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第四十六話 〈黒犬〉

 襲撃の失敗からどれほどの時が立ったのだろうか?


 そう長くは経っていないはずだ、と〈黒犬〉は考えた。

 恐らく、そろそろ日が昇りきる頃合いではなかろうか。


 確かめようにも、〈黒犬〉の独房には窓の類が一切なかった。


 鎖に繋がれたまま、〈黒犬〉はまた昨晩の戦いを振り返っていた。


 何度振り返ったところで、完敗というほかはなかった。


 作戦開始当初は何もかもがうまくいっているように見えていたのだ。

 敵は〈黒犬〉が仕掛けた策にはまり、囮の奇襲部隊に向けて戦力を集中していた。


 だが、おそらくそれ自体が敵の罠だったのだ。

 敵はこちらの策を見破り、その上であの塔の中に〈黒犬〉達を誘い込むため、敢えて策に引っかかったように見せかけていたにちがいなかった。


 〈魔王〉(アイツ)があそこで待ち構えていたのがその証左だ。

 さもなければ、最大戦力であるはずのあいつを、あんなところで遊ばせておくはずがない。


 殺された戦友や、狼鷲(あいぼう)のことを思うと〈黒犬〉ははらわたが煮えくり返るようだった。

 敵に対してではない。

 うかうかと敵の罠にはまった、己の迂闊さに腹が立つのだった。


 だが、敗北を認めはしても、それは〈黒犬〉にとって諦める事と同義ではなかった。


 生きている間はチャンスがある。


 幸いにも、人間どもは〈黒犬〉を生かしておきたいらしい。

 なぜかはわからない。


 〈黒犬〉は〈魔王〉が自分を生け捕ろうとしていると、戦っているときから気付いていた。

 奴に一矢報いてやることができたのも、それを逆手に取ればこそだった。


 〈黒犬〉は必ず機が巡ってくると自分に言い聞かせながら、その時を待っていた。

 次は必ず勝ってみせる。


 だが、この状況で絶望に飲まれずにいるのは、さすがの〈黒犬〉にとっても大変な精神力を必要とする難事だった。




 不意に、遠くで扉が重々しく開閉する音が響いた。


 続いて複数の足音が、幾重にも反響しながら近づいてくる。

 〈黒犬〉は鎖につながれたまま、内心で身構えた。


 扉を開けて姿を現したのは予想通りというべきか、〈魔王〉その人だった。

 顔面に火傷と銃創を負っている。昨晩の戦いで〈黒犬〉が負わせたものだ。

 その小さな勝利の痕跡に、〈黒犬〉は少しだけ留飲を下げた。


 続いて小柄な人間が一人。


 その手に握られた鎖の先に、年若い女性がつながれているのが目に入った。

 この寒い中、靴も与えられず、ただ薄い粗末な服だけを着せられていた。


 何たる仕打ちか!


 〈黒犬〉はここに来て初めて、人間に対し怒りを感じた。

 奴らはこの乙女をどうするつもりなのであろうか?


 目の前で仲間を痛めつけて見せる尋問法があることを〈黒犬〉は知っていた。

 それが、時として当人を痛めつけるよりずっと効果があるということも。


 〈黒犬〉はこれから始まるであろうことを想像し、怖れた。

 怖れながらも、彼は〈魔王〉を怒りのこもった目で睨み付けた。


 すると意外なことに、〈魔王〉の顔に戸惑いらしきものが浮かんだ。


 〈魔王〉は〈黒犬〉の怒りの原因にすぐに気付いたようだった。

 彼は、背後の扉が閉まると同時に、小柄な人間に命じて女性の首輪を外させた。


 その時に女性が見せた仕草は、〈黒犬〉にとって少々意外なものだった。

 彼女は不安そうな様子を見せることなく、彼らにされるがままに顎を上げて喉をさらした。

 この人間たちをそれなり信頼しているらしい。


 よくよく見れば、彼女は血色もよく、傷つけられた様子もない。

 思いのほか、真っ当に扱われているらしいことがうかがわれた。


 同時に、どこかで見たことがある顔だ、と〈黒犬〉は思った。


 彼女は一歩前に出ると、〈黒犬〉に向かって一礼した。

 貴人向けの優雅な礼だった。


 それを見た瞬間、〈黒犬〉は彼女が何者であったかを思い出した。

 この女は確か、辺境伯の第二令嬢に仕えていた侍女ではなかったか!


 〈黒犬〉が思わず身を乗り出して問うと、彼女は消え入りそうな声でそれを肯定した。


 なんということだ!

 彼女が生きているということは、第二令嬢も生きている可能性があるということだ。


 朗報だった。

 これを聞けば、辺境伯も大いに喜んでくれるに違いなかった。

 病すら吹き飛ばせるかもしれない。


 〈黒犬〉は状況も忘れて矢継ぎ早に質問を浴びせた。


 姫様は、今どこにおられるのか。


  分りません。


 生きておられるのか。


  分りません。


 最後にあったのはいつか。


  もう三年以上前です。捕まってすぐに別れ別れになりました。


 どこで別れたのか。


  奴隷市場です。


 お前はどうして一緒にいなかったのか!

 なぜ人間に協力している! 恥を知れ!


 〈黒犬〉の非難の言葉に、侍女はとうとう泣き崩れてしまった。


 泣き崩れる侍女に小柄な人間が寄り添い、なにか慰めの言葉のようなものをかけ始めた。


 女のか細い泣き声を聞いて、〈黒犬〉はすぐに冷静さを取り戻した。

 このような状況下で、か弱い女に一体何ができようか。


 様々な困難に耐え、生き延びようと必死であがいてきた違いない。

 何のことはない、今の自分と何も変わらないのだ。


 そんな彼女に、自分はなんと酷な言葉を浴びせてしまったのだろうか。

 これではどちらが悪かわからないではないか。


 鎖につながれたまま気まずい思いをしていると、〈魔王〉と目が合った。

 そいつは、呆れたような目で〈黒犬〉を見下ろしていた。


 〈黒犬〉はその視線に耐えきれず、そっと目をそらした。


 *


 花子が落ち着くまでにしばらく時間がかかった。

 花子を介さず文字だけでやり取りすることも考えたが、結局彼女を待つことにした。


 俺が把握できるのは辞書に載っている単語だけだ。

 文法については殆ど理解できていない。

 だから、読む方は推測で何とかなっても、文章を書くとなるとさっぱりなのだ。

 この辺りは賢者様が到着してからの課題だな。


 文字を書かせるために〈黒犬〉の鎖を解くのにも抵抗があった。

 臆病というなかれ。

 手加減していたからとはいえ、勇者たる俺をあれだけ追い詰めてのけたのだ。

 それに万が一自決でもされたら大変だしな。



 ようやく花子が落ち着いたころには、地下牢の扉を開けた時の緊迫した空気がすっかり霧散していた。

 


「昨夜の、襲撃の、目的は、なにか」


 俺は単語をひとつづつ区切りながら尋ねた。

 花子は指を追って数えながらそれを聞いていた。


 分らなかったり聞き取れなかった言葉があれば、その番号を俺に伝えることになっている。


 花子はこちらを見上げて指を二本立てた。

 "襲撃"がわからなかったらしい。


 語学レッスンの成果か日常会話はある程度通じる。

 だが、普段使わない言葉の学習はまだあまり進んでいない。

 俺は賢者様の辞書から"襲撃"を探し出し、対応するオーク語を花子の持つ石板にチョークでかき込んだ。


 納得したらしい花子が、ブヒブヒと鼻を鳴らしてそれを〈黒犬〉に伝えた。


 こちらの質問に〈黒犬〉が短く答えた。

 それをまた花子が石板に書き込んでこちらに見せる。


 答えが短いのはありがたかった。

 辞書を引くだけでも大変なのに、もし単語がずらずらと並んでいたら、文章を解釈するのにずいぶん時間がかかってしまう。


 今回読み取れたのは、"壁"、"壊す"。

 壁というのは、おそらく〈竜の顎門〉のことだろう。


 彼らは〈竜の顎門〉を壊しに来ていたらしい。

 だが、いったいどうやって?


「どうやって、壊す?」


 俺の言葉を花子が〈黒犬〉に伝え、〈黒犬〉の言葉を花子が、ええい!面倒だ!


 Q.どうやって壁を壊すつもりだったのか?

  A.青い宝玉を光る部屋の中心の窪みに入れれば崩壊すると聞いている。


 青い宝玉とやらは、昨夜こいつの物入れから零れ落ちたあれのことだろうか。

 俺は自分のポケットからそれを取り出して見せた。


 Q.宝玉というのはこれか?

  A.そうだ。


 やっぱりこれか。

 だが、出所はどこだ?


 Q.この宝玉はどこで手に入れたのか?

  A.学者たちが遺跡で手に入れたと聞いている。

    詳しいことは知らない。


 Q.大魔法陣の間への侵入方法をどこで知った。

  A.学者たちが遺跡で見取り図を見つけたと聞いている。

    詳しいことは知らない。


 なるほど、奴らは遺跡で〈竜の顎門〉の見取り図と、破壊手段を手に入れたと。

 そんな都合のいいことが本当にあるのだろうか?


 いや、逆か。

 奴らがそれを見つけたから俺が送り込まれたのだ。


 それに、彼の言い分を裏付けるものもある。

 彼の鞄から出てきた見取り図には、オーク語の他に何か所か古代文字が書き込まれていたのだ。

 大本の古文書からそのまま写し取ったものであろうというのが、それを見せた際のウォリオンの見解だった。


 過去にはリーゲル殿が古代人の都から、〈竜の顎門〉の魔法陣に関わる書物を持ち帰っている。

 他にも史料や遺物が残っていてもおかしくはない。


 〈黒犬〉の目をじっとのぞき込んでみる。

 嘘をついているようには見えないが、確信は持てなかった。


 俺は大きく息を吐くと、天井を見上げた。

 もうクタクタだ。


 こうして文章にすれば大したことのない、短いやり取りに見えるだろう。

 だが、いまだになれないオーク文字と格闘しながら、たったこれだけのことを半日かけて聞きだしたのだ。


 疲れているのは俺だけじゃない。

 花子も〈黒犬〉も、冗長なやり取りにうんざりしている様子だ。


 どの道、真偽を確かめる手段はない。

 これ以上詳しいことを聞き出すには、賢者様にいろいろ教わった後の方が効率的だろう。


 今回(・・)はここまでだな。

 できれば、こいつとは友好的にお別れしたいものだ。


 俺は独房の扉を叩き、外にいる番兵たちに合図した。

 番兵の一人が除き窓から中の様子を確認した後、ガチャリと大きな音を立ててカギを開けた。


 俺たちが出ると、再び重々しい音と共に扉は施錠された。

 地下牢の外扉でも同じ手順を繰り返す。


 外に出ると、もうすっかり日が傾いていた。


 大きく深呼吸。

 冷え切った新鮮な空気が肺に染みる。


 地下牢の空気は淀んでいて、あまり健康的とは言えない。

 アイツにもこの空気を吸わせてやりたいものだが、もう少し我慢してもらわないとな。


 *


 翌朝、俺は激しく扉が叩かれる音で目を覚ました。


 大急ぎで着替えて部屋のドアを開けると、エベルトが真っ青な顔をして部屋の前に立っていた。

 わざわざ守備隊長自らが出向いてきたらしい。

 道理でノックの音が大きいわけだ。


「大変申し訳ありません」


 彼は開口一番、床につかんばかりに頭を下げた。


「一体どうしたんですか?」


「〈黒犬〉に、逃げられました」


 俺は精一杯驚いて見せる。


「あの地下牢からですか!? どうやって!」


「それが全くわからぬのです。

 警備についていた兵たちは全員気絶させられておりました。

 自分たちがなぜ気絶していたのかすらわからぬありさまで。

 鍵は奪われ、〈黒犬〉の独房は空になっておりました」


 なんということだ。

 さすが〈黒犬〉、並のオークにはできないことを平然とやってのける。


「番兵には最も優秀な者たちを充てていたのですが、こうもあっさり牢を破られてしまうとは。

 苦労して奴を生け捕られた勇者様には、お詫びのしようもございません」


 そう言って、彼は痛々しそうに俺の顔を見た。

 火傷のおかげで髭も剃れない上に、軟膏でベタベタだ。

 みっともないからあまり見つめないでほしい。


「閣下に非はありません。

 あれだけの警備を突破されるというのは、誰にとっても想定外でしょう。

 本当に〈黒犬〉というのは恐ろしい奴ですね」


 俺の慰めの言葉も、エベルトには何の効果もないようだった。

 彼の拳が悔しそうに握り締められた。


「ところで、〈黒犬〉を捕らえていたことを、王都には報告していましたか?」


「いえ、まだあれが〈黒犬〉とは確定しておりませんでしたので。

 王都にはただ『敵の撃退に成功した』とだけ報告しています」


「分かりました。

 それなら、この件は王都に報告する必要はありませんね」


 俺の言葉に、エベルトは信じられないという顔をした。


「そのようなわけにはまいりませぬ!

 それでは勇者様の功績が最初からなかったことになってしまいます!

 この度の失敗の責は、きっちりとこの私が負いますのでどうか――」


「手柄なら大魔法陣の間の防衛だけで十分ですよ。

 それに、私はいずれこの世界から立ち去る身。

 領地や財産に興味はありません」


 そう言いながら、俺は彼の肩に手を置いた。


「それよりも私に必要なのは、心強い味方です。

 世界を救うためにはそれが必要なのです。

 警備には一番優秀な兵士たちが当たっていたのでしょう?

 王都に報告すれば、彼らに重い処分を課さざるを得なくなります。

 それは損失です。私の望むところではありません。

 もちろん、貴方についてもです」


 エベルトの顔が感動で打ち震えていた。


「何というありがたいお言葉……!

 この御恩、決して忘れませぬぞ!」


「はい、よろしくお願いします。

 あなたの武勇を必要とする日がきっと来るでしょうから」


 俺たちは、固い握手を交した。


 俺の背後では、何者かが気配だけで大騒ぎをしていた。

 昨晩からずっとこの調子だ。うるさいったらありゃしない。


 だが、一つ分かったことがある。

 こいつらの力は、思っていたよりもずっと弱い。


 強制送還や勇者の力の取り上げも覚悟していたのだ。

 だが、今のところ何も起きてはいない。


 *


 荒野を一人、トボトボと歩いていた〈黒犬〉は何とはなしに振り返った。

 背後には、巨大な山脈が壁のように聳え立っていた。


 彼の脱走を手引きしたのは、誰あろう〈魔王〉その人だった。

 別れ際、〈魔王〉はあの青い珠を投げてよこすと、例の侍女を通じて言った。


 "その珠は決して手放すな"


 どういう意味かは分からないが、そう告げた〈魔王〉の目からは、種族の壁を越えてその真剣さが伝わってきた。


 地上へ向かう通路には、番兵たちが点々と倒れ伏していた。

 つまり、〈黒犬〉の釈放は奴の独断であるらしい。


 〈黒犬〉には、〈魔王〉の考えが全く読めなかった。


 ともかく、情報を持ち帰らなくてはならない。

 それについて考えるのは、辺境伯らの仕事だ。

 あのドラ息子はいったいどんな反応をするだろう。


 信用しない可能性が高いな、と〈黒犬〉は考えた。

 二重の意味でだ。

 人間の言葉も、〈黒犬〉の言葉も、あいつにとって信用に値するとは思えない。

 

 だが、辺境伯はどうだろう?

 あの大恩ある老オークにとって、第二令嬢に生存の可能性があるという知らせは朗報に違いないはずだ。


 歩きながら、〈黒犬〉はうしなった相棒のことを思った。

 あいつがいれば、ずっと早くこの知らせを持ち帰ることができるのに。


 あの狼鷲とは、共に戦死した戦友たちより長い付き合いだった。

 危機を脱した今になって、ようやく喪失感が〈黒犬〉を襲った。


 その時不意に、ピーッ!という呼子の音が響いた。

 聞きなれた音だった。


 いつの間にか足元ばかり見ていた〈黒犬〉は、顔を上げて辺りを見回した。


 遥か彼方に狼鷲兵の群れがいた。

 間違いない、〈黒犬〉の部下たちだ。


 彼らは、〈黒犬〉の無事を信じ、危険を冒して待っていてくれたのだ。


 〈黒犬〉は彼らに向かって大きく手を振った。

 兵士たちが歓声を上げてそれに応えた。


書き溜めの在庫が尽きたため、しばらく休みます。

書き溜めの残量が回復次第(10話以上)再開する予定です。

三か月以内に再開できればと考えています。

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