第四十三話 〈魔王〉
要塞の東端では、エベルトの直々の指揮のもとで守備兵たちが奮戦していた。
闇の中からクチバシ犬共が飛び出し、その背のオークが手にした短銃から弾丸を浴びせかけてくる。
その都度、守備兵がバタバタと倒れ伏すが、その戦列は揺るぎもしない。
びっしりと並んだ槍衾がクチバシ犬の突進を防ぎ、装填のために引き下がるオークの背に後列から放たれたクロスボウの矢が降り注ぐ。
〈竜の顎門〉の守備兵は、諸侯軍が連れて歩くようなゴロツキまがいの傭兵や農民兵どもとは訳が違うのだ。
彼らは常日頃から訓練を積み重ねてきた職業軍人だ。
その上、その殆どが”討伐軍”での従軍経験を持つ実戦経験者でもある。
〈竜の顎門〉の城壁は広い。
日常彼らが行き来する城壁の最上部ですら、広いところでは30歩以上の厚さがある。
特に、谷の東岸にある街道との接続部にもなっている〈門塔〉付近は一辺二百歩はあろうかという広場になっていた。
エベルトはそこに守備隊を扇状に展開させ、〈門塔〉の入り口を守っていた。
襲撃が始まった時点では、押っ取り刀で駆け付けた一握りの守備兵が、かろうじて薄い横隊を形成していただけだった。
しかし、すぐに各部署からの増援が続々と到着し始め、今では幅、厚み共に申し分ない戦列が出来上がっていた。
危ないところだった。
エベルトはほくそ笑んだ。
もし判断が遅れていたら、〈門塔〉内部への侵入を許していたかもしれない。
長いこと実戦から離れてはいたが、まだまだ自分の勘が鈍っていない事が分かって嬉しかった。
やや遅れて、戦儀神官達から護符が届けられた。
攻撃の合間を縫って最前列の兵士に配布され、瞬く間に〈加護の魔法〉による魔法障壁が展開されていく。
オークどもが一斉射撃を行った。
青白い閃光とともに、魔法障壁が全ての攻撃を弾いた。
エベルトは勝利を確信した。
「戦列前へ!」
号令一下、後列の弩兵が一斉に矢を放ち、同時に前衛が戦列を一切乱すことなく前進を開始した。
広場に展開していたクチバシ犬共は慌てふためいて斜面に縋り付き、山の中へ逃げていく。
(ちっ!逃げ足ばかり早い奴らだ!)
逃げ遅れたオークどもに止めを刺しながら山際まで前進し、そこで隊列を停止させる。
エベルトは致命的な打撃を与えられなかったことに苛立ちつつも、ひとまず敵を追い払ったことに満足した。
だがその時、敵は意外な行動をとり始めた。
こちらの前進が止まると同時に山の中から再度発砲してきたのだ。
オーク達の射撃は、その発砲地点が全くのバラバラだったにもかかわらず数か所に集中して着弾した。
射撃が集中した地点では魔法障壁が粉砕され、幾人かの兵士が苦痛のうめきを上げた。
エベルトはその統制の見事さに舌を巻いた。
何ということだ! この闇の中で、あんな射撃を行わせることができるとは!
さて、どうしたものか。
山の中に追撃を仕掛けるのは自殺行為だ。
さりとて、ここでこうしていても損害が増えるばかり。
その時、エベルトの視界の隅で何かが星明りを反射してチラリと光った。
余人には見えずとも、数多の戦場を駆け抜けた歴戦の武人たるエベルトはそれを見逃さなかった。
村の方から何かがくる。
増援だ。
休暇で村に出ていた兵士たちが戻ってきたのだ。
誰だかは知らないが、兵士たちのまとめ役に気の利いたものがいたらしい。
彼らは松明を持たずにこちらへ向かっている。
ありえない位置から響く銃声を聞き分け、とっさに対応したに違いなかった。
ならば。
「いったん下がれ!
〈門塔〉入口まで戻るのだ!」
まずはあのクチバシ犬共を、広場に再び引きずり出す。
そこで射撃戦を行わせておいて、村から接近中の増援を使って側面をつく。
あるいは、タイミング次第では挟み撃ちにすらできるかもしれない。
数からすれば大した戦力ではないが、奇襲となればその額面以上の衝撃力を発揮しうる。
エベルトは湖岸の道をこちらに向かってくる増援部隊に向けて伝令を走らせ、同時に隊列をゆっくりと戻し始めた。
後は奴らが誘いに乗るのを待つばかりだ。
果たして、奴らはこちらに射撃を浴びせるべく、再び広場に姿を現した。
こちらのクロスボウが一斉に矢を放ったが、闇の中で散開して動き回るクチバシ犬達には大した被害を与えられない。
オークどもが一斉射撃を行うたびに、一人、また一人と守備兵が倒れていく。
(今に見ておれよ……! 増援が到着しさえすれば――)
突如、かなたの闇の中に閃光と銃声が響いた。
同時に、兵士たちの悲鳴、獣の咆哮。
「やられた……!」
クチバシ犬共にも別動隊がいたのだ!
頼みの増援がその別動隊に奇襲を受けた。
エベルトは決定打を失ったことに歯噛みした。
だが、彼は冷静さを失いはしなかった。
(大丈夫だ。決定打を持たぬのは奴らも同じ。
〈門塔〉の奪取という目的を果たせない以上、奴らに勝利の目はない。
朝になり、竜が飛び始めればこちらの勝ちだ。
奴らの短銃では竜は墜とせぬ)
その時、微かな銃声が背後で響くのをエベルトの耳が捕らえた。
(背後だと!?)
エベルトは兵力の殆どを〈門塔〉に集めていた。
西側には最低限の見張りしか残っていない。
「門を背に半円陣を組め!
戦儀神官を〈門塔〉内に収容しろ!」
城壁の上で先ほどから〈加護の魔法〉の儀を行っていた神官たちに伝令が送られ、一斉射撃の合間を縫って粛々と陣の組み換えが行われていく。
(これで良し。例え敵の数が倍に増えたとしても、十分持ちこたえられるはずだ。
主塔の水門制御室にも守備兵を配置している。建物の内部ではクチバシ犬といえど大した脅威にはならん。
だが――)
エベルトはここでふと一つの懸念を抱いた。西塔が無防備なままだった。
もし大魔法陣の間に侵入されでもしたら、魔法陣はもちろん神官たちが危険に晒される。
(――いや、そのようなことオークどもが知りうるはずもない。全力でこちらを狙ってくるはずだ)
そう考えて、不吉な予感を振り払う。
これでいいはずだ。これ以上兵を分散させるわけにはいかない。
だが、西側に現れたはずの敵勢は一向にこちらに姿を見せなかった。
(ま、まさか本当に……!)
エベルトの顔面が、蒼白になった。
*
〈黒犬〉は相棒とともに闇を駆けた。
背後に付き従うは僅か五騎。
いずれも手練れの中の手練れ。今はもう残り少ない、旗揚げ以来の戦友たちだ。
急斜面を真っ逆さまに駆け下り、城壁へ跳ぶ。
間抜け面でこちらを見上げる見張りを、声を上げる間も与えずに切り伏せながら着地する。
事態に気づいた人間どもが、〈黒犬〉らの突進を阻止しようと三人ばかりで小さな槍衾を作る。
すかさず背後の戦友らが発砲し、全員を撃ち倒した。
事態を味方に伝えるためだろう。こちらに背を向けて走る人間が一匹。
少し距離があったが、〈黒犬〉は苦も無くその背に銃弾をぶち込んだ。
再装填する間も惜しい。
〈黒犬〉は短銃を投げ捨て、ベルトに差した次の銃を抜く。
投げられた銃は、鞍の後ろに吊られた袋の中にきれいに収まった。
〈黒犬〉は仲間とともに駆けた。
急がねばならない。
今のところ、作戦は予定通り進行している。
敵は戦力を門のある東側に集中させており、こちら側には見張りしか残していない。
だが、それもわずかな間だけのことだ。
今の銃声で、奴らもこちらの存在に気づいたはずだ。
西塔の入口に立っていた見張りを手早く片付けると、騎乗したまま内部に突入する。
狼鷲は狭い螺旋階段を猛然と駆け上がっていく。
あっという間に塔の最上階に到達した。
見張りにあたっていた兵士が槍を突き出してきたが、〈黒犬〉の狼鷲はそれをするりとかわしながら兵士の喉元に食らいつき、一瞬で絶命させた。
〈黒犬〉は鞍からひらりと飛び降りると、物入れから例の報告書を取り出し、そこに記されているのと同じ彫像を探す。
それは探すまでもなくすぐに見つかった。
その像を持ち上げると、背後の床が音もなく持ち上がり、新たな下り階段が姿を現した。
何もかもが、報告書の記述通りだ。
〈黒犬〉は柄にもなく興奮を覚えた。
だが、さすがにこの先には狼鷲は入れない。
その背を降りた〈黒犬〉らは、狭くて急な螺旋階段を大急ぎで下っていく。
人間の歩幅にあわせて作られたそれは、オークにはひどく使いにくい。
ようやく下りきった先、その光景に〈黒犬〉は絶句した。
広大な地下空間。
その床一面に広がる、青白い光を放つ魔法陣。
魔法陣のあちこちから吹き上がる、魔力の微かな燐光。
そして、その中央に立つ、一人の人間。
人間は〈黒犬〉らを認めると、その口を大きく横に広げた。
眼は足元の光を受けて爛々と輝き、ひたと〈黒犬〉を見据えていた。
その、不気味ながらも神秘的な光景に、〈黒犬〉達の動きは止まってしまった。
人間の右手がピカリと光った瞬間にも、まだ〈黒犬〉は動けずにいた。
とたんに、〈黒犬〉の視界がぶれる。
誰かに突き飛ばされたのだ。
先ほどまで彼が立っていた位置を、光の軌跡が通り抜けていく。
彼を突き飛ばした狼鷲兵が、彼に代わってその軌跡に貫かれた。
瞬間、〈黒犬〉は我を取り戻す。
短銃を敵に向け、引き金を引く。
残る四人の仲間も同時に発砲していた。
人間は素早く光る盾を出現させ、その全てを弾いた。
同時に、こちらに向けて突進してくる。
横一線に薙がれた光の槍を〈黒犬〉は伏せるように屈んでかわし、サーベルを抜き放ち切りつける。
だが、その刃が届く前に、人間の長い脚が彼の腹をとらえていた。
〈黒犬〉は強かな蹴りに吹き飛ばされ、壁に打ち付けられた。
肺から空気が抜け、苦痛に咽る。
体が動かない。
分厚い鋼鉄製の胸甲がわずかにへこんでいた。
そんな馬鹿なと笑いたくなったが、ぜぇぜぇという荒い息が出ただけだった。
そんな化け物に、二人の戦友たちが左右から息の合った連携攻撃を仕掛けていた。
だが、人間は鮮やかにそれをかわすと、両手に出現させた光の槍で彼らの剣を斬り飛ばした。
二人の戦友は、柄だけになった剣を投げ捨てると、怯むことなく人間に掴みかかる。
同時に、残る二人が前後から人間に襲い掛かった。
人間は苦も無く彼らの連携攻撃をかわし切ると、舞うような仕草で、一人ずつ光る槍で突き伏せていった。
その間、わずか数秒。
〈黒犬〉は、その様子をただ見ていることしかできなかった。
悪魔のような強さだ。
いや、悪魔どころじゃない。
魔王だ。
そうか、あいつがあの〈魔王〉か!
〈黒犬〉は何故奴がここにいるのか、とは考えなかった。
〈魔王〉であれば、当然そこにいるであろう。
当然のことを考慮していなかった、己の不明を恥じるばかりだ。
ようやく〈黒犬〉が立ち上がった頃には、彼の戦友は全滅していた。
このまま尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
そもそも逃げ出せるとも思えない。
何としてでも、一矢報いてやらねば。
〈黒犬〉は手にしたサーベルをこれ見がよしに構えた。
それを見た〈魔王〉は、その口をますます大きく広げた。
人間の小さな犬歯がむき出しになる。
それから槍を消し、腰の剣を抜いた。
それでいい。
足はまだガクガクだ。
初手のように槍を投擲されれば躱しきれない。
だが、相手の懐に潜り込めれば、万に一つではあるが、勝利の可能性がある。
慎重に、ジリジリと距離を詰めていく。
ぞっとする感覚とともに、〈黒犬〉の足が止まった。
この先は相手の間合いだ。
理屈抜きでそう感じた。
これ以上は、僅かたりとも踏み込んではいけない。
だが、自身の間合いはまだはるか先だ。
体格の違いからくるリーチ差はいかんともしがたい。
緊張で呼吸が荒くなっていく。
〈魔王〉が、ほんの少しだけ踏み込んできた。
死が、全身にまとわりついてくる感覚。
次の瞬間、〈魔王〉が動いた。
軽々と振りぬかれたその剣に、〈黒犬〉のサーベルはあっさりと弾き飛ばされた。
右手がしびれた。
衝撃で大きくのけぞらされた彼の上半身に、〈魔王〉の蹴りが見舞われた。
たまらず仰向けに転がったところを、すかさず〈魔王〉が胸を踏みつけて抑え込んだ。
〈魔王〉はそのまま彼の首元に剣を突きつけている。
人間の表情は読めないが、〈魔王〉は今、勝ち誇っているに違いなかった。
〈魔王〉が、剣を突きつけたままこちらの顔をのぞき込んできた。
(馬鹿め! この瞬間を待っていたのだ!)
〈黒犬〉はいまだ痺れの残る右手で、思いっきり紐を引いた。
パン! という乾いた炸裂音とともに、〈黒犬〉の胸甲に仕込まれた短筒から必殺の散弾が放たれた。
次回は3/6を予定しています。
銃を仕込んだ鎧は実在していたようです(?)
普及した形跡は全くないので、実用性はお察し。




