呆で溢れてしまうのだぞ!

 おぉ、恐ろしい! そうなればこの世の終わりだ」


 いかにもこの老人らしい物言いだった。



 賢者様の授業は、昼前に終わるのが常だった。

 一度に詰め込む量には限度がある、というのが彼の持論であるらしい。


「ここの粉挽小屋にもオークがおるんじゃろ。

 どうせ暇なら、忘れんうちにそこで今日教えたことを試してこい」


 そう言われたので、午後は花子達を引き連れてオーク小屋で過ごすのが俺の日課になった。

 久しぶりに花子が粉挽小屋に顔を出したときには、小屋はちょっとした騒ぎになった。


 その日、昼飯を食べ終えた俺たちは早速粉挽小屋へ向かった。

 小屋につくと、ちょうど丁度オーク達が休憩のために粉挽小屋から連れ出されてきたところだった。


 花子の姿を見たオーク達の喜びようと言ったらなかった。

 なにしろ苦楽を共にした仲間の一人がどこかに連れ去られ、それから数か月にわたって姿を消していたのだ。

 恐らく、彼らは花子はもう死んだものと諦めていたのだろう。それが戻ってきた。


 彼らの気持ちが俺にもよくわかった。

 誰だってなくした五百円玉がふとした拍子に見つかれば嬉しいだろう。

 それは、ずっと財布に入っていたものより少しだけ輝いて見えるはずだ。

 それが、仲間の命であればどうだろうか?

 死んだと思っていたものが生き返ったのならなおのことだ。


 オーク達は狂喜乱舞した。鎖につながれたままだったので、何人かが転び、それから全員が引き摺られて転んだ。

 それでも彼らは喜ぶのをやめなかった。

 粉挽小屋の管理人であるルマは、オーク達を落ち着かせるために鞭を地面に打ち付けて派手に鳴らして見せたが、彼らは一向に気にしなかった。

 結局オーク達が落ち着くまでに、ルマは十回以上も鞭を鳴らす羽目になった。


 鞭の音でようやく落ち着きを取り戻したオーク達は、どういうわけか花子をほったらかして互いをしげしげと見つめ合った。

 それから、突然モジモジと恥じらい始めた。


 これは一体どうしたこと少し頭をひねったが、すぐに合点がいった。

 おそらく、花子が服を着ているせいだ。


 なにしろ彼らは人間に捕獲されてからこっち、ずっと全裸で過ごしてきたのだ。

 すると裸が当然となり、寒さに震えることはあっても,、羞恥心なんてものは感じなくなってしまう。

 街中で裸になれば恥ずかしいが、風呂場では平気なのと一緒だ。

 周りは皆裸で、それが当然だからだ。


 だが、花子が服を着て現れたことでそれが当然ではなくなってしまった。

 本来なら服を着ているのが当然であったことを、彼らは思い出してしまったのだ。


 そして全裸の彼らを見つめているのが、うら若き乙女――若いメス個体であることは賢者様が保証してくれた。しかも「良い形の鼻をした美人」であるらしい――なのだから、彼らがモジモジするのは仕方のないことだろう。


 とはいえ、このままにしておくのは不憫である。

 俺は花子を通して彼らの中に裁縫のできる者はいないかと呼びかけた。すると少し間をおいて一匹のオークがためらいがちに鼻を鳴らした。

 俺はそのオークに近いうちに布と道具を届けることを約束し、その日は館に戻った。

 花子はその場に残しておいた。仲間たちと積もる話もあるだろうと思ったからだ。


 その日の午後の作業は免除するようにルマに伝えると彼は不服そうな顔をしたが、あとで酒を一瓶届けさせると約束するとすぐに機嫌を直した。


 館に戻った俺は早速、難しい顔で帳簿とにらめっこをしていたトーソンに裁縫道具と布を手配してほしいと告げた。

 すると彼は帳簿から顔を上げて、「もう一度お願いします」といった。

 俺はもう一度、オークに服を着せるから布と裁縫道具を手配してくれと頼んだ。

 トーソンが何とも言えない顔をした。

 それから俺に向かって諭すように言った。


「勇者様、布というのは決して安価なものではないのです」


 俺の生まれた世界でも、布というものは、昔はそれなりに高価なものだったと聞いている。

 この世界でもそうなのだろう。

 俺が頷くとトーソンは続けた。


「ご存知の通り、昨年の収穫は大きく減少しております。

 それだけではございません。あの粉挽小屋とて、オーク達を温存するため稼働時間が減っています。当然、粉挽代も例年よりだいぶ少なくなっているわけです。

 出せない額ではございませんが、あまりそういったことに浪費するのはいかがなものかと……」


 トーソンは、これを俺の道楽であると考えているらしい。

 もっともなことだった。

 まぁ、俺だって「養豚場の豚に服を作るから金を出せ」と言われたら同じように思うだろう。


 だが、あのオーク達を懐柔し、オーク語の練習を円滑に行うためにはこれが必要なのだ。

 あいつらから引き出せる情報の質は、どれだけ俺に懐かせることができるかにかかっている。


 問題は、このトーソンがいたって真っ当な常識人だということだ。

 この世界の常識では、オークとは知能の低いケダモノなのだ。

 言葉を話し、人間同等、あるいはそれ以上の知性を持っているなどとは思いもよらないことなのだ。


 事実、トーソンは俺がオークと会話を試みているのを見ても、暇つぶしに芸を仕込んで遊んでいるのだとしか認識していない。

 愛犬家が犬に話しかける様は微笑ましいものだが、度を越せば不気味にも映ろう。

 まして、オークは邪悪で汚らわしい存在だ。

 俺の行動が常識人であるトーソンの目にどう映るのか、それをよく考えねばならない。

 あまりやりすぎれば、さすがのトーソンでも〈丘の聖堂〉の堂主様に相談したくなってしまうもしれない。

 この件については彼の常識で測れる範囲の理屈を用意する必要がある。


「これもオークを温存するためです。

 暖かくしてやれば病気にかかる可能性が減ります。

 今もオークの値は上がり続けているんじゃないですか?」


 トーソンが安心したように少しだけ表情を緩めた。

 どうやら俺が狂気に満ちた発想によってオークに服を着させようとしているわけではないことを理解してくれたらしい。

 少しだけ考えたあと、彼は笑顔で請け合ってくれた。


「それでしたらもう心配はございません。

 もはや季節は冬を過ぎ、春を迎えています。

 オーク達が凍えることはもうないでしょう。

 無論、冬にはまた必要になるかもしれませんが、それへの備えは次の収穫の具合を見てからでも遅くはないはずです」


 なんということだ! 論破されてしまった。

 それでも俺は色々と理屈をこねて見せたが、ことごとく論破された。

 よほど余計な出費をしたくないらしい。当然だ。それが彼の仕事だ。

 仕方がないのでひたすら駄々をこねた。

 数時間にわたる交渉の末に、どうにかトーソンから譲歩を引き出すことに成功した。

 彼はうんざりした顔で提案した。


「……では、領民たちに触れを出し、古着を供出させてはいかがでしょう。

 先に年貢を減免してもいますし、引き換えに新品の布を供出分の半量もだせば応じてくれるでしょう」


 これは良い案だった。

 そのままでは丈が合わないだろうが、あの元仕立て屋のオークに直させればいい。

 一から服を作らせるよりずっと早く服がいきわたるし、必要な布も当初の予定より少なく済む。

 やはり、トーソンは有能な行政官だ。彼に相談してみてよかった。


 意気揚々と引き上げる俺の背後で、トーソンが大きくため息をつくのが聞こえた。


次回は7/24を予定しています

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