第四十五話 一夜明けて
オークの襲撃から一夜が明けた。
俺はあくびをしようとして、顔面に走った痛みに顔をしかめた。
しかめたせいでまた顔が痛んだ。
〈黒犬〉の反撃で顔に火傷を負っていたのをすっかり忘れていたのだ。
要塞付きの医僧によれば、多少の跡が残るかもしれないとのことだった。
同時に、左腕の傷もズキズキと疼きだす。
まったく、昨夜は本当に危ないところだった。
闇雲に振り回した左腕が、たまたま〈黒犬〉のナイフを防いでいなければ、今頃俺は死んでいたかもしれない。
俺は服を着替えると、顔に医僧から渡されたベタベタの軟膏を塗って部屋を出た。
仮眠明けの眠たい目で空を見上げると、ヴェラルゴンが白い翼を悠然と広げて頭上を過ぎていくところだった。
乗り手もなしに解き放たれた竜が、竜舎に向かって降下していく。
なんでも、銃声で目を覚ましたヴェラルゴンが竜舎の中で暴れだし、手に負えなくなったので止む無く空が白み始めると同時に解き放ったという話だった。
大方、オークの血の匂いを嗅ぎつけて、いてもたってもいられなくなったのだろう。
ヴェラルゴンの口元が赤く染まっているのが地上からでも見て取れた。
ずいぶん大暴れしてきたらしい。
俺はあくびを噛み殺しながらエベルトのところへ向かった。
現在の状況を確認するためだ。
まぁ、仮眠に入ったままこんなに日が高くなるまで放置されていたのだから、たぶん新しい問題は起きていないはずだ。
俺をこの世界に送り込んだ何者か達も、今は静かになっていた。
気配がなくなったわけではない。
俺がどうするつもりなのか、見極めようとしているのかもしれない。
なに、悪いようにはしないさ。
十二の世界を救った勇者を信じてくれよ。
エベルトは〈門塔〉の前で、兵士達の報告を受けているところだった。
「おぉ、勇者様!丁度良いところに。
谷に送り出した偵察隊が戻ってきたのです」
「何か分かりましたか?」
「えぇ、どうやら私はすっかりオークどもの策にはまってしまっていたようですな」
聞けば、谷底の松明はやはり俺たちの注意を引くための囮だったようだ。
クチバシ犬の奇襲部隊が退却した後も、谷底の軍勢には相変わらず動きがない。
確認のため夜明けを待って偵察隊を送り込んだところ、大量の松明だけが発見されたという。
足跡の様子から、少人数で松明に火をつけて回り大軍がいるように見せかけていたらしい。
古典的な手だが効果は十分だった。
「奴らの真の狙いを見抜くとは、さすがは勇者様ですな」
「自由に動くことを許して頂いたおかげです。
完全に策を見抜けていたわけではありませんが、どうせ余っている身ならと最悪に備えたのがうまく働いたようです」
「おかげで救われました。
しかし、あの攻撃は、明らかに大魔法陣の間に狙いを定めたものでした。
一体、奴らはどうしてあの場所を知ることができたのか……」
「そうですね。
まずは奴らの情報の出所を確かめなくてはいけません。
村への伝令は送ってくれましたか?」
「はい。
間もなく護衛とともにこちらにつく頃でしょう」
その時、竜舎の方で騒ぎが起こった。
竜の咆哮。
人間の悲鳴。
それに続く号令の数々。
あぁ!しまった!
何が起こったかを察した俺は、竜舎に向けて全力で駆けだした。
*
〈竜の顎門〉の竜舎は、〈門塔〉の広場を出てすぐ、村へ続く道の途上にある。
その竜舎の前で、一匹の白竜がその翼を大きく広げて威嚇の声を上げていた。
周囲では竜飼いたちがロープを手にヴェラルゴンを取り押さえようとしていたが、ヴェラルゴンは投擲されたロープをいともたやすく振り払う。
荒れ狂う白竜の視線の先には、十名ほどの守備兵が小さな陣を組み、必死の形相で槍を構えていた。
その兵士たちの背後で、ジョージが花子をかばうようにうずくまっている。
ヴェラルゴンが、さっさとどけと言わんばかりに兵士たちに向けてもう一吼えした。
相当苛立っているな。
しかし、あのヴェラルゴンに吼えられても怯まないとは、流石は人類の防人たちだ。
昨晩の戦いぶりといい、非常によく訓練されている。
おっと、感心している場合じゃない。
早く助けてやらないと。
既にヴェラルゴンの火炎袋が空っぽになっているらしいのが幸いだった。
さもなければ、全員まとめて焼き殺されていたかもしれない。
「おい! ヴェラルゴン! とまれ!」
俺はヴェラルゴンに声を駆けながら近寄った。
早いとこ、あいつを落ち着かせなくては。
最悪、背中にまたがって制御権を確保し、竜舎の中に押し込んでやろう。
そんなことを考えながら近づいた俺に、尻尾の一撃が飛んできた。
とっさに屈んだすぐ上を、ブォンという低い唸りとともにヴェラルゴンの太い尾がかすめていく。
おっと、本気だ。
こんな対応を受けたのは初めて乗ろうとした時以来だ。
コイツがこんなに怒り狂っている原因は、おそらく花子だろう。
ブンブン尻尾を振って俺の接近を防ぎつつも、花子から決して視線を外さない。
ヴェラルゴンはオークをそれは強く憎んでいる。
あの賢い竜は、オークに殺されたかつての自分の乗り手のことを今でも忘れていないのだ。
できれば今の乗り手のことも忘れないでほしい。
俺はどうにか尻尾をかいくぐりながら、ヴェラルゴンの鞍ない背にしがみついた。
その途端、ヴェラルゴンの感情がどっと流れ込んでくる。
俺はそれに抗うのにほとんど全ての精神力をつぎ込まなければならなかった。
その上ヴェラルゴンは俺の制御に逆らって、頑としてこの場から動こうとしない。
とてもじゃないがコイツを竜舎に押し込むどころじゃない。
「おい!俺が抑えている間に、花子をさっさと連れていけ!」
俺は必死で竜を抑えながら、ようやく叫び声をひねり出した。
ジョージがコクコクと頷き、花子を立ち上がらせた。
それから、護衛の守備兵たちと一緒に、恐る恐るヴェラルゴンの足元をすり抜けていく。
どうどうどう。
ほら、もうオークはいないから落ち着け。
な?
花子たちが視界から消え、ようやくヴェラルゴンも落ち着きを取り戻した。
渋々といった様子で抵抗をやめ、俺に制御権を引き渡す。
俺はほっと一息ついた。
とはいえ、相変わらずオークへの憎悪がグルグルと渦巻いている。
おまけに邪魔をした俺に対しても相当の苛立ちを感じているらしい。
ヴェラルゴンの視界が、周囲をぐるりと見まわしす。
その視線に気圧されて、ヴェラルゴンを取り囲んでいた竜飼いたちが二三歩あとじさるのが見えた。
「か、閣下……、申し訳ありませんが、しばらくの間そうしておいていただけないでしょうか……」
あぁ、うん、わかってる。
このままこいつを彼らに引き渡すのはさすがにかわいそうだ。
「分かりました。少し飛んできます。
牛を何頭か用意しておいてください」
「了解しました」
それから俺は、ヴェラルゴンを〈竜の顎門〉から少し離れたところに連れていき、そこでしばらく自由に飛行させた。
ヴェラルゴンは、ストレスを振り払おうと散々にアクロバティックな飛行をしてくれた。
鞍なしでそれに付き合うのは本当に命がけだった。
竜舎に戻れば、竜飼いたちがたっぷりの生肉を用意して待っているはずだ。
そいつを食べて機嫌が戻ってくれればいいんだが……。
*
食事を終えたヴェラルゴンを竜舎に預けた俺は、〈竜の顎門〉の主塔へ足を向けた。
それにしても本当にひどい目にあった。
両手の感覚がない。
寒空の上で、切り裂くような冷風に耐えながら、ヴェラルゴンにしがみつき続けたせいだ。
幸い凍傷にはならなかったようだ。
両手にニギニギと力を籠めると、ゆっくりと指が動いた。
左腕の痛みがさっきよりもひどくなっている気がする。
ちくしょう、怪我人に無茶させやがって。
後でもう一度医僧に見てもらおう。
主塔ホールの炉の前に座り込みたいという誘惑に耐え、地下へと向かう。
地下牢の手前で、ジョージと花子が二人の兵士とともに俺を待っていた。
俺はジョージ達にねぎらいの言葉をかけた。
「お待たせしました。
怖い思いをさせてしまいましたね。
大丈夫でしたか?」
「はい、閣下。
お助けいただきありがとうございます」
そう言ってジョージは花子とともに俺に頭を下げた。
「花子を失うわけにはいきませんから、当然ですよ。
ジョージも、良く花子を守ってくれました」
ヴェラルゴンに睨まれてもなお、ジョージは花子をかばい続けていた。
あの勇気は称賛に値する。
頼りないように見えても、さすがは大盟主の子というわけだ。
スレットと同じ血が流れているだけのことはある。
「ところで、辞書と石板は忘れずに持ってきてくれましたか?」
「はい、閣下。
こちらに」
そう言ってジョージは辞書を差し出してきた。
石板とチョークは花子が小脇に抱えている。
「よろしい。では行きますか」
地下牢の扉を守っている番兵が、無骨なカギを差し込んで扉を開ける。
俺たち全員が入ると、背後で扉が閉まり、再び施錠する音が響いた。
「それで、〈黒犬〉はどこに?」
「一番奥の独房につないであります。
ついてきてください」
そう言って前に出た兵士に続き、地下牢の奥へと向かう。
「こちらです」
一番奥の扉の前には、さらに二名の番兵が待機していた。
ずいぶんと厳重なことだ。
まぁ、こいつに万が一のことがあれば俺も困る。
兵士の一人が、小さなのぞき窓を開けて内部を確認し、それから小ぶりなカギを取り出して扉を開けた。
〈黒犬〉は奥の壁に両手を上げるようにして鎖でつながれていた。
俺が独房に入ってくるのを見て、その眼がギラリと光った。
捕まった時と同じ、不屈の目だ。
コイツはまだ挫けていないらしい。
だが、すぐにその眼がさらに鋭くなった。
心なしか、怒っているように見える。
一体何事だ?
コイツを怒らせるようなことは、まだ何もしていないはずだが。
俺が振り返ると、俺に続いてジョージが花子を連れて部屋に入ってくるところだった。
なるほど。そういうことか。
うら若い乙女――かどうかは知らないがたぶんそうだ――が、首輪でつながれた状態で連れてこられれば、正義感の強い者なら当然怒りも覚えよう。
ジョージの背後で、扉が閉まる。
続いてガチャリと鍵をかける音。
「ジョージ、花子の首輪を外してください」
「はい、閣下」
さて、ここからが本番だ。
とうとう、これまでの訓練の成果を試す時が来たのだ。
基本的な手順はもう決めてある。
俺の言葉を、花子が翻訳してオークに伝える。
オークの言葉を花子がオーク語で石板に書き、俺はそれを辞書を頼りに翻訳する。
花子には人間の文字を教えていない。
辞書の中身も、なるべく花子には見せないようにしてきた。
これは、万が一花子を奪還された際に、オーク側に渡る人間の情報を最小限にするためだ。
訓練で教えたのも、俺の言葉だけだ。
通訳として俺とともにオークと接触することになる花子には、常に奪還や逃亡の恐れが付きまとう。
もっとも、無駄な努力ではあるかもしれなかった。
ジョージ達の日常会話を聞いて、この世界の言葉をある程度覚えてしまっている可能性は高い。
花子は賢いのだ。
それに、オークは捕まえた人間をむごたらしく殺すとされているが、それが本当かは誰も知らない。
花子は捕まった人間など見たことがないとは言っていたが、こっそりと捕虜をとって人間語を研究したオークがいないとも限らない。
その場合、花子を隠しても無駄だ。
もっとも、オーク達から人間に対して接触があったという話は、今のところ聞いていない。
話がそれた。
俺はこれから〈黒犬〉を尋問するのだ。
いよいよ、オーク文明との本格的な接触の時が来たのだ。
花子が一歩前に出て、〈黒犬〉に向かって一礼した。
さぁ、始めようか。
そう思って口を開きかけた瞬間、〈黒犬〉が前のめりになって花子に向って何か鼻を鳴らした。
それを聞いた花子の目が大きく見開かれた。
おや?知り合いだったのか?
ブヒブヒと力なく答えた花子に向かって、〈黒犬〉が非難めいた調子で鼻を鳴らす。
ずいぶんと激しい。
二三の短いやり取りの後、花子はその場にゆっくりと崩れ落ちて、おいおいと泣き始めてしまった。
ジョージがすかさず花子の傍に膝をつき、トントンとあやすようにして慰め始めたが、一向に泣き止む気配がない。
花子がこれじゃ仕事にならない。
おいてめぇ、この場をどうしてくれるんだ。
〈黒犬〉と目が合った。
彼は俺の非難の視線を受けて、気まずそうに目をそらした。
あーやっちまった、とでも言いたげな表情だ。
許さんぞお前。
次回は3/20を予定しています




